Ad novam sationem tecum

風のように日々生きられたら

JAPAN JAM 2011 感想 ⑬

2011-06-01 07:04:18 | 日々の徒然


「チャンスは今夜」の
歌と演奏で

会場の盛り上がりが
最高潮に達した。

そして、
次の曲は、

はじまりのギターの音で
この曲とわかる。

「ガストロンジャー」

この日の「ガストロンジャー」は、

とてつもない力を内包していた。

そして、
その力を

歌と演奏で
極限まで高め
放出する。

その音の力強さ

広がってゆく様、

それが、まさに圧巻だった。

それぞれの
持つ力の極限。

それが、
真実だった。

自分の極限を
見極めること。

そして、
そこから、

さらに大きな力を
得ようとする意思。

そして、それらの結合が
こんなにも大きな力になることを

証明していた。


それは、
自分の力の極限というものに対して、
さまざまな感情を抱いてきた

ここ数ヶ月の私の心を
まっすぐな力で打ち、
響かせるものだった。

この曲を、

宮本さんも

泉谷さんも
歌った。


それぞれの演奏は、
もちろんのこと、

私たちに直接語りかけてくる
二人の言葉は、
とても真摯で力強いものだった。


それぞれの、
自らの心の底から
搾り出した言葉だからだと思う。

そして、
その言葉を受け止める相手に対して
まっすぐに向き合っている言葉だからだと
思う。


自分以外の人に呼びかける人は
たくさんいる。

非難や、攻撃さえする人もいる。

しかしながら、
その言葉を自らの心にも問いかけながら、

また、その言葉が帰ってきたときの
覚悟とを持って

声を発する人は
そう、いない。


以前も書いたと思うが、

宮本さんは
自らに返ってくる言葉を
敢えて発しているところがあると思う。

「あくびして死ね」

と言えば、
それは、自らに帰ってくる。


その言葉が鋭利であればあるほど、

自らの心に深い傷をつける。

そういう言葉を

敢えて発している。


鋭利な言葉を発している人は
たくさんいるが、

そういう覚悟を持って
言葉を発している人は、

そう、いないと私は思う。

それが、相手にどのように受け止められるかすら考えずに
言葉を発している人さえいる、
この世界で。

だからこそ、
宮本さんの強い言葉は、

より深く心に残るのではないか、
とさえ思えるときがある。


宮本さんは、

「ガストロンジャー」を歌うとき、

あいつらと
自分自身の化けの皮を剥がしに行こうぜ、

と言う。

自問自答の末
結論した、

と言う。

自分自身と徹底的に向き合い、
その結果、

心の底から搾り出した結論なのである。


このことは、

当たり前のようでいて、
実は、本当に凄いことだと

私は、思う。




四十六. 嘘

彼は彼の精神的破産に冷笑に近いものを感じながら、
(彼の悪徳や弱点は、一つ残らず彼にはわかっていた。)
相変わらずいろいろの本を読み続けた。

しかし、ルッソォの懺悔録さえ英雄的な嘘に充ち満ちていた。
ことに「新生」に至っては、――彼は「新生」の主人公ほど
老獪な偽善者に出会ったことはなかった。

四十九.剥製の白鳥

彼は最後の力を尽くし、彼の自叙伝を書いてみようとした。
が、それは彼自身には存外容易にできなかった。
それは、彼の自尊心や懐疑主義や利害や打算のいまだに
残っているためだった。

彼はこういう彼自身を軽蔑せずにはいられなかった。
しかしまた一面には「だれでも一皮むいてみれば同じことだ」
とも思わずにはいられなかった。

「詩と真実と」という本の名前は彼にあらゆる自叙伝の
名前のようにも考えられがちだった。
のみならず文藝上の作品に必ずしもだれも動かされないのは
彼にははっきりわかっていた。
彼の作品の訴えるものは彼に近い生涯を送った彼に近い人々の
ほかにあるはずはない。
――こういう気も彼には働いていた。
彼はそのために手短かに彼の「詩と真実と」を書いてみることにした。
            (芥川龍之介 著 『或る阿呆の一生』)


『詩と真実と』
言うまでもなく、ゲーテの代表作ともいえる書物。

あらゆる芸術は、
その自らの心のうちを
自ら削り上げながら
作り上げてゆくものだ。

自分自身を投影する最たるものが
自叙伝だとしたら、

やはり、芥川は、
ゲーテの『詩と真実と』をその最たる高みへと
置いたのであった。

ゲーテの著作『ファウスト』が、
ファウストの精神(こころ)の旅を描く
物語といえるものであるとしたら、

「悪魔のささやき」~そして、心に火を灯す旅~
その終演時に、
自問自答の結末を導く
「ガストロンジャー」が度々演奏されることに
なんとなく符合するところがあるな、
と感じる。


