上筒井近辺の戦前の地図。(「近代神戸の小学校建築」より)
小中高の元は、神戸商業大学校、2系統バス道のすぐ上まで外人墓地が来ていた。
当時の福住小学校の一期生は校舎が間に合わなくて関学の教室を開催使って授業受けたそうです。
神戸文学館に行けば、関学設立当初の原田周辺の資料有り。
その今東光のエッセイにも原田周辺の思い出話、我が青谷の地名も出て来る。古き良き原田の森。
昭和16年からの上筒井の住人の方で
空襲の時には、炎をあげる電柱が、家に倒れかかってきたと聞きました。
もっと色んな話、年寄りに聞いておけばよかった
青谷も空襲で焼けた。でもわずかな家と畑の青谷が空襲されたのは、旧摩耶道と東山尾根分岐点に高射砲陣地があったからか。今も要塞跡は静かに佇んでます。
最近まであった、労災病院南の防空壕跡は撤去された。
上筒井お住まいの方の母は、姑を連れ、三歳の姉をおぶって、その壕に入ったと言っていました。
おそらく墓地は攻撃されないのではないかという一縷の望みをもって、春日野墓地へ逃げたのではないかと思います。墓地でその方の従兄姉が二人、彼らの母親の目の前で亡くなったそうです。戦争は、人の心までも、壊します。
摩耶山登山口にも防空壕あった。
その前に家が建ったから埋めたのか、奥にあるのかは不明。たぶん埋めたでしょう。子どもの頃、乞食の一家が住み着いて、覗きに行っては追い返されて逃げてた記憶有り。
私たちの幼かった頃には、傷病軍人や、浮浪者や、心が壊れてしまって明らかに精神に異常をきたし、瞳の色がおかしな人がたくさんいましたね。
国鉄三宮駅の円柱のところは、まだまだ「火垂るの墓」の世界でした…。
国鉄三ノ宮駅から阪神への地下道に傷痍軍人アコーディオン弾いており、
みんな凄い目つきで怖かった。
私たちはまだ小さく、幼かったから、怖い印象だけが残った…。
楽器が弾ける方たちなんだから、本当は、怖くなかったかもしれない。
今東光の通った頃の「原田の森」写真。
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