Ad novam sationem tecum

風のように日々生きられたら

結構前から思ってたこと。(読売新聞編)

2014-03-02 21:11:10 | 日々の徒然
こんばんはー。

今日は、雨が降ったりやんだりの
福岡です。

これから
一雨ごとに
あたたかくなっていくかなぁ。

春を待ちわびつつ。。。


さて。

今日はね。
午後にすっきりさせましょう第2弾
を書いていたら、

途中で消えてしまったので
もう一回やり直しに
なってしまいました(><)くぅ。

結構長く書いていたのになぁ。

例の
長い間懸念材料となっていた
「読売新聞編」なんですけどね。(笑)

気を取り直して。。。
でも、
もう一度書くのは
本当に気が滅入る作業なのですよね。

だいたい
めんどくさいし
時間の無駄なんですよね。
(しかも同じ作業を二回もやっているという。)

というのも、
去年の夏頃
私が、読売新聞朝刊の一面のコラムが
嫌いと書いて

それから1年の間
そのコラムを見たり
見なかったりしていましたが

例の方は
ほんとうにのらりくらりと
全然変わらないんだなぁ
と思いましたし。

たぶん、
この年齢まで
ずっとあんなことをやってきて
これから変わるのは無理なんじゃないかと。

何を言っても無駄かなぁ
と思います。

でも、
書いてみようかな
と思っているわけです。

それは、先週
同じ読売新聞の編集委員で
芥川喜好さんという方の文章を
読んで、

「まさに、そう!」と
思ったからです。

その一方で、
何故あんなコラムを
一面に載せているのか
わからないけれども、

偶然にも、先週より
1週間ほど、
そのコラムの書き方も
少し変わったのです。

変わったのかな。。。?
と思いました。。。。

。。。。が。

1週間も持ちませんでしたね。(笑)

今日のコラムもまた
酷い有様で。

やはり、これは書くべきだと
思いました。


でも、まずは、
感銘を受けた芥川さんの
文章について。

その方は、
「ハンナ・アーレント」という映画を
通して、
“言葉、すなわち思考、すなわち思考する人間”
ということについて述べておられました。

ハンナ・アーレントは、
ナチスの迫害を受けてアメリカに亡命した
ユダヤ人女性であり、政治哲学者でもあります。

第二次大戦中の
ナチスによるユダヤ人大虐殺をめぐる
いわゆるアイヒマン裁判を取材し、

その裁判の傍聴席で、ハンナ・アーレントは
重大な疑問にとらわれます。

(アイヒマンはナチス親衛隊幹部として
六百万人ともいうユダヤ人を強制収容所に
送り込んだ責任者です。)


それは、アイヒマンという人物が
 “最悪どころか、ただ命令に従って
  任務を遂行したと言い張るだけの小役人”
であり、
 “人類に対するあの大罪を犯したのは、
  どこにでもいる、無思想で無思慮なだけの
  凡人だった”
ということです。

そして、ハンナ・アーレントは
その事実を明らかにし、
ナチスに協力したユダヤ人の問題にも言及した結果、
「ナチスを擁護するもの」として非難され
袋叩きに合うのです。

この映画について、
芥川さんは、次のように述べています。

  たとえば。
  アイヒマンが官僚組織中の歯車にすぎなかった
  としても、その無思慮な人間が他者への想像力を
  欠いたゆえ、自分の携わる仕事がもたらす結果への
  想像力を欠いたゆえに巨悪は生じた。
  組織が命じても「それは自分にはできない」と判断して
  去る道もある。行為しないという抵抗の形もある-
  判断するのも、決めるのも一人一人個人なのだということです。
  厳しいけれど、現代社会においても有効な座標軸に
  なりうる考えでしょう。

もちろん、“ユダヤ人虐殺”が
それを企てた上層部ではなく
それを実行した一市民にその全ての
責任があるという意味ではありません。

けれど、一人の人が
何かを実行しなければなならないという
判断に迫られたときに、
それが、してもいいことなのか、悪いことなのか
やるべきことか、やらざるべきことか、
という、その判断は
その人自身に
委ねられているということ、

