ライフ(Life)はアメリカで発行されている雑誌。写真を中心とした誌面で「グラフ雑誌」と言われる。フォトジャーナリズムという文章記事よりも写真を中心に報道・言論を構成しようという考え方はすでにヨーロッパ(特にドイツ)で試みられていた。ライフ誌はカメラマンをスタッフという専属的な所属とし、撮影から記事・レイアウト等の編集のスタイルを一貫させ、「フォト・エッセイ」と称した。第二次大戦前から戦後復興期、テレビの本格普及前までが黄金期で、アメリカの思想・政治・外交を世界に魅力的に伝える媒体であった。
現在のライフ誌は2004年10月に無料週刊誌として復活し、新聞折り込みのかたちで約1300万部が発行されている。しかし、厳しい経営事情を背景に、2007年4月20日号を最後に休刊することが発表された。今後はウェブ上にて、同誌の保有する写真約1000万点を閲覧できるなど、引き続きサービスを継続していくことも同時に発表された。
Wikipedia:「ライフ (雑誌)」
file No.19 ニコラウス・コペルニクス (ポーランド)(1473~1543)

■経歴
ニコラウス・コペルニクス(Nicolaus Copernicus、1473年2月19日 - 1543年5月24日)は、ポーランド出身の天文学者である。当時主流だった地球中心説(天動説)を覆す太陽中心説(地動説)を唱えた。これは天文学史上最も重要な再発見とされる。また、教会では律修司祭(カノン)であり、知事、長官、法学者、占星術師であり、医者でもあり、暫定的に領主司祭も務めた。
1473年にトルンで生まれた。生家は旧市街広場の一角にある。彼の姓の「コペルニクス」はラテン語表記の Copernicus を日本語で読み下したもので、ポーランド語では「コペルニク (Kopernik) 」となる。ポーランド語で「銅屋」の意味。すなわち彼は「銅屋のミコワイ(ニコラウス)」である。10歳の時、銅を商う裕福な商売人だった父親が亡くなり、母親は既に亡くなっていた。教会の律修司祭(カノン)である叔父ルーカス・ヴァッツェンローデに育てられた。1491年にコペルニクスはクラクフ大学に入学し、月の精密な軌道計算を史上はじめて行った著名な天文学者で従来より定説とされていた天動説に懐疑的な見解を持っていたアルベルト・ブルゼフスキ教授によってはじめて天文学に触れた。卒業後は4年と少しの間トルンにいたあと、イタリアのボローニャ大学で法律(ローマ法)について学んだ。教育に援助をしていた叔父は彼が司祭になることを望んでいたが、カノンとローマ法について学んでいる間に、彼の恩師であり著名な天文学者であるドメーニコ・マリーア・ノヴァーラ・ダ・フェッラーラと出会い、その弟子となった。やがてノヴァーラの影響により本格的に地動説に傾倒し、天動説では周転円により説明されていた天体の逆行運動を、地球との公転速度の差による見かけ上の物であると説明するなどの理論的裏付けを行っていった。1526年にはクラクフ大学時代のブルゼフスキ教授の天文学の講座の同窓の親友で数学者のベルナルド・ヴァポフスキ (Bernard Wapowski) がポーランド王国とリトアニア大公国の版図全体の地図を作成した際、コペルニクスはその事業を手伝った[2]。一方で1535年、「地球の動き方」に関するコペルニクスの重要な論文の出版に向けてはヴァポフスキは力を貸し、出版を請け負っていたウィーンの関係者へ手紙を書いて出版の催促をするなどしている。ヴァポフスキはこの手紙を出した2週間後に他界したため、論文の出版を見届けることはなかった。
オルシュティンの聖ヤコブ大聖堂自己の地動説の発表による影響を恐れたコペルニクスは、主著『天体の回転について』の販売を1543年に死期を迎えるまで許さなかった(彼自身は完成した書物を見る事無く逝ったと言われている)。死後はポーランドのフロムボルクの大聖堂に埋葬されたとみられていたが、遺骨は確認されていなかった。シュチェチン大学などのチームが2004年から発掘を進め、大聖堂の深さ約2メートルの場所から2005年夏、遺骨を発見した。この遺骨は肖像画と頭蓋骨が互いに非常に似ていて、時代と年齢もほぼ一致していたので、遺骨がコペルニクスのものである可能性が高まった。2008年11月、シュチェチン大学とスウェーデンのウプサラ大学との共同で、この遺骨と、他の場所で4世紀以上も保管されていたコペルニクスのものとされる毛髪とのDNA鑑定を行い、両者のDNAの一致によりこの遺骨がコペルニクスのものと最終的に認定された。

フロムボルク大聖堂
★1616年、ガリレオ・ガリレイに対する裁判が始まる直前に、コペルニクスの著書『天体の回転について』は、ローマ教皇庁から閲覧一時停止の措置がとられた。これは、地球が動いているというその著書の内容が、『聖書』に反するとされたためである。ただし、禁書にはならず、純粋に数学的な仮定であるという注釈をつけ、数年後に再び閲覧が許可されるようになった。・・・そうだ。