Ad novam sationem tecum

風のように日々生きられたら

玉手箱の存在意義

2008-10-25 02:49:08 | 日々の徒然
ちょっと、小ネタ。

昨年まで、N県立図書館の目録作成のため
文献調査に月一回ほどN県を訪れていたのだが、
その時、岩波書店の古典文学大系(通称:旧体系)が重複図書となっており、
「どうせ処分するので、もって帰っていいよ」と言われた。
目ぼしいものは、もう持ち去られていたし、
しかも福岡まで荷物になるので、あまり持ち帰られない。
結局、『古代歌謡集』と『御伽草紙』を頂いて帰った。
その、『御伽草紙』を先日読んでいて気付いたことを書いてみることにする。

ご存知の、浦島太郎の話。
疑問に思ったことはないだろうか。

乙姫様は、何故開けてはならぬ玉手箱を
浦島太郎に渡したのか。
そして、玉手箱を開けてお爺さんになってしまった浦島太郎の
結末を一体どうしてくれよう。

亀を助けて、竜宮城で、そりゃ楽しんだかも知れないけどさ。
結局、帰って来たら、みんないなくなっていて、老いた自分だけ残されるなんて。
そんなこと最初から聞いてたら、私だったら竜宮城へ行くの断ったかも。
なんて、考えたことはないだろうか。

太宰治も『お伽草紙』の「浦島さん」の中で
「あのなつかしい竜宮の名誉にかけても、何とかして
この不可解のお土産に、貴い意義を発見したいものである。」
と述べているので、きっと他にも疑問に思っている人がいる、
ということを前提に話をすすめる。

岩波の旧体系に収められている『御伽草紙』は
底本(基本となる本文の本)を上野図書館蔵本とし、
これは、「酒呑童子」の終わりに
「大坂心斎橋順慶町 書林渋川清右衛門」と刊記のある二十三冊のものである。
(もとは、三十九冊だったが、作品ごとに合綴して二十三冊としてある。)
それに、東大図書館霞亭文庫本、横山重氏蔵本を参照してある。

さて、本文を見てみよう。
まず、浦島が亀を助けるシーン。。。
はなく、浦島が釣りをしていて亀を釣り上げる。


浦島太郎此亀にいふやう、
「汝生有るものゝ中にも鶴は千年、亀は万年とて、
命久しきものなり。忽ちこゝにて命をたゝん事、
いたはしければ、助くるなり。
常には此恩を思ひ出すべし。」
(訳:浦島太郎はこの亀に言ったことには、
「お前は、命のあるものの中でも、鶴は千年、亀は万年といって
命の長いものである。ただ今ここで命を絶ってしまうのも
かわいそうなので、助けるのである。」)

自分で釣っておいて、かなり恩着せがましい感じなのは、ともかく。
とりあえず、ここで一つ目のポイントは「鶴は千年、亀は万年」。

で。
(本文を打つのが面倒くさくなってきたので、以下、現代語要約のみ。)

次の日、また釣りにやってきた浦島は、船に美しい女が
一人乗っているのを発見。
女は、自分を自分の家まで送ってほしいと浦島に頼む。
こうして浦島は女を送り届けるのだが、これも何かの縁と
女と夫婦の契りを結び、しばらくは女の屋敷(竜宮城)で日々を過ごす。
しかし、浦島は故郷の父母のことを思い出し、三年経ったところで
自分の家に帰る、と言い出す。
そこで、女は、実は自分はあの時助けられた亀で、その恩を報いるために
夫婦となって暮らしてきた、と言う。
しかし、会者定離といって会うものは必ず別れるというものなので、
自分の「かたみ」として箱を取り出し、「「あひかまえて」(←この部分うまく訳できない。)この箱を開けてはなりません」と言って、箱を渡し、浦島太郎を帰すのだった。

二つ目のポイントは、ここでの女の言葉。
「今別れなば、又いつの世にか逢ひ参らせ候はんや。
二世の縁と申せば、たとひ此世にてこそ夢幻の契にてさふらふとも、
必ず来世にては、一つの蓮の縁と生れさせおはしませ」
(訳:「今別れたら、またいつの世にかお会いすることができるでしょうか。
夫婦は二世(現在・未来)の縁というから、
もし現世での夢幻のようなはかない契りでも、きっと来世では、
一つの蓮の縁として生まれ変わって下さいね。」)

