Ad novam sationem tecum

風のように日々生きられたら

NACK5 ♪J-POP TALKIN’(2週目!!)

2012-06-02 23:39:07 | 日々の徒然
今日も
聞き応え
たっぷりでしたね

以下、
番組のメモと
ちょびっとだけ
感想を


   *    *    *




「奴隷天国」
について

話す
宮本さんの
話し声で

番組が
いきなりはじまって、

ちょっと
びっくり。

そのあと、
DJの田家さんの
お話。

田家さんは

「世界伝統のマスター馬鹿」

「奴隷天国」
との
比較
というところに

とても
興味を持たれたのだと
思う。


大宮フリークスでの
ライブの頃の
お話や

客席の電気を
つけっぱなしの話。

その頃を
髣髴とさせる
イメージを

「世界伝統のマスター馬鹿」

感じたのだと
思う。

田家さんは、
“作風”のようなもの

と言っていた。

江戸の
素浪人のような。

激しさ
荒々しさ。

そして、

それが、
エレカシの
カラー
のひとつのようなものである

と。

そして、

その流れから、


宮本さんとの
お話。


「穴があったら入りたい」
「東京からまんまで宇宙」

について。

おそらく

みんな好きな
ロックバンドの型で


宮本さんは
言った。

ここで
田家さんは、

それらの楽曲に
見られるように

先の
「世界伝統のマスター馬鹿」

「奴隷天国」

お話を
持ち出す。

今、

「世界伝統のマスター馬鹿」
を歌う宮本さんと

かつて、
「奴隷天国」
を歌っていた
宮本さんについて。

宮本さんは
そのイメージについて、

まったくそういうこと
と言った。


人は、変らない。

気持ちは
変らないものなのだ、

と。

ここで、
私は、

冒頭で
田家さんが言った、

“作風”
というのとは、
ちょっと
違うんじゃないかと
思う。


宮本さんは
あくまで

一人の人として

人というものは
変らないものなのだ


言っている。

音楽に対する
表現
(それを作風と呼ぶならば
そういったもの)

というのは、

人の想いの一部、

表現の一部

という
部分的なものである
ような気がするので、

作風
という部分的な
ものではなくて、

人、
そのもの
のレベルでの話を
宮本さんは
しているような気がして、

音楽の表現=宮本浩次
と考えるならば

“作風”が変らない
とも捉えられるようにも
思うけれども、

今回のアルバムでは、
宮本さんは

音楽以外の側面の
自分

人、

というものも
見つめていて。

やっぱり、
ちょっと

田家さんと
宮本さんとの
間で

捉え方が
違っているようにも
感じられました。


細かいけれど。



それは、

「我が祈り」
についての
話にも

通じる。


宮本さんは、

年を重ねて

叫びの出し引きが
出来るようになった

という。


質が違う
叫び。


強さ。

弱さ

繊細さ。


それは、
年とともに
獲得
する
というよりも、


宮本浩次という
一人の人間の中に

その全ての表現が
ある
ということ。

そして、

だからこそ、

全ての答えが
自分の中にある

という意味で


最初から
全て
あった

のだと
思う。



年を重ねるに連れて

それに
気付くようになる。

或いは、
それを
引き出せるようになる。


もっと言えば、

年を重ねることで

そう
表現することが
できるようになる。


そう
することに

なっているかのように。


まるで、
全てのことが

そう
決まっていたかのように。



そんな風に
考えたとき

宮本さんが
「七色の虹の橋」で

全ての瞬間が
MASTERPIECEなのだ

と確かに
わかり、

そう
歌うことができた
という話も

なんだか
すごく
腑に落ちる気がする。



宮本さんは
言う。

自分の中にある

そのひとつを
取り出すだけでも

とても
もどかしいときが
ある

と。


けれど、

例えば、

ゲーム。

(宮本さんは、最初
ファミコンと言ったから

きっと、今
だけでなくて

自分がゲームということを
やった過去のことも

きっと含まれているのだろう
と思う。)