そして、その人の判断が
世界を変えていくことがある
ということです。

だからこそ、
自分で考える、
物事を見極める目を持つ、
ということが
いかに大切であるかということを
このブログでも、何度となく
書いてきたと思います。

芥川さんも、先日騒動となった
偽装作曲家の問題にも触れ、
次のように文章を結んでおられました。

 はやりもの、もてはやされるものには、
 からくりがあります。
 背後には商業主義や権威主義がひそんでいます。
 人がどう騒ごうが、自分で受け止め、
 自分で考えて、つまらなければ、
 そこから立ち去ればいい。
 自分は加わらない、自分はそうしない、
 という身の処し方もあるのです。

とても論理的な文章で、とても共感しました。
芥川さんが、記事の中で取り上げられた
偽装作曲家問題の背後に「聾」・「ヒロシマ」という
“物語の効果”が利用され、
そういう“物語”が曲に対する純粋な批判を封じ込め、
そこに逆らう人は袋だたきに合う、
というのは、
先日、このブログで書いたように、
例えば「震災」とそれ以外の何かを結びつけて
それとは、まったく違う目的で何らかの形で
それを利用するという行為と同じように思われます。

そして、現在
意外といたるところでそういうことが
行われているということに
私達は気づかなければならないし、
そういうものに惑わされない確固たる物の見方
というものを身に着けなければならない
ということです。

そして、
私が思うところ、
同じ読売新聞の一面を飾る
例のコラムは、

残念ながら、
人を惑わせる「洗脳文章」の
典型なものだと思えてなりません。

というわけで。

例のコラムのどこがどう酷いのか、
ということを少し考えてみたいと
思います。


まず、初めにあのコラムの特徴について
考えてみましょう。

文章は、◆印のいくつかの段落に
分けられています。
そして、この段落の文章は、
それぞれで独立した話になっていることが
多いです。

段落ごとの関連性は、あまりなく、
あえて言うならば、同じようなキーワードが
各段落に散見する、といったところでしょうか。

まず、この段落ごとに独立した文章がいくつか
並べられている、
というところがこの人の文章のポイントです。

この人の著書の、例の『名文どろぼう』の紹介サイトで
本人が書いていたことなのですが
あまり、接続詞を使わない、とのこと。
つまり、文のレベルでもこの人は、文と文とに
独立性を持たせている、ということです。
接続詞というのは、文字通り、文と文をつなぎ、
その関連性を明確にする品詞なので、
接続詞を使わないということは、使った場合よりも
文同士の関連性が希薄になります。
それが、きっとこの人の文の特徴でもあると思います。

それが、どういう意味を持つのか。

それは、後ほどの「構成」について見てみるときに
述べたいと思います。

次に、この人の文章の特徴として、
引用が多い、ということです。

それは、古典、格言、投稿者からの言葉、和歌等、
さまざまですが、

先の『名文どろぼう』の紹介サイトで
読者レビューのようなものがあり、
そこで、読者の人がこの人の書く文章について
「教養があって、格調高く。。。」
ということを書いていて、
おもしろかったんですが。

。。。。“教養”ねぇ?(笑)

このコラムを書いている人が“教養”があるかどうかは
知りませんが、たぶん、面と向かって
一度聞いてみたらいいんじゃないかと思います。

「ここに引用してある文章は、原典ではどのような
 場面で、どういった意味で解釈してあるのでしょうか?」
と。

たぶん、わからないか、全然違ったことを言うと思うのですけれどね。
(わからなくて使っているか、意図して別の意味で使っているかの
どちらかだと思いますが、さぁどちらですかね?両方?)

というくらい、もとのコンテクスト(文脈)とは違った文脈で
それらの古典等が引用されている場合が多いです。

冒頭に引用される場合が多いので、
最初は、そのまま読み進めますが、途中から
「あれ?」となり、全然別物のようにそれらの「名文」が
利用されていることが、「わかる人には」わかります。

ここでは、この“教養”というのが曲者ですね。

古典等は難しい、というイメージがあります。
少し昔の小説も然り、だから、「こういう意味なんだよ」
と上から言われると、読んでいない人にとっては
それだけで萎縮してしまうのではないでしょうか。