そして、自分の故郷へ帰る浦島だが、両親はとうに亡くなり
人々の話によると、浦島太郎という人がいなくなったのは、
七百年前のことだと言う。
その事実に驚き、浦島は持ち帰った箱をついに開けてしまう。

すると、

  扨 浦島は鶴になりて、虚空に飛び上りける。
(訳:さて、浦島は鶴になって、虚空に飛び上がった。)

※この部分、東大本の本文では、お爺さんになってしまうのだが
東大本と同系統の禿氏本(『室町時代物語集成』所収)では
流布本(当時一般に流通した本)とされる底本(上野図書館本)と
同じ本文となっている。

なんと、浦島は鶴になったのである。

※ここで、岩波では(市古貞次氏校注)本文を
「浦島は鶴になり、蓬莱の山にあひをなす。
亀は甲に三せきのいわゐをそなへ、・・・」
としており、頭注に
”「あひをなす」は「愛をなす」の意か、
あるいは、「あそびをなす」の誤りか。”
とあるが、別項注に
”列山全伝に「有2巨鱗之亀1、負2蓬莱之山1而併舞戯2滄海之中1也」。”
(↑漢文。数字は一、二点の代用。しかし、横書きはこんなときに不便だな。)
とあるので、「負」の部分の意味になるんだけれども
列山全伝の本文を見ていないのでなんともいえないが、
もしかしたら、底本の本文を「蓬莱の山にあひ(を)なす亀は、・・・」
(→つまり、文章の切れ目を変えてみる。)
としたほうが解釈しやすいのではないかと個人的には思う。
(仏教用語が頻繁に出てくるのに、「「愛」をなす」という言葉を
結末に締めとして持ってくるのは、納得しがたい。)


結局、浦島は鶴となり千年の齢を保つことができ、
亀に再び逢うことができたのだ。
鶴と亀はそれから長い間、一緒にくらしましたとさ。
めでたし、めでたし、ということである。

そして、こう結んでいる。

「情深き夫婦は、二世の契りと申すが、実に有り難き事共かな。
 (略)
 扨、こそめでたき様にも、鶴亀をこそ申し候へ。
 只人には情あれ、情有る人は行末めで度由申し伝たり。」
(訳:情の深い夫婦は、現在・未来の縁と言うが、それはめったにないことだ。
   それで、めでたい例として、鶴と亀を言うのである。
   人は情を持つべきだ、
   情が有る人は行く末がめでたい理由を言い伝えるものである。)

 浦島太郎の話は、
 つまり夫婦愛の話だったのである。
 
 亀(姫)が浦島に持たせた「かたみ」の箱は

 「もし、どうしようもなくなったら
  この箱を開けて、私に逢いに来て。」

 という、亀(姫)から浦島への「やさしさ」なのであった。

 浦島が、「かたみ」の箱を持って、故郷に帰るときに詠んだ
 歌が、良い。

 忘れることが出来ない姫との過去の思い出や
 これから先のことを思い続けて、遠い海の道を帰るときに
 詠んだ歌、

 かりそめに 契りし人のおもかげを 忘れもやらぬ身をいかがせん

 (訳:かりそめに夫婦の契りを結んだ人のおもかげを、
    どうしてもわすれることもできないわが身を、どうしたらよかろう。)

 こんな深い思いだったからこそ、浦島は姫に再び逢うことが出来たのだろうなぁ
 としみじみと思うのだった。

 こうして、日ごろよく見る鶴と亀の掛け軸も
 今までとは違った感慨を持って眺めるようになるであろう。

 ああ、また逢えてよかったね、お二人さん。
 と。

 ちなみに、
 本当に余談なのだが、
 『御伽草紙』は、英訳版が明治期に刊行されていて、
 その英語のタイトルが

 Fishing Boy, URASHIMA

 である。
  
  いや、そうなんだけどさ。
  何となく、何かのヒーローものみたいで
  ちょっと笑えるw