1965年10月恵比寿に日本で初めてのディスコをオープン。中川三郎の三女ゆきがオーナーで店の責任者は田中俊勝氏、カウンターに小倉氏(没)、他に五十嵐氏、ゴーゴーガールはヨーコとアッコ、レジの女性、警備員一名体制で6:00~11:00、18歳未満お断りでした。
バンドはアマチュアバンドではあるがオーディションで厳選されたバンドが日替わりで出ていた。
私は当時恵比寿に住んでいてバンドもやっていたので様子を見に行ったのですが18歳未満お断りの看板があったので断念、翌年の3月18歳になったので早速行きました。 当時はマジメだったのです。 入ってバンドを聞いて、みんなの踊りを見て衝撃的でした。 平日はホールには平均50人ぐらいがいました。 ステージ横にはブーツを履いたミニスカートのゴーゴーガールのヨーコとアッコが踊っていて、ホールでは男はフレンチマンボのスラックスを履いていて、靴はリーガル、髪型はリーゼント姿が目立ち、女はミニスカートが主流でした。 踊りがうまい人だけがホールの中央を占領し、うまく踊れない人は絶対に行けない雰囲気でした。 上手い人達の踊りをホールの隅でマネしていました。 男と男、男と女、女と女、全てがペアで踊っていました。
バンドのジャンルはソウルが主流で他にはローリングストーンズ、キンクス、ポールリビア&レイダース等UKの音楽もやっていました。 特に私の記憶に残っているのは”Just like me” “Groovin” “Reach out I’ll be there”です。 バンドをやっていない間はミュージックボックスがあってソウルが流れていました。
金曜日と土曜日は人が溢れるほどいて思うようには踊れませんでした。 お客の中で徐々にグループができ、グループ同士の喧嘩やカツアゲがあったりしていて警備員が活躍していましたが、ホールの中でのイザコザはカウンターの小倉君がほとんど仲裁に入ると、収まります。 なぜならば彼は中学時代5人の番長のうちの一人だったので格が違いました。 背も高くて顔はジャンポール・ベルモンテに似ていて硬派でした。 小倉君と五十嵐君、そして私は同じ中学の同級生です。
そんなこともあって私はほぼ毎日通っていました。 踊りは家に帰ってから鏡の前で練習し徐々に上手くなっていきました。 入場料は覚えていませんが、多分500円位ではなかったかと思います。
そのうち私にも踊り仲間ができ一番の私の相棒はモンチでした。 彼はのちに有名なバンドのボーカルになりました。 バンド名は“M”です。 当時彼に聞いたことはありませんがモンチはニックネームだと思っていましたが本名だったようで、門地だと思います。
中川三郎ディスコティックはその後、新宿・有楽町・横浜・熱海にオープンしそれぞれの所で数多くのバンドが活躍しました。


恵比寿:ボーイズ:
ジュニアボーイズ:ドラムの田中氏はスタジオミュージシャンとなる。 ギターの井上氏?はメチャクチャ上手かった。
テンプターズ:ショウケンは皆さんご存知でしょう。ギターの松崎氏は素晴らしかった。 主にローリングストーンズのコピーバンド。
ジュニアテンプターズ:ギターの浅野氏は後にゴダイゴのギターである。
モップス:ご存知の鈴木ヒロミツ氏がボーカルで主にアニマルズのナンバーのコピーバンド。
ギターの星勝氏は有名な音楽プロデューサーで井上陽水のプロデュース等活躍している。ドラムはヒロミツ氏の弟のミキハル氏で今は浜 田省吾のプロデューサーとして活躍している。
ジュニアモップス:ヒロミツ氏の一番下の弟ミキオ氏がボーカルのバンド
バーナデッツ:
クライングベガーズ:八木(Vo)、金子(G)、小板橋(G)、谷(B)、山田(Vo&D)
初めはバンド名はジーザスクライストでその後クライングべガーズに改名。 ベースはター坊、ミー坊(前Jrテンプターズ)、屋敷田 氏(前ミックスジュース)に変わる。
2ボーカルなのでレパートリーは広く、ソウル、UKと幅広い。お客を踊らせるのが上手いバンド
バーンズ:倉田(Vo)、田畑(G)、村田(G)、西島(B)、山田(Vo&D)
有楽町ステップヘブンに出ていたが中川三郎氏の依頼によりクライングべガーズのドラムの山田が助っ人に入る。 それまではお客が 乗れないバンドだったのだがドラムが変わり2ボーカルになってレパートリーも増え再生した。
後にクラウンレコードよりダンスLPレコード”R&B in 東京”を出す。