それが、二つ目のポイントです。

それから、
三つ目のポイントは、
ここで引用される文章、あるいは、そう、
事件なんかも多いですね。

子供の話。

ボストンのテロで犠牲になった子供の話、
それから、
父親が命にかえて娘を守った話、等は
何度も書かれています。

これは、圧倒的に読者の共感を呼びます。

私も最初の頃は、子供の事件をまっさきに
とりあげるこの人の文章を読んだとき、
きっと、こういった子供の事件に
とても思い入れのある人なんだろうと思って
とても好感を持ちました。

けれど、長い間この人の文章を見ていると
少しずつ違和感を感じるようになりました。
そして、あるとき、
この人は、決定的に過ちを犯した。
文章に本性を晒してしまったのです。

それは、私が去年の夏頃、
「読売新聞が嫌いです」と
書いた辺りの時期だったと思います。

その日は、
何故か「ロミオとジュリエット」の話で
始まりました。

名前を呼ぶとか、呼ばないとか
そういう話からはじまり、

そして、この人は
長崎でいじめが原因で自殺した少女の話を
とりあげたのです。

名前を呼ぶ、呼ばないということに
端を発したいじめだったのか、
その少女が小さな命を絶った原因が
それだったのか、
私は、詳しいところは、知りません。

いじめを苦にして、
自分の命を絶ったその少女の気持ちは
その少女にしか
その気持ちはわからないと
私は思います。

けれども、このコラムの著者は、
「そんな話だったそうだ」という風に
いかにも気軽な感じで話を続け、
最終的には
「遠足の季節だ。
 そんな小さなことなんて気にしないで
 遠足に行かなくっちゃ。」
と書いていました。

きっと、その少女だって、
楽しく遠足に行きたかったにちがいない。

でも、そうできなかったその少女の気持ちを
いとも簡単に「そんな小さなこと」と決めつけ、
「遠足にいかなくっちゃ」と結んだ
その人の文章には、

その少女に対するいたわりの気持ちなど
微塵も感じなかった。

この文章を、その少女のお父さんやお母さんが読んだら
一体どんな気持ちになるだろうか。

そう思うだけで、全然関係のない私まで
怒りの気持ちでいっぱいになった。

一体、この人は、何のために
この長崎の少女の話を取り上げたのかな?
何か違う目的でもあったのかな?

私は、それまで、この人の文章に対する違和感が
このとき、決定的に裏付けられた気がした。

要するに、この人が引用する文章や、事件等は
この人の文章を構成する、単なる「道具」に過ぎないのだ。

そこに引用された文章や、事件の真の意味を
理解しようともせず、
ただ、自分の都合のいいように勝手に解釈して
体のいい道具として使用しているに過ぎない。

何故?

それは、その「道具」を使うと、
文章の品格(笑)を高めるからだ。
人が萎縮するからだ。

何故、子供の話をとりあげるのか?

それは、その話が、たくさんの人の共感を
集めるからである。
しかも、絶対的に。

この人は、
引用する文章に敬意も払わず、
真摯に向き合うこともせず、
そして、とりあげる事件の被害者の気持ちも
理解することなく、
事件そのものに誠実に向き合うこともしない。

私から言わせれば、
文章を書く人として、

いや、
人として、最低だと思う。

「最低」という言葉を
使いたくないけれども、
使わせてもらいます。

「最低」ですよ。

はい。

では、この人は、
この「道具」をどんな風に
文章に組み込んでいるのか、
その構成を簡単に見てみましょう。

パターンは、いつも同じなので
特に、この人の文章をここに引くことはしません。

大学や公の図書館なりに行けば
過去の記事がいくつもある。

過去の適当な時期を選んだら
たぶん、そこに同じパターンの文章があるから
見てみたい人は、実際見たらいいと思います。

(サイトで抄出されているものは、いいところばかりしか
集めていない可能性もあるので、実際の過去の新聞を
見ていただいたほうがいいかもしれませんね。)

この人の文章の基本的なパターンは下記の通り。
(実際は、もう少し段落が細分化されることもあるが
大筋としては下記のとおり。)

