初ブログです。
このブログでは、真下信一さんの<人生と学問>という本を読んで学んだことを綴って行きたいと思っています。
まず、今日は<知性と理性>について。
このごろ一般的に<知性>と<理性>はほとんど同じ意味で使われていますが、実はまったく違うものなのです。
むしろ、対義語といってもいいでしょう。
それを説明するために、まずひとつづつ概念を解いていきます。
まずは、<知性>。
知性とは、真下さん曰く《事実を事実としてはっきりさせる力であって、価値の問題には関わらない。それは、純粋な知識としての知識であるだけだ。それは、知性には一面性、断片性、抽象性がつきまとい、分析と区別の立場が主となるからだ。》と言っています。
それでは、ここでいう<価値の問題>の<価値>とは何なのでしょうか。
ここでいう<価値>とは、<あるものではなく、であるべきもの。>を指します。
わかり易くするなら、<理想>と変えてみてもいいんじゃないでしょうか。
続きまして、<一面性、断片性、抽象性>について。
真下さんは本文で、この三つの性質を<全体的でなく、具体性が欠けている。>と見ています。
よって、この三つの性質を兼ね備えている知性では、感覚によって支配される<感性的認識>しかできない、すなわち、知性だけでは物事の本質は突けないと指摘しています。
次は<理性>の概念を解いてみましょう。
真下さんは、《<理性>とは、<知恵>の力のことを言う。理性とは、全体的な統一と総合の能力であり、<精神>の力のことだ。もっと言うならば、<理想>を立てる力、この理想に向けて現実をととのえ、導いて行く力と言っても良いだう。》と説明しています。
それでは、ここで言っている<全体的な統一と総合の能力>とは、一体なにを言っているんでしょうか。
<全体的な統一と総合の能力>とは、言い換えれば<全体を統一、総合して見る力>と言えるでしょう。
<全体的>とは、<世界>、<社会、人間、自然>を指し、それを統一、総合して見る力、よって、<全体的な統一と総合の能力>とは、<世界観>の事、もっというならば<哲学>とも表現できると言えます。
先ほど述べた<理想>の力の<理想>について説明するならば、<<理想>とは<行為、性質、状態などに関して、考え得る最高の状態。未だ現実には存在しないが、現実可能なものとして行為の目的であり、その意味で行為の起動力である。>といった意味です。
ざっと見たら、<知性>と<理性>はそれぞれこういった性質を持っています。
振り返ってみましょう。
<知性>という概念を説明するときに<知識>という概念が出ました。
そして、<理性>という概念を説明するときに<知恵>という概念が出ました。
この、<知識>と<知恵>の差を説明しながら、<知性>と<理性>の違いをよりわかり易く説明したいと思います。
まず、<知識>とは<ある事項について知っていること。また、その内容。>といった意味であり、<知恵>とは、<物事の理を悟り、適切に処理する能力。>といった、意味であります。
詳しく言うならば、<知識>とは<ただ知っている事実であり、それに利害関係が含まれない事。>で、<知恵>とは<知識をいかに使うかという判断力。>といった意味です。
こんなとこからも、なんとなく<知性>と<理性>の違いに気づけると思います。
それでは、この二つの性質の違いがわかった上で、この二つはどんな関係で無くちゃならないのか考えて見ましょう。
真下さんは、《知性を暖かいものにするか、それとも冷たいものにするかは、知性そのものの力のうちにあるのではなくて、知性そのものを働かせる、知性をこえた力のうちにあるのです。》と言っています。
知性をこえた力…
もうすでに、ピンと来た人もいるでしょうが、知性をこえた力とは、まさに<理性>のことです。
なので、<知性>がいい方向に行くか、悪い方向に行くかは、<理性>にかかっていると言えます。
ドイツの哲学者、ニコラウス・クザーヌスは<知性>の特性を《知性は淫売婦のようなもの。誰とでも寝る。》と表現しました。
<知性>はほっておいたら、悪い方向にも作用しかねないぞって事です。
そのいい例が核の問題です。
原爆や水爆を作った<知性>や技術というものは、まさに悪魔と同衾した<知性>の姿といえるでしょう。
したがって、<知性>は常に<理性>によって貫かれているものでなくてはならない、すなわち<知性>は<理性>の<ハンドル>でなくてはならないのです。
しかし、<理性>の支えという観点で<知性>を見てみると、<知性>の重要性を垣間見ることができます。
まず、<理性>には<意地>と<思想>といった二面性があるといえます。
その中でも、<知性>をコントロールする<理性>は、<思想>としての<理性>であります。
その<思想>を支えるのは理論。
理論とは、<知性>が上がるほど質があがります。
よって、<知性>が上がれば理論の質が上がる、理論の質が上がれば思想が上がる、思想が上がれば理性があがるといった風に、<知性>が上がれば<理性>は自然的に上がっていくものだと言えるでしょう。
そういった意味で、質の高い<理性>を持つためにも絶対に欠かせないのが<知性>なのです。
そして、もうひとつの性質の<意地>について。
<意地>とは、簡単に<やる気>を指します。
<意地>の性質から見た<理性>とは、<やる気>だけがあるという事です。
それでは、<やる気>さえあればそれでいいのでしょうか?
