えんじゃけん

『コーカサスの白墨の輪』6

「二度手を引く審判が行われた理由」を考える
(「善の誘惑」について再び考える)


前回の『コーカサスの白墨の輪』5の「善の誘惑」ですが、
私は逆の解釈をしましたという感想(コメント)を頂きました。(^^;)
ということで、今回も「善の誘惑」についての感想です。

「恐ろしきは善の誘惑」といった台詞があったのは、ミカエルが家族に
置き去りにされて、グルシャがミカエルを見捨てようかどうしようか、
迷っている時に、サゴジョウ(朝比奈さん(^^;))が語り手として、
語る台詞なんだそうです。

私、どのシーンでこの台詞が使われたのかすっかり忘れていたので、
このシーンで言われたのだとしたら、私が前回言っていた、
「自分の正義」がここでいう、善となるのかも知れませんね。
つまり、感想(コメント)に頂いたように
逆の解釈の方が自然な気がします。(^^;)

けど、そうだとすると、この「善」という言葉と「誘惑」という
言葉のアンバランスさがしっくりこなくてすごく気になるので、
もう少し考えてみました。

私の中の「誘惑」というイメージですが、
「誘惑」というのは悪いイメージがあるのと、
「誘惑」っていうのは外からのものという印象があります。

実際に国語辞書で「誘惑」の意味を調べてみました。
「心を迷わせて、さそい込むこと。よくないことにおびきだすこと」
とのことです。

最初、グルシャがミカエルを拾ったのは「善の誘惑」から。
そこにはまだ迷いがあり、覚悟には到っていない。
「かわいそうだから」という気持ちが勝っての、
その気持ちを埋めるための自己満足からの安易な行為だったのではなかろうか?
実際、彼女は途中でミカエルの面倒が見切れなくなってミカエルを
捨てようとするシーンが出てくる。
そこにはいろいろな言い訳が生じてくる。
彼女には覚悟がなかったことがそこにも表れている。

しかし、実際、捨てて自分の身勝手さに気付き、再び「善の誘惑」に
苦しむこととなる。
彼女は再び、ミカエルを自分のもとで育てようと思う。

私は思うのだけど、グルシャは何度かこういった「善の誘惑」に向き合う事で、
「善の誘惑」ではなく、自ずから「溢れ出る善」へと近付いていったのではないか?
そして、この物語りはそういった彼女の善への変化が描かれたものではないのかと
思いました。

最初拾った時は「ミカエルがかわいそうだから」という、解釈のもとの自己満足的な善。
そして、農家に捨てることで、ミカエルという重荷を失い、喜びのあとに押し寄せる
寂しさと後悔。その時に初めて彼女はミカエルを拾ったことは、
ミカエルのためではなく、自分のためだったのだということに気付く。
ここらから、彼女の覚悟は固まってきているように思う。
命がけの吊り橋渡り、そして、山奥の男との結婚。
けど、まだ覚悟は固まってなかった。
ミカエルのせいで自分は不幸なんだという思いが彼女のどこかにあったはず。
その証拠に彼女は結婚生活になかなか馴染めない。

そして、裁判。
アズダックが二回手を引かせたのには訳があるように思う。
「確認のため」
と彼は言う。何を確認したかったのか。
それはグルシャの行為が「善の誘惑」からの行為ではないかどうかってことでは
なかったのだろうか?
一度目の彼女にはまだ迷いがあった。
「何故か手に力が入らず手をひけなかった・・・・」と言った感じの事を彼女はいう。
そこには確信がまだない。覚悟もない。
しかし、ニ度目の彼女ははっきり断言する。
「手をひくことなんてできない!ミカエルの身体を引き裂くことなんてできない!」