段落1:古典・名文・事件などの引用
    (読者の興味を引く、共感を得る。)
段落2:段落1にある言葉の部分的な説明。
    あるいは、段落1の類例で似たようなものを引用。
    (さらに読者の共感を高める。)
段落3:段落1・段落2についてのこの人流の解釈・説明
    あるいは、また別の事例による補強。
    (段落1・段落2での共感の感情の定義づけ。
    つまり、あなたがそこで感じている感情は
    こうなのですよ、ということを決定づける。
    ただし、あくまでも、それが通説あるいは常識
    のようなものであるという言い方をし、
    共通認識を植えつける。)
第4段落:最近起きている事件・風潮について
     政治的あるいは思想的にかなり一方的な見解。
    (段落1-3における感情を、ここに集約する。
     客観的な分析・データの提示などは行われず
     あくまでも「共通認識」が流れていく先としての
     やや強引な結論。)

先ほど、文章の特徴のところで、少しお話したとおり、
各段落は、個別で完結していることが多く、
ほんとうは相互の関連性はそれほどないのだが、

それを、この人は、最初に提示した、
「絶対的に共感を得られる」話で、読者に湧き上がる感情を
ゆるやかに、あいまいにつないで、帰結へと導くのである。
そうすると「あれ?そうなのかな?」
といった不思議な、あいまいな感覚のまま、
帰結部分のなんだか突如出てきた一方的な見解を
読者は受け入れてしまうのです。

そう、
これが、いわゆる「洗脳文章」というやつですね。(笑)

これがもし、
先に例を挙げた、ボストンのテロ爆破事件の場合だったら
どうなるか、
というのをシュミレーションしてみると、
(※下記の文章はシュミレーションであり、実際の例文ではありません。)

 段落1:ボストンの爆破事件。
     (ひどい。子供がかわいそう。犯人は許せない。)
      ↑絶対的に読者の共感を得るであろう文章。
 段落2:テロリストによる残虐な事件。
     (9.11等の誰もが知る事件等を類例であげる。
      →テロリストひどい。ゆるせない。)
 段落3:段落2と段落3の統合・補強
     (つまり、
      (段落1)ボストン爆破事件の犯人のように
      何の罪もない子供を死に至らしめる酷いやつがいる。
      許せない。
            +
      (段落2)たくさんの人の命を突然奪ったテロリストを
      許せない。
       9.11のテロでの、テロリスト対アメリカの状況など。

 段落4:テロを含めた有事における、アメリカとの協力体制についての
     積極的な見解。
      (=テロリストというのは遍く全てが悪である。
       テロリストは反政府組織であり、9.11で見たように
       これと決する場合には戦争も辞さない覚悟で望むべき、等。)

まぁ、あくまでシュミレーションですけれど。

たぶん、段落3くらいまでは、何の疑問も持たずに、
すすすーっといける。

でも、第4段落で、一瞬「あれ?」と思う人と、思わない人がいる、
ということである。

つまり、テロリストは、確かに私達が知る事件では
悪の象徴のようにも感じられる。
そのことに、異論のある人は、いないと思う。
しかしながら、では、テロリストは何故、あのような行為に
及んだのか、私達の多くはその背景について
アメリカの側からによってのみしか知ることができていないのではないか。

この話は、中東で起きている「戦争」のことを抜きには語れない。
しかし、そこをすっとばして、最後に、ある意味よくあるような、
現在の日本政府の意向としては収まりのいいような論に帰着させる
その論の持っていき方は、強引であり、とても大雑把すぎるのである。

これをこのまま鵜呑みにして、日本の国の人たちの共通意識が作られて
しまったら、それはとんでもないことになる。

近頃は、このコラムの著者によると、
政府に対して何か批判をするだけでイコール反政府的イコールテロリスト
と言わんばかりの論調で、笑いを通り越してあきれますけれども。
(一体それのどこが民主主義なんだか。(笑))

よく考えてみると、こうやって、何千人、何万人の人の目に触れる媒体で
たくさんの人の感情を煽動して、例えば、それがある種のイデオロギー化して
そのたくさんの人たちの共通認識が「戦争」へのきっかけとなったら
それこそ、このコラムの人は「思想犯」なんじゃないかと思うのですが。(笑)