<やる気があっても、実力が無い人>には限界があるように、<知性>が無い<理性>の可能性、範囲とは、小さく、狭いものになってしまいます。
逆に<知性>が上がれば上がるほど、何かを実現できる可能性は広がるのです。
このことを踏まえた上でも、<知性>の重要性を認識できるでしょう。
それでは、僕たち人間が持つべきものとは<知性>?<理性>?
その答えは、両方です。
僕たち人間が持つべきものは、理性的な知性、すなわち<理知>です。
ここで理性的な知性といっているように、この二つを単体としてみてはいけません。
理性的な<知性>、そして知性によって生まれた<理性>といった風に、それぞれを統一してみるべきなのです。
その<理知>を養うために絶対に必要なもの、それを<学問>といいます。
現代の<理性>が失われている世界を客観的に見て、自分がどういった<理知>をもたなければならないのか、そして、<理知>を養うために<学問>をどのようにすべきなのか、この文章を見て少しでも考えてくれたら嬉しいです。
書き慣れてないもんで、相当長くなってしまいました。
これからも、定期的に更新するので見てくださいね~。
さよなら!
このブログでは、真下信一さんの<人生と学問>という本を読んで学んだことを綴って行きたいと思っています。
まず、今日は<知性と理性>について。
このごろ一般的に<知性>と<理性>はほとんど同じ意味で使われていますが、実はまったく違うものなのです。
むしろ、対義語といってもいいでしょう。
それを説明するために、まずひとつづつ概念を解いていきます。
まずは、<知性>。
知性とは、真下さん曰く《事実を事実としてはっきりさせる力であって、価値の問題には関わらない。それは、純粋な知識としての知識であるだけだ。それは、知性には一面性、断片性、抽象性がつきまとい、分析と区別の立場が主となるからだ。》と言っています。
それでは、ここでいう<価値の問題>の<価値>とは何なのでしょうか。
ここでいう<価値>とは、<あるものではなく、であるべきもの。>を指します。
わかり易くするなら、<理想>と変えてみてもいいんじゃないでしょうか。
続きまして、<一面性、断片性、抽象性>について。
真下さんは本文で、この三つの性質を<全体的でなく、具体性が欠けている。>と見ています。
よって、この三つの性質を兼ね備えている知性では、感覚によって支配される<感性的認識>しかできない、すなわち、知性だけでは物事の本質は突けないと指摘しています。
次は<理性>の概念を解いてみましょう。
真下さんは、《<理性>とは、<知恵>の力のことを言う。理性とは、全体的な統一と総合の能力であり、<精神>の力のことだ。もっと言うならば、<理想>を立てる力、この理想に向けて現実をととのえ、導いて行く力と言っても良いだう。》と説明しています。
それでは、ここで言っている<全体的な統一と総合の能力>とは、一体なにを言っているんでしょうか。
<全体的な統一と総合の能力>とは、言い換えれば<全体を統一、総合して見る力>と言えるでしょう。
<全体的>とは、<世界>、<社会、人間、自然>を指し、それを統一、総合して見る力、よって、<全体的な統一と総合の能力>とは、<世界観>の事、もっというならば<哲学>とも表現できると言えます。
先ほど述べた<理想>の力の<理想>について説明するならば、<<理想>とは<行為、性質、状態などに関して、考え得る最高の状態。未だ現実には存在しないが、現実可能なものとして行為の目的であり、その意味で行為の起動力である。>といった意味です。
ざっと見たら、<知性>と<理性>はそれぞれこういった性質を持っています。
振り返ってみましょう。
<知性>という概念を説明するときに<知識>という概念が出ました。
そして、<理性>という概念を説明するときに<知恵>という概念が出ました。
この、<知識>と<知恵>の差を説明しながら、<知性>と<理性>の違いをよりわかり易く説明したいと思います。
まず、<知識>とは<ある事項について知っていること。また、その内容。>といった意味であり、<知恵>とは、<物事の理を悟り、適切に処理する能力。>といった、意味であります。
