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ナポレオン政権下のパリ改造計画 ジョルジュ・オスマン

2009-05-24 09:31:26 | 日記
ジョルジュ=ウジェーヌ・オスマン
1809年、第一帝政期のパリで生まれた。父はナポレオン1世に仕えており、主に政権の財政面を担当していたため、パリの金融界に顔の利く人物であった。この際に培われた父の人脈は、ジョルジュ・オスマンが立身出世を成し遂げる上で役に立った。
1815年のナポレオン失脚後に成立したブルボン家復古王政に不満を抱いていた金融は背後で反政府活動を行う勢力に資金の供与を行っていた。オスマンは金融界と反政府勢力の間で仲介役をつとめたと考えられる。
1830年、フランス七月革命が成功して国王のシャルル10世は亡命へと追い込まれると、自由主義にも理解があるオルレアン家のルイ・フィリップが王位についた。ルイ=フィリップは銀行家の期待に応え、彼らの利益を擁護した。こうした中、オスマンは20代でヴィエンヌ県の県庁部長に就任するという異例の出世を成し遂げた。
しかし、七月王政(ルイ・フィリップ期)では極めて厳しい制限選挙がとられていたため、ルイ・フィリップにも「銀行家の王」などの批判が浴びせられた。こうした状況下で、当時勃興しつつあった中小ブルジョワジーや労働者による選挙法改正運動が高揚し、1848年のフランス二月革命へとつながった。細く入りくんだ路地裏だらけのパリ市内で、革命勢力はバリケードを作り政府軍に対して抵抗を続け、ついに革命は成功してルイ=フィリップは亡命、フランス第二共和政へと移行した。しかし、ブルジョワ共和派と社会主義者の対立などから政治的混乱が続いた上、かつては革命の主体だったブルジョワジーが社会主義の台頭を恐れて保守化していったため、国内に政治的安定をもたらす強力な指導者を求める風潮が強まった。こうした中、1848年末に大統領に就任していたナポレオンの甥ルイ=ナポレオンが、1852年に国民投票を経てナポレオン3世として皇帝に即位した。第二共和政当初よりオスマンはルイ=ナポレオンを支持しており、ルイ=ナポレオンが皇帝に即位すると、まもなく1853年にパリ市を含むセーヌ県知事に任命された。
オスマンが行った最大の事業は『パリ改造計画』であった。
19世紀半ば頃までのヨーロッパの都市では道路は雨を避けるために計画され、通りに張り出した屋根からの排水が道の中央の排水溝に流れ落ちるようになっていた。大都市では敷石で舗装がなされていたが、パリでも豚が放し飼いにされている状態だった。住民は日々に出る生ゴミや汚物を通りに投げ捨てるため、道の窪みや溝にはそれらがたまり、河川には、動物の糞・廃棄物・汚物などが流れ込み水が汚染された。市民はそれらの川の水を飲んだり、浴びるなど生活環境・都市衛生はきわめて劣悪だった。
改造では非衛生的なパリに光と風を入れることを主目的として幅員の広い大通りが設置されるとともに道路網の整備が行われた。また街区の内側に中庭を設けて緑化を行い開放的で衛生的な街を整備した。
それを実現するためにスクラップアンドビルドという手法が取り入れ、計画地にある建物を強制的に取り壊した。都市整備により経済を活性化するとともに、当時、しばしば騒乱のもととなっていたスラムを排除するものでもあった。
これは産業革命後の経済界の要請にも沿うものであった。パリ改造は近代都市計画・建築活動に大きな影響を与え、近代都市のモデルとして見なされた。
エトワール凱旋門から放射状に並木が配されたブルヴァールと呼ばれる広い12本の大通りを作り、中世以来の複雑な路地を整理した。オスマンの計画によって改造されたパリの路地裏面積は実に7分の3に上ったという。このようにして交通網を整えたことで、パリ市内の物流機能が大幅に改善された。また、二月革命で反政府勢力を助けた複雑な路地がオスマンの都市改造によって大方なくなったため、反乱が起こりにくくなった。現在では観光名所として名高いノートルダム大聖堂などがあるセーヌ川の中州に位置するシテ島は、19世紀当時においては貧民層が集まっていたが、ここもオスマンによって改善され、パリの清潔な空間の一部となった。
また、上下水道を施設し学校や病院などの公共施設などの拡充を図った。上下水道の施設や、学校における教育により、衛生面での大幅な改善がみられ、当時流行していたコレラの発生をかなりの程度抑えることになった。
パリ改造を通して市街地がシンメトリーで統一的な都市景観になるよう、様々な手法を取った。例えば、道路幅員に応じて街路に面する建造物の高さを定め、軒高が連続するようにしたほか、屋根の形態や外壁の石材についても指定した。
さらに当時名を馳せた建築家を登用してルーブル宮やオペラ座(1874年竣工)などの文化施設の建設も進めた。大通りに並ぶ街灯の数も増やされ、パリ万国博覧会で訪れた日本人もその風景をたたえている。
街路の整備にあたって超過収用の手法が取られた。当時の法令によれば、道路建設で土地収用(公共事業に必要な土地を、補償を行ったうえで強制的に公有化すること)が認められるのは、道路に必要な部分のみであるが、パリ改造では道路に加え、条件付きではあるが、その沿道の土地も収用できる規定を適用した。そして街路や区画を整備した後、資産価値の上がった沿道の土地を売却し、事業資金に充てた。これは開発利益を還元する手法である。
こうした一連の改造は「オスマン化」とも称された。整備されたパリの街は「世界の首都」と呼ばれるようになり、フランス国内にとどまらず各国における都市建設の手本とされた。首都の大規模な改造は、ナポレオン3世の威光を高めることにつながり、当時の政権の寿命を延ばしたといえる。
ただ、後に、都市としての防御機能を失ってしまったために、普仏戦争に敗戦する原因にもなってしまった。
また、スラムを一掃することは自治体を解体することにもなり、パリ市民は現在の東京のように、隣の住人の顔さえも知らないという状態になっているという側面もある。
オスマンは、知事辞任後、一時ボルドーへ移住。その後コルシカ島で短期公職へ就くが、晩年は回顧録の執筆に力を入れた。1891年1月パリで死去。


1 コメント

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Unknown (りんご)
2009-07-16 21:42:41
勉強になりました。ありがとうございます。
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