私はニ度目の彼女の行為は「善の誘惑」ではないと思っている。
「誘惑」ではなく、「自ず」と出て来た行為。
「善の誘惑」と違うのはそこには覚悟がある。信念がある。
ミカエルの事を心から思う覚悟。そして信念。
それは自分の心を満足させるためのものでもない、見栄を守るものでもない、
寂しさをうめるためのものでもない、・・・・ただ相手をただ思う心がそうさせたもの。
迷いがあれば(善の誘惑からの善であれば)、彼女もミカエルも幸せにはなれないだろう。
しかし、ニ度目の時、彼女には覚悟が出来た。迷いはなかった。
それをアズダックは見逃さなかった。
アズダックは彼女ならミカエルを幸せにできるとその時確信できたのであろう。
ブレヒトはそういった迷いなき「善」を描きたかったのかなぁと。

一緒に観に行った友達にも「善の誘惑」ってどう思う?と聞きました。
すると「育てられないのに捨て猫を拾ってきたことを思い出した」と言いました。
なるほどなぁと思いました。
「善の誘惑」での善は自己満足的要素の強い「善」。
本当にそれが相手の為になるかならないかというよりも基準は「かわいそう」とか、
そういった満たされない感情を無意識に善を建て前に埋めようとするのが「善の誘惑」。
そんな気がしました。

うまくは言えませんが、世の中の情勢や価値観、自分の感情などに振り回されず、
自分の信念を持って行動できることが善とは何かに近付ける方法なのかも知れない。
言葉でいうのは簡単だけど、難しいなぁと思います。
でも、そんな人になれるといいなぁと思います。

けど人間、なかなか無欲にはなれないもんだよね。(^^;)
手をひかなかったグルシャは一瞬だったかも知れないけど無欲になれたんだと思います。
自分のためでなく、ただミカエルのために・・・。


<松たか子>■『コーカサスの白墨の輪』■

コメント一覧

マツタコ管理人
長くてごめんなさい。
風邪を引かれているというのに、長々と書いて、

お返事を催促してしまったようで、ごめんなさい。

お返事ありがとうございます。

これ以上、書いて欲しくはないであろうことは、重々承知ですが、

私も誤解されたままではいやなので、少しレスさせてください。



「結果として、グルシャの行った行為は善でしょ?」という

私の言葉を引用して、



>別の結末になる可能性だってあるわけですから、

>結果としてどうこうっていう因果関係よりも、

>自己満足ではない善(愛)の存在が私は嬉しいのです。



と、お返事してくださっています。

「自己満足ではない善(愛)の存在が嬉しい」という

管理人さんの気持ちはよくわかりました。



ただ、上の二行に関しては補足させてください。

私がいうグルシャの善行は「人間の命を救う」という行為のことです。

グルシャが最初にミカエルを拾うときには、私はこう捉えています。

拾う=ミカエルの命が救われる(暫定的にですが)、

見捨てる=ミカエルは殺される(推測ですし、全く別の人が彼を救う可能性がなくはないですが)

人の命を救うこと(子育ての前の段階)は「絶対的な善」だと私は考えています。



だから、「結果として」ではなく、グルシャがミカエルを拾う最初の行為そのものが、

「善」(私の言うところのアガペーの力)の勝利だと思っています。



言い方があいまいですみません。ですから「結果として」という言葉は削除してください。

私が言っている「善行」はその場での選択そのものを指していて、

それを選択しなければ「悪行」になる類のものですから。



管理人さんの言われているのは、グルシャの選択自体は、そのときには善ではあるけれど、

最終的にミカエルにとってそれが善であるかは、その後の子育てによってはわからない

ということなのでしょう。間違っていたらご指摘ください。



最初の管理人さんの感想では、自己満足(子育てにとってよくないもの)で拾ったということだけが、

強調されているように私には見えたのと、その自己満足の程度というものは、

私が劇中で観た限りでは、それほど強調するものではなく、

むしろ先に書いた究極の選択の結果のアガペー(人間を大切にする心)の勝利だと思ったのでレスをしました。

もちろん、中には「自己満足だけ」で子どもにとって本当に良いことが何かを

考えずに育てる人もいるのでしょうが、私にはグルシャはそうは見えなかったということです。

ミカエルの命を救おうとした結果、ミカエルを育てるハメに陥ってしまったように見え、

自己満足だけで育てることを選択したようには見えなかったのです。

「かわいそう」という気持ちを埋めるためだけに、自分の身を危険にさらすかも知れない行為を

するとは思えないからです。グルシャは自分が育てられるとは思わなかったけれど、

何度も言いますが、それしか選択肢がなかったのだと思います。

もちろん、覚悟は浅かったかも知れません。能力も足りなかったかも知れません。

実際、途中で代わりの人を探そうとします。でも他に選択肢がなかった。

だから、「いいことだけど、自己満足でしょ」とだけ評価されるのは

グルシャがかわいそうに思ったのです。このあたりは、感性の違いでしょうね。
ちくわぶ
マツタコ管理人へ
私の感想ですけど、文章力なくて、語彙のキャパが少ないので、

うまく気持ちを書き切れなくて申し訳ありません。



「自己満足」って言葉の表現がよくないのかも知れませんが、

「自己満足ではない善(愛)」(=溢れ出る善)っていうのは、

金銭的、物質的、そして精神的にも相手に見返りを求めない善(愛)のこと

というつもりで私は書いています。



私がこの話で一番に思ったこと。

人は他人にでも自己満足でない善(愛)を持てるんだなぁって。

グルシャは物語上の人物だけど、人間っていいなぁって思った。

親に自己満足で育てられた子どもは、自分に価値を見出せない人になると思う。

もし、グルシャが自己満足でミカエルを育てたなら、ミカエルは大きくなってから、

自分に価値が見出せず、苦しんで自から命を落としたかもしれないと思う。

それってとても辛いこと。子どもにとって悲劇だと思う。

だから、グルシャが自己満足でない善(溢れ出る善、誘惑からではない善)に

最後、意識的に目覚め、よかったなぁって思ったのが一番私が書きたかったこと。



>私は、先に書いたように、「自分のため」と「善のため」は

>相反するものではないと思っています。

>もちろん、管理人さんもそうだと思います。もし間違っていたらご指摘ください。



>先に書いたように「自己満足」については、私も否定してないです。

>当然、どんな行為にも「自己満足」はついてまわるからです。

>ただ、管理人さんは「自己満足」を悪いと強調しているけれど、

>つまり、マイナスイメージでとらえているけれど、

>結果として、グルシャの行った行為は善でしょ? と言っているのです。

>そのことは、管理人さんもわかってらっしゃいますよね。



「自己満足」が悪いというのは子育てにおいての話です。

理由は上記に書いた通りです。

大人相手であれば大人は心が育っているので、「自己満足」で接しても、

心に対してそうそう悪くは作用しないと思っています。



>当然、どんな行為にも「自己満足」はついてまわるからです。



私は自己満足ではない善(愛)も存在して欲しいと思っています。

それが子育てで必要な愛だと思っているからです。

単なる理想論だと言われたらそれまでですけど。



>結果として、グルシャの行った行為は善でしょ? と言っているのです。

>そのことは、管理人さんもわかってらっしゃいますよね。



別の結末になる可能性だってあるわけですから、

結果としてどうこうっていう因果関係よりも、

自己満足ではない善(愛)の存在が私は嬉しいのです。

マツタコ管理人
自己満足の肯定
お返事を待ったほうがいいかなと思ったのですが、

少し時間がとれたので書きます。



> 管理人さんは「誘惑」の中に「自分のため」というマイナスイメージを

> もたれているんでしたよね?



この部分がよく伝わってなかったようなので補足します。



私が言っているのは、管理人さんの文中の「自己満足からの」という言葉です。

>その気持ちを埋めるための自己満足からの安易な行為だったのではなかろうか?



私は、先に書いたように、「自分のため」と「善のため」は

相反するものではないと思っています。

もちろん、管理人さんもそうだと思います。もし間違っていたらご指摘ください。



先に書いたように「自己満足」については、私も否定してないです。

当然、どんな行為にも「自己満足」はついてまわるからです。

ただ、管理人さんは「自己満足」を悪いと強調しているけれど、

つまり、マイナスイメージでとらえているけれど、

結果として、グルシャの行った行為は善でしょ? と言っているのです。

そのことは、管理人さんもわかってらっしゃいますよね。



私と管理人さんの違いは、「自己満足」を肯定的に捉えているか、

否定的に捉えているかの違いだと、私は言いたいんです。

「自己満足」と「相手の満足」は両立しますよね。

もちろん、これが両立しない場合もあります。

しかし、今回、とくに最初の子供を拾うシーンでは両立していると私は思います。



「かわいそう」→「ミカエルを救いたい」

この気持ちは最初に捨てられていた時だけでなく、鉄シャツに追われた時、

裁判の時、何度も何度も出てきます。

この気持ちを持つこと自体が「アガペー」であり、善だと私は捉えています。



①私は、管理人さんが言っている「自己満足」というのは、

「かわいそう」「ミカエルを救いたい」という気持ちを持ったときに、

その気持ちを埋めるため(つまり自己満足のため)に、

能力もないのに安易に、連れてきてしまったことに対して

語られているのだと思いました。



もし、違うのなら、私が①として記したこの部分に対して返事をしてください。

つまり「相手の満足」「ミカエルの満足」につながらない

「ミカエルのためにならない」のではという主張なのだと捉えています。

以下、これを前提にします。



だけど、私はたとえ子供を育てるだけの能力がなくても

置き去りにすれば、殺される確率が高いならば、

橋を渡ることがどれだけ危険で、グルシャには無理に見えたとしても

置き去りにすれば、殺される確率が高いならば、



私は、グルシャの行為が自分の限界値を理解できていない行為であったとしても、

(私自身はグルシャは自分には無理だという気持ちを常に持っていたけれど、

それよりも、殺されてしまうかも知れないことを放っておけない気持ちが

強かったのだと思っていますが)



私はグルシャの選択を支持します。

なぜなら、その選択をしなければミカエルは殺されるからです。

この一点で、たとえそれがベストでなくても「ミカエルのためになる」と

私は思います。



そして、これは自分を犠牲にして成り立つ行為である点で、

グルシャのアガペーの愛の勝利を喜びたいと思います。

私は物語が進むに連れて、このグルシャの「犠牲的献身」が

無意識から意識下に上ってきて、より露になっていってるんだと思います。



そういうと、自己犠牲も自己満足なんじゃないの?

という疑問もわくかも知れませんが、

先に言ったように、どんな行為にも自己満足はついてまわるのです。

私は、相手の不満を導き出さない限り、自己満足でよいと思っていますから。



自己犠牲が相手に対して、

「私がこんなにしてやってるのに」っていう相手に見返りを求める心

(私が言うところのエロス的な愛)になったときに、問題になるんです。

自己満足・・・自分の心を満たすこと

と、相手に見返りを求める心は違いますよね。



グルシャが求めたのは、ミカエルが与えてくれる精神的な見返りです。

しかし、それは最初のミカエルが置き去りにされていたときには

なかった感情だと私は思っています。

それが出てくるのは、旅をしている最中です。



このあたりのことは、確か、自分のブログに書いたと思いますので、

そちらをどうぞ。
ちくわぶ
マツタコ管理人さんへ
沢山の感想をありがとうございます。

少し、うまく伝わってない部分があるなぁと感じました。

私の文章が下手なんせいでしょうね。(^^;)

また、日を改めて訂正の意味を込めてお返事をするか、感想を書きたいと思います。

今、熱っぽくてうまく頭が働かないので。

「この子にだけは」と「犠牲的献身」も読ませて頂きます。

トラックバック、ありがとうございます。
マツタコ管理人
こっから先は疲れたので、この2回行われた「白墨の輪」の審判についての私の感想をTBすることにします。



「この子にだけは」と「犠牲的献身」

よければ読んでください。
マツタコ管理人
すみません、上の投稿は、

わたくしマツタコ管理人です。
管理人
「自己犠牲」
続き3。書き出したら寝れなくなっちゃったじゃん。



>農家に捨てることで、ミカエルという重荷を失い、喜びのあとに押し寄せる

>寂しさと後悔。その時に初めて彼女はミカエルを拾ったことは、

>ミカエルのためではなく、自分のためだったのだということに気付く。



だから、私は最初の行為は「ミカエルのため」であることに違いはないと思うし、

ミカエルと一緒にいることで、愛が育