詳しく言うならば、<知識>とは<ただ知っている事実であり、それに利害関係が含まれない事。>で、<知恵>とは<知識をいかに使うかという判断力。>といった意味です。
こんなとこからも、なんとなく<知性>と<理性>の違いに気づけると思います。
それでは、この二つの性質の違いがわかった上で、この二つはどんな関係で無くちゃならないのか考えて見ましょう。
真下さんは、《知性を暖かいものにするか、それとも冷たいものにするかは、知性そのものの力のうちにあるのではなくて、知性そのものを働かせる、知性をこえた力のうちにあるのです。》と言っています。
知性をこえた力…
もうすでに、ピンと来た人もいるでしょうが、知性をこえた力とは、まさに<理性>のことです。
なので、<知性>がいい方向に行くか、悪い方向に行くかは、<理性>にかかっていると言えます。
ドイツの哲学者、ニコラウス・クザーヌスは<知性>の特性を《知性は淫売婦のようなもの。誰とでも寝る。》と表現しました。
<知性>はほっておいたら、悪い方向にも作用しかねないぞって事です。
そのいい例が核の問題です。
原爆や水爆を作った<知性>や技術というものは、まさに悪魔と同衾した<知性>の姿といえるでしょう。
したがって、<知性>は常に<理性>によって貫かれているものでなくてはならない、すなわち<知性>は<理性>の<ハンドル>でなくてはならないのです。
しかし、<理性>の支えという観点で<知性>を見てみると、<知性>の重要性を垣間見ることができます。
まず、<理性>には<意地>と<思想>といった二面性があるといえます。
その中でも、<知性>をコントロールする<理性>は、<思想>としての<理性>であります。
その<思想>を支えるのは理論。
理論とは、<知性>が上がるほど質があがります。
よって、<知性>が上がれば理論の質が上がる、理論の質が上がれば思想が上がる、思想が上がれば理性があがるといった風に、<知性>が上がれば<理性>は自然的に上がっていくものだと言えるでしょう。
そういった意味で、質の高い<理性>を持つためにも絶対に欠かせないのが<知性>なのです。
そして、もうひとつの性質の<意地>について。
<意地>とは、簡単に<やる気>を指します。
<意地>の性質から見た<理性>とは、<やる気>だけがあるという事です。
それでは、<やる気>さえあればそれでいいのでしょうか?
<やる気があっても、実力が無い人>には限界があるように、<知性>が無い<理性>の可能性、範囲とは、小さく、狭いものになってしまいます。
逆に<知性>が上がれば上がるほど、何かを実現できる可能性は広がるのです。
このことを踏まえた上でも、<知性>の重要性を認識できるでしょう。
それでは、僕たち人間が持つべきものとは<知性>?<理性>?
その答えは、両方です。
僕たち人間が持つべきものは、理性的な知性、すなわち<理知>です。
ここで理性的な知性といっているように、この二つを単体としてみてはいけません。
理性的な<知性>、そして知性によって生まれた<理性>といった風に、それぞれを統一してみるべきなのです。
その<理知>を養うために絶対に必要なもの、それを<学問>といいます。
現代の<理性>が失われている世界を客観的に見て、自分がどういった<理知>をもたなければならないのか、そして、<理知>を養うために<学問>をどのようにすべきなのか、この文章を見て少しでも考えてくれたら嬉しいです。
書き慣れてないもんで、相当長くなってしまいました。
これからも、定期的に更新するので見てくださいね~。
さよなら!
意見とうはまた、ゆっくり見ながらしていきましょう。
ぼくもがんばります。
ぶっちゃけ俺の今回の課題意味不明。チェーーーン(~o~)///
コクレ、バイトばっかしないでゼミの勉強しましょう。
特に哲学は読み手が肯定も否定も自由に行えるからね。
論理的思考力を鍛えるために、もってこいだと思います。
自分なりの考えや感想をブログでアウトプットするのはいいことだ。
何よりも続けることが肝心。頑張って^^