人は、自ら
生きているからこそ、

自らの世界があり、

その中で、
自分以外の人との出会うことによって
世界を広げてゆく。

そして、その世界の中での
自分のいるべき場所、

そして、

自分のできること
自分のできないこと

それをはっきりと自覚することで、

その世界にいるべき自分というものを
確立するのではないかと思う。

それは、
自らの分際をわきまえる
と言うこともできるだろう。

ときに、

一人、
世界とのつながりを見失い、

自分の無力さに打ちひしがれ、

自分の存在というものに
懐疑的になってしまうことが

あるかもしれない。

そういうときに、
また、自分自身と徹底的に向き合い、

自らの分際をもう一度
見極め

再び、自分というものを立て直す。

そして、また大きな世界へと出かけてゆく。

大きな力の一つに加わってゆく。

そのときの力。

それを、「ガストロンジャー」は
歌っている
と思う。

自ら問い直し、
胸を張って出かけてゆくための力を

「ガストロンジャー」は与えてくれる。


化けの皮を剥がす。

そうすれば、

誰しも、一人の人間だ。

そういう、徹底的な開き直りから

自分というものを
立て直すのだ。

宮本さんは
「ガストロンジャー」で
よく、こう言ったりもする。

「一万回目の結論だ。」
と。

何度も、何度も

転んでは立ち上がる。

そうやって、
何度も、何度も

繰り返し自問自答しながら

人は、生きてゆくのだと思う。

最近、
アルバム『扉』を
改めて、じっくり聴く機会があった。

その中に
「一万回目の旅のはじまり」
と言う曲がある。

「ある日神を思った

 ぼくは神を探していた
 
 でもすぐに見えなくなった

 ぼくは拍子抜けがした」


生きることの意味を問い続け、

生きることと死の狭間で

格闘する宮本さんの姿が

ここにある。


五十. 俘

彼は、すっかり疲れ切ったあげく、ふとラディゲの臨終の言葉を読み、
もう一度神々の笑い声を感じた。
それは、「神の兵卒たちは己をつかまえにくる」という言葉だった。
彼は彼の迷信や彼の感傷主義と闘おうとした。
しかしどういう闘いも肉体的に彼には不可能だった。
「世紀末の悪鬼」は実際彼をさいなんでいるのに違いなかった。
彼は神を力にした中世期の人々にうらやましさを感じた。
しかし神を信ずることは―神の愛を信ずることはとうてい彼にはできなかった。
あのコクトオさえ信じた神を!
                (芥川龍之介 著 『或る阿呆の一生』)


芥川は、死を選んだ。

しかし、宮本さんは
生きることを選んだ。


「同じミナトにあって
 同じ太陽を見上げていた
 かつてのトモよあなたは
 この灰色の海を越えたのか?

 ふもとの町へは まだまだ遠いらしい
 ますます激しく雨はうちつづけ
 およげないくせにぼくは
 そのまま

 灰色の海へ飛び込んだ
 灰色の海へ飛び込んだ


 一万回目の旅のはじまり
 一万回目の旅のはじまり  」



私は。

私は、

生きてきた。


中学生の頃、
「教師」は職業の一つにすぎないと
思った。

高校生の頃
「親」も一人の人間であると
知った。

自分が愛するほどに
人は、自分を愛してくれないものだと
わかった。

そうやって、生きてきた。


けれど。

宮本さんは、
歌った。

「父をこえたいココロ

 母をもとむるココロ

 勝利をめざすココロ

 それが生きている証」


「女をもとむるココロ

 花を愛ずるココロ

 人に愛されたいココロ

 それが生きている証」  (「生きている証)



その歌を
今、歌っている宮本さんの姿を

私は見た。

宮本さんは、
まっすぐ、

まっすぐ

歌っていた。


私のココロに
まっすぐ、

届いた。

涙が、あふれた。

私も、

愛されたい
と思った。


心からの

素直な気持ちだった。


それが、

私の
本当の気持ちだったんだろう
と思った。



だから、

もう一度、
自分を立て直して

やり直したいと
思った。




宮本さん。




私は、愛されたいです。



愛されて、

生きていきたいです。




トモよ

あなたは
思ったことが無いか

「死ぬまでに

どこまで たどりつけるだらう?」




結末は
まだ

見えない。



生きていくかぎり。


その答えを求める旅を
続けるかぎり。




だから、

今日も生きていこう。


胸を張って生きていこう。