酒はやらないけど、タバコは切れ目切れ目にまず一服とかたときも離せない。
映画が粗製乱造でなかった昔の話だが、まずは主人公がタバコを手にし煙をくゆらせ、バーのカウンターに一人座って、物憂い時間を過ごしている。などと、タバコが主人公の心理を伺わせる一つの小道具だったのだ。
現職の頃、1992年か93年だろうか、事務室から灰皿が追い出され喫煙場所が指定された。それまでは机の上に灰皿があって、思い思いに煙らせながら仕事をかたづけたものだったのに。事務室の中はいつもタバコの臭いがしていた。
ファシズムと言うと、まるで戦争の種火のように嫌われる言葉だけど、形態としては、みんながある方向にまとまって行動するということで、その方向に間違いがなければ、どこにでもある会社やグループそのものだ。ただしその方向が結果として不都合なことへのものだったら、非難を受けるだけに過ぎない。人間は群れて生きる本性だから、放って置くと、このファシズムに陥りやすいのかもしれない。
グループは意思統一や規則が必然のものだけど、それが強権をもって方向を間違えると、とんでもない事態を招くことになる。グループの方向が正義のように言われ、それに沿わない不正義なとみなされた人々への有無を言わせない強制的な圧迫になっていく。
いつの世にも権力があるとそれにへつらい尾っぽを振る輩が出てくるものだが、平山教授とかいういわゆる曲学阿世の、学者としての信念を持たない人物が、受動喫煙などという根拠の薄いものを、時代の波に乗せて科学誌に発表して、今の禁煙運動の強烈なロードローラーになった。彼は学研の士であることを捨てて、それを飯のタネにしようと企んだのだ。
かつての民主党政権では、税収の拡大の芽を探して、世の禁煙の動きに乗じて、禁煙を試みる人への助けだとばかりにタバコの値上げをした。タバコが値上がりしたのではない。課税部分を増やしただけのお手盛り策なのだ。政治が人々の嗜好に口を挟む権力のおごりでもある。
かつてのアメリカで、酒が人々を荒っぽくするとばかりに、高潔な(?)原理主義者のような政治家たちが禁酒法をぶちあげて見事失敗したことはここで語るまでもない。
意図は違うが、薬物を禁止すると、それが地下組織の特権商売となり、値が釣り上がり、もっと大きな問題をを作り出すことは言わずと知れたことだ。
そのうち、タバコもいつか全面禁止措置となるときがきて、麻薬と同じ道を歩むかもしれない。
タバコで家産を潰した話はきいたことはないでしょう? 酒では人生そのものが潰れる話が山ほどあるのに。酔った上での過ちというのはあるけど、吸った上での過ちなんて話もない。健康に害があると言う点で見ても、タバコが全身に良くないことは百も承知だが、酒も百薬の長と言われながら、酒の上での喧嘩は絶えないし、休肝日などをたてて肝臓への悪影響を減らそうとしたり、循環器系への影響もけして小さくはない。それに車の運転と酒の関係もなかなかに断ち切れないで、社会問題でもある。
愛煙家としては、根拠の薄い受動喫煙などを盾に、脅迫まがいの厳しい目で、犯罪者扱いをされるのには納得がいかないのではあるが、周りに気圧されてそれを声に出すほどの勇気もないのだけど。
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1998年から5年間、国連保健機関(WHO)事務総長の職にあったグロ・ブルントラント女史(小児科医出身の元ノルウェー首相)が辞めぎわに、タバコの征圧にほぼ成功したので、次はアルコールと電磁波の排除に取り組みたいと宣言していたからである。
「異様な肺ガンの急増ぶり」秦康彦氏 ——
この人のようなタイプは、もし付き合ってくれと頼まれても、いや、ケッコウですとおことわりする嫌なタイプだ。
さて、彼女の残した台詞からすると、次はいよいよアルコールの番で、更に行く手には自動車の排ガスがあるのだろう。悪い要素は何でも根絶すればいいのだと信じているふうだ。まるでヒットラーの人種浄化の思考に似ている。この世の原理がバランスであることを一顧だにしないで、悪いものを単純に悪いと決めつけて排除してしまう子供っぽさを持った人だ。
「怒りの葡萄」の題の元となった言葉だが、神は全能の自分に似せて人間を作ったと言われるのに、どこをどう間違えたのか失敗作ばかりだ。ぶどうのように足で踏み潰してしまいたいと嘆く話がある。人間たちはバランスを上手く保てないで、なんて自分勝手なのだ。
それにしても、この国でほかの健康増進策にはほとんど手を付けずに、禁煙を政府の手で強圧的に進めている。全くのお笑い草だ。
人々が路上につばを吐き、犬の糞が路上に点々とし、腐ったゴミの山から飛んでくるハエが食べ物にたかる。食生活は、甘い飲み物と脂っこくてしょっぱい食事をし、男でも妊娠何ヶ月と聞きたくなるような太鼓腹をしている眼の前の現実は全く見えていないかのごとくだ。現実の不潔さに比べたら受動喫煙なんかほんの芥子粒ほどの影響なのに…。