ゲームに
費やす時間、

その時間の浪費に見える行為が

無駄じゃない


あるとき
わかる


宮本さんは

言う。


それから、

涙。



感動して
ふと

涙が出る。


「白鳥麗子でございます!」


泣けたということも。


「翳り行く部屋」で

女性の気持ち
がストレート表現されているな

と思ったことも。


涙は
どこから流れるの


考えたときに

それは、
やっぱり

自分の中の
想いが

それが
素晴らしいと

思えたからこそ
外側に
あふれだしたのだから、

その瞬間には
やっぱり

意味があるのだ

と。


同じように、

忘れていた
自分の声。

たくさんの声が
自分の中にある。


宮本さんは
言う。


それが
ふと
外に出るとき

それが
自分の中に

あったと
気付く。


そういうことを

お話されたと
思う。


宮本さんの
体の中に

たくさんの
声があって、

メロディーがあって。

まだ、
気付いていないものも

たくさんあるのだろう。

そういう
宮本さんの中に
ある

たくさんの
声や
メロディーというものを


それが
宮本さんの

体の中に
いっぱいに
満ちあふれているさまを


私は、
想像した。


それが、

きっと
宮本浩次なのだ


思った。



そして、

「我が祈り」
が流れた。

その
宮本さんの

歌声。

奏でられる
音。

たくさんの

宮本さんの
声。

たくさんの
音。


すごく
感動的に

それを
聴きました。



曲が終わり、
 

古今東西の
芸術家に対する想いについての
お話。

宮本さんは
そういう芸術家を

表現者として
見ている。


純度の高さ。

一生懸命さ。

作品を残すことに
対する想い。

表現者の一人として

古今東西の
表現者を
見ている

と。

例えば、

ボードレール。


「パリの憂鬱」は、

大人になったボードレールの
心の散文


宮本さんの
この著作に対する

想いが
聞けて
よかった。

大人になったボードレールの
心の散文。。。

そうか

と思う。


やはり、
宮本さんは

今の自分が
表現するとは

如何なることなのか、

ということを
考えられたのだろう

と思う。


「MASTERPIECE」の中に
「パリの憂鬱」が

出てきた理由が
わかった。


宮本さん
曰く。

ボードレールは
全部いい。


タイトルもいい。

若いときの
詩集の

「悪の華」もいい。


(以前、その序文に対する想いについても
伺いましたね。)


大人の男が
書くものの

かっこよさ
を感じる。

やっぱり、
ボードレールも表現者
以外の何ものでもない

と。




時間の締めきりの
お話から


あるとき、

30分、

2時間の意味が

わかる

というお話に。



今が全てなんだけど、

それが
全てじゃないんじゃないか

思うときがある。



自分の場所って何処にあるんだろう
って思ったり

するときもある。


野音で

35曲歌いきった
夜に咳をする。

トレーニングが
必要と
感じる。

体を
鍛えていくこと。

今まで
やってこなかったことに
気付いたりも。


そうして、
時間というものを
実感する、

全てが
つながっている

ということを
実感する

というお話だったかな。


そうして流れた

「七色の虹の橋」


宮本さんの
歌声が

今日は
いつになく

やさしく
聴こえた。


この
空の下に

全てがある。

と、

宮本さんは

これまでも
歌ってきた。

けれど、

その空を
見上げたとき

空は
遠くに
あった。

けれど、

宮本さんは
歌っている。


きっと、

虹を超える
と。



もう
既に
超えているのかも
しれない。



生きている

ということは

そういうことなのかも
しれない。


それが

「七色の虹の橋」


聴くたびに

わかる。


曲のあと、


田家さんによる、
このアルバムに
関わった
プロデューサー
のお話。

宮本さんをはじめエレカシと
プロデューサーとの関係。

プロデューサーの
宮本さんに対する
かかわり方について、

きっと
こうなのだろう

という
ご自身の想いを
述べられた。

それは
とても
素敵な

お話だった。


私も
思う。


宮本さん
だからこそ、

きっと
人は

本気になる。


本気で
想いを受け止め、


本気で

生きようと
思う。


この毎日を。


宮本さん

だからこそ。




そんな

宮本さんを

私は、

愛している。



今日も

素敵な番組を

ありがとうございました