色々なダンスに合わせた音楽をLP一面ノンストップで演奏録音する貴重なレコードである。 何人かの音楽評論家がこのレコードにつ いて「一曲づつを後でつなぎ合わせて編集している」と解説しているがこれは間違いである。
レコーディングは一発どりでA面,B面それぞれ最初から終わりまで本当のノンストップである。 途中で間違ったらまた最初から撮り直 しと言われていたので気にしていなかったが、両面とも撮り直しなしで本当のライブと同じ状態のレコーディングであった。 一部分だけ 直したかったところがあったのでお願いしたが時間がないのでと断られた。 後から聞いたら録音のミキシングや左右のボリュームがメ チャクチャであった。 スカイパイロットが評価されているがエコーチェンバーの効果音ばかり大きくて最低の録音状態である。
中川三郎氏の強い希望でライブと同じ状態でのノンストップレコードというのは達成されたが、スタジオのミキサー担当にはしっかりして もらいたかった。
クエスチョンズ;ローリングストーンズのコピーバンド。 ボーカルはミック。 その後単独で六本木のいろいろのお店で歌っていたが1980年代後 半に亡くなったと 聞いている。
ベベス:ミッキー吉野のバンド。 横浜所属。
ムー:柳ジョージのバンド。 横浜所属。
ここで当時のバンドの出演料を紹介しよう。
一日、5ステージで1バンドの日当はバンドの格付けがあって、1500円から始まって100円ずつ上がっていく。最高は3500円。
私のクライングべガーズは恵比寿がホームグラウンドで、時々新宿に出張があった。 新宿の責任者が私と中学同級生の大田黒氏であったため、依頼があると出演していた。 一方のバーンズは有楽町ステップヘブンがホームグラウンド。 日当は共に3500円。
思い出話
当時、横浜と恵比寿は仲が悪く、特に横浜のお客が恵比寿に対して敵意むきだしで、時々グループで恵比寿に殴り込みに来ていた。 警備員のおじさんは柔道経験者であったが食い止めることができず、最後は小倉氏がむこうのボスとタイマンで勝負し勝ちをおさめていた。 カッコよかったなあ!
中川三郎氏の自宅にプールがあり時々招待されて泳いでいたのが懐かしい!
テンプターズとの思い出は、バンドが終わってから六本木の深夜までやっているカフェ&バーへ遊びに行っていた事。
モップスとの思い出はモップスがオーディションに来たとき、田中氏から依頼されて審査した時のこと。 3曲演奏を聞いたがダントツに上手かったのだが、一曲が長く踊れる曲がない。
そのことをヒロミツ氏に伝えレパートリーを増やせば合格の旨伝え、後日出演OKとなったこと。
そんなことがあってモップスとは仲が良く時々ステージで歌わせてもらった。
バンドはアマチュアバンドではあるがオーディションで厳選されたバンドが日替わりで出ていた。
私は当時恵比寿に住んでいてバンドもやっていたので様子を見に行ったのですが18歳未満お断りの看板があったので断念、翌年の3月18歳になったので早速行きました。 当時はマジメだったのです。 入ってバンドを聞いて、みんなの踊りを見て衝撃的でした。 平日はホールには平均50人ぐらいがいました。 ステージ横にはブーツを履いたミニスカートのゴーゴーガールのヨーコとアッコが踊っていて、ホールでは男はフレンチマンボのスラックスを履いていて、靴はリーガル、髪型はリーゼント姿が目立ち、女はミニスカートが主流でした。 踊りがうまい人だけがホールの中央を占領し、うまく踊れない人は絶対に行けない雰囲気でした。 上手い人達の踊りをホールの隅でマネしていました。 男と男、男と女、女と女、全てがペアで踊っていました。
バンドのジャンルはソウルが主流で他にはローリングストーンズ、キンクス、ポールリビア&レイダース等UKの音楽もやっていました。 特に私の記憶に残っているのは”Just like me” “Groovin” “Reach out I’ll be there”です。 バンドをやっていない間はミュージックボックスがあってソウルが流れていました。
金曜日と土曜日は人が溢れるほどいて思うようには踊れませんでした。 お客の中で徐々にグループができ、グループ同士の喧嘩やカツアゲがあったりしていて警備員が活躍していましたが、ホールの中でのイザコザはカウンターの小倉君がほとんど仲裁に入ると、収まります。 なぜならば彼は中学時代5人の番長のうちの一人だったので格が違いました。 背も高くて顔はジャンポール・ベルモンテに似ていて硬派でした。 小倉君と五十嵐君、そして私は同じ中学の同級生です。
そんなこともあって私はほぼ毎日通っていました。 踊りは家に帰ってから鏡の前で練習し徐々に上手くなっていきました。 入場料は覚えていませんが、多分500円位ではなかったかと思います。
そのうち私にも踊り仲間ができ一番の私の相棒はモンチでした。 彼はのちに有名なバンドのボーカルになりました。 バンド名は“M”です。 当時彼に聞いたことはありませんがモンチはニックネームだと思っていましたが本名だったようで、門地だと思います。
中川三郎ディスコティックはその後、新宿・有楽町・横浜・熱海にオープンしそれぞれの所で数多くのバンドが活躍しました。


恵比寿:ボーイズ:
ジュニアボーイズ:ドラムの田中氏はスタジオミュージシャンとなる。 ギターの井上氏?はメチャクチャ上手かった。
テンプターズ:ショウケンは皆さんご存知でしょう。ギターの松崎氏は素晴らしかった。 主にローリングストーンズのコピーバンド。
ジュニアテンプターズ:ギターの浅野氏は後にゴダイゴのギターである。
モップス:ご存知の鈴木ヒロミツ氏がボーカルで主にアニマルズのナンバーのコピーバンド。
ギターの星勝氏は有名な音楽プロデューサーで井上陽水のプロデュース等活躍している。ドラムはヒロミツ氏の弟のミキハル氏で今は浜 田省吾のプロデューサーとして活躍している。
ジュニアモップス:ヒロミツ氏の一番下の弟ミキオ氏がボーカルのバンド
バーナデッツ:
クライングベガーズ:八木(Vo)、金子(G)、小板橋(G)、谷(B)、山田(Vo&D)
初めはバンド名はジーザスクライストでその後クライングべガーズに改名。 ベースはター坊、ミー坊(前Jrテンプターズ)、屋敷田 氏(前ミックスジュース)に変わる。
2ボーカルなのでレパートリーは広く、ソウル、UKと幅広い。お客を踊らせるのが上手いバンド
バーンズ:倉田(Vo)、田畑(G)、村田(G)、西島(B)、山田(Vo&D)
有楽町ステップヘブンに出ていたが中川三郎氏の依頼によりクライングべガーズのドラムの山田が助っ人に入る。 それまではお客が 乗れないバンドだったのだがドラムが変わり2ボーカルになってレパートリーも増え再生した。
後にクラウンレコードよりダンスLPレコード”R&B in 東京”を出す。
色々なダンスに合わせた音楽をLP一面ノンストップで演奏録音する貴重なレコードである。 何人かの音楽評論家がこのレコードにつ いて「一曲づつを後でつなぎ合わせて編集している」と解説しているがこれは間違いである。
レコーディングは一発どりでA面,B面それぞれ最初から終わりまで本当のノンストップである。 途中で間違ったらまた最初から撮り直 しと言われていたので気にしていなかったが、両面とも撮り直しなしで本当のライブと同じ状態のレコーディングであった。 一部分だけ 直したかったところがあったのでお願いしたが時間がないのでと断られた。 後から聞いたら録音のミキシングや左右のボリュームがメ チャクチャであった。 スカイパイロットが評価されているがエコーチェンバーの効果音ばかり大きくて最低の録音状態である。
中川三郎氏の強い希望でライブと同じ状態でのノンストップレコードというのは達成されたが、スタジオのミキサー担当にはしっかりして もらいたかった。
クエスチョンズ;ローリングストーンズのコピーバンド。 ボーカルはミック。 その後単独で六本木のいろいろのお店で歌っていたが1980年代後 半に亡くなったと 聞いている。
ベベス:ミッキー吉野のバンド。 横浜所属。
ムー:柳ジョージのバンド。 横浜所属。
ここで当時のバンドの出演料を紹介しよう。
一日、5ステージで1バンドの日当はバンドの格付けがあって、1500円から始まって100円ずつ上がっていく。最高は3500円。
私のクライングべガーズは恵比寿がホームグラウンドで、時々新宿に出張があった。 新宿の責任者が私と中学同級生の大田黒氏であったため、依頼があると出演していた。 一方のバーンズは有楽町ステップヘブンがホームグラウンド。 日当は共に3500円。
思い出話
当時、横浜と恵比寿は仲が悪く、特に横浜のお客が恵比寿に対して敵意むきだしで、時々グループで恵比寿に殴り込みに来ていた。 警備員のおじさんは柔道経験者であったが食い止めることができず、最後は小倉氏がむこうのボスとタイマンで勝負し勝ちをおさめていた。 カッコよかったなあ!
中川三郎氏の自宅にプールがあり時々招待されて泳いでいたのが懐かしい!
テンプターズとの思い出は、バンドが終わってから六本木の深夜までやっているカフェ&バーへ遊びに行っていた事。
モップスとの思い出はモップスがオーディションに来たとき、田中氏から依頼されて審査した時のこと。 3曲演奏を聞いたがダントツに上手かったのだが、一曲が長く踊れる曲がない。
そのことをヒロミツ氏に伝えレパートリーを増やせば合格の旨伝え、後日出演OKとなったこと。
そんなことがあってモップスとは仲が良く時々ステージで歌わせてもらった。
私は高校二年の時に行きました。
(年齢制限があったとは知りませんでした。)
ジャッキー吉川とブルーコメッツが生演奏していました。
ジャツキーさんがガムを噛みながらドラム叩いてました。
みんなが踊っていたのはゴーゴーでしたね。
それから五十余年たち、私は来年70歳です。
今でもディスコが好きで、年に数回踊りに行きます。
ディスコの楽しさを教えてくれた恵比寿ティスコティックに感謝です。
懐かしいですね。中川三郎ダンススタジオの熱海のディスコで
毎週末ステージを担当していました。60年代の終わり頃でした。
へたくそなバンドだったのですが、どういうわけかクビにもならず、
しばらく続けていました。よほど人手不足だったのかもしれません。
確か熱海の糸川の近くのビルの地下にあったと記憶してます。
キャラはとにかく安くて、ステージ終了後に深夜喫茶でスパゲッティを食べると
すべてなくなるくらいの金額だったと思います。
週末になるとあちこちから皆さん集まって来て、思い思いに踊っていましたね。
中には自分で振り付けをして新しいダンスを作ってしまう人もいました。
楽しい青春の一ページでしたね。
未だ、18歳未満でしたがね〜タバコ、ビール…喧嘩はしょっ中でしたね。
そして、ナンパ(笑)……IVY崩れのディスコ・ファション!!渋谷辺りで見かけてもすぐに、ディスコの奴って!分かりましたね〜
踊りも独特のスクラッチとか、チャチャだったかな?女性と対で踊って、回転したり…それ出来ない奴は踊れないって、雰囲気でね〜
その内、恵比寿のディスコ仲間達出来て…安心して通えるようになっだけど…三ツ矢マークの◯高の連中と喧嘩になり、袋だたきに合ったけど…顔馴染みのネ〜さんが間に入って、タイマンにしなさいよ!って!表に出て、そのネーさん家に、逃げて泊まった^^;…青山の某共学私立校だったんで…学校名出すとナメラレた時代でしたね〜 次の日学校に青タン←目を殴られて…作って行って、ボコボコにやられたのに、チョット生意気な奴いたんでなんて見栄張ったりして(笑)
五反田の山の音や、銀座のステップ、もちろん新宿のディスコテックにも行きましたが…やはり、1番は恵比寿でしたね〜 大学に進学の頃は、赤坂大人のディスコ、ビブロスが出来たので行かなくなったけど…恵比寿のように生バンではなかったですね。。当時のカップスのマモルなんかは、数年前まで一緒に遊んでましたね〜
いずれにしても!恵比寿のディスコは私の青春でしたね。。
後にMとバンド名を変えましたが、ステップヘブンに出ている頃はマーシーと言っていました、私はドラムを叩いました、ボーカルは垂水孝道、リードギターは垂水義道の北海道出身の兄弟です、タカ、とヨッチと呼んでいました。あの当時一晩のギャラは¥3000弱だったと思います、全員でですよ、忘れもしないある晩ステージが
終わってお腹が空いたので有楽町の駅前の屋台のおでん屋で皆んなでおでんを食べて会計したら¥5000位になりビックリして文句を言ったらメニューを出して来てそこには、大根¥500とかちくわ¥450とか書いてありました、何も言えず疲れがどっと出て無言で帰りました、懐かしい思い出です。