まぁ、政府の犬みたいにあくまでも政府の意向に反することは
書かないみたいだし、政府に取り締まられることはなさそうだけど、
例えば、戦争が起きて、たくさんの人が死んでしまって、
戦争が終了した暁の裁判では、前述の「小役人」の体で
出頭しなければならないかもしれませんね。

でも、そんなことになる前に、たくさんの人が、
もっと、勉強して、事実を見極める目を持つようになったら
いいなぁと思います。
私の心配が杞憂ならいいな、と思います。

ところで、私は、
最近、仕事の行き帰りは、また本を読むようになりまして。

ずっと読みかけだった本を、もう一度最初から
読み直して、昨日やっと最後まで読み終えました。

(その途中で、他の本はいろいろと読んだんですけれどもね。)

島田荘司著『リベルタスの寓話』(講談社)
という推理小説なのですが。

クロアチアやセルビア、そしてNATOの関係などが
詳しく書かれていて、とても勉強になりました。

「戦争」というのは、やはり、
私の想像を超えている。
この本に書かれている「戦争」は、
私が知っている日本で起きた「戦争」とも違って-
いや、違わないか。

でも、民族同士の戦争というものが、
さらに深く深く人間の闇を浮かび上がらせるものなのだ
ということを改めて知って
本当に、いろいろと考えさせられました。

衝撃的な内容が多いけれど、目をそらさずに
考えなければならない問題だと思いました。

なぜならば、この地球上のネットワークの中で
日本の存在が、同じ地球上で起きている他国の「戦争」とは
まったく無関係ではありえず。

それは、日本の、例えば、原発の問題にも
経済の問題にも深く関わってくることであって。

もっと、一人一人が考えなければならない問題である
と思います。
そのことに対して、私達が、今日本でできることは、
何なのか、私達はこれからどんな風に、
この世界で、日本で生きていくべきなのか
ということを考えると、
今、日本で、私達の目の前で繰り広げられていることが
いかに馬鹿馬鹿しいことであるか
それを痛感せざるを得ません。

だからね。
あのコラムの人の文章だって、
本当はどうだっていいのだ。

本当に馬鹿馬鹿しい。
相手にするのも無駄なのに、
いつもしてやったりの顔で登場するからさ、
ただ、毎朝目障りというか不快なだけで。
個人的にはね。
はいはい。
もう、わかったから
って、言いたくなっちゃうの。
馬鹿じゃないの?
いつまで、続けるの?
みたいな。
見てて恥ずかしいからさ、やめてもらえますか
という感じです。

家族のさ、父も母も
熱心に新聞を読んでいて、

たぶん、日本の人はまじめな人が多いから
そこに、そういう変な文章が載せられているのを
そういう誠実な人たちが一生懸命読んでいるんですよ。

そういう人たちの想いをさ
利用するのを
もうやめたほうがいいと思う。

ちょっと話がそれたけれども。

『リベルタスの寓話』は、
ちょうど、一昨年のRISING SUNの帰りに
本屋さんで買って、
帰り道、ずっと読んでいました。

何か意図して選んだ本ではなかったけれど
(久しぶりに島田荘司さんの本が読みたいなぁと思った
というのはあったけれども。)
でも、いろんなことが符号していたし
この本を昨日やっと読み終わったということは、
やはり、私にとって意味のあることだったような
気がします。

あと少し。

すっきりさせておきたいことは、
あといくつかあります。

「風立ちぬ」のこと。

そして、
 「奴隷天国」のこと。

その前に、
できれば、
「戦争」のことと、「原発」のことも
書きたい。

時間がないの。

あと、少ししか。


だから、
もう少し頑張ります。


では、また。

あ。
ひとつ言い忘れてました。


今日の例のコラム。

酷かったんですけど。

あれ何?

東北の人を
ねずみにたとえてるんですか?

それで、
東京は獅子だと?

ほんとに、酷いな
としか言えないですけれども。(呆。)

最後にさ
ヤツは、
こういってました。

「もちつもたれつで
まいりましょう。」

と。

は?
何か勘違いしているのでは。

はっきり言ってやったほうが
いいと思うが、

きっと東北の人たちは
何も言わないだろうから

私が代わりに
言ってあげよう。

「お前なんかに世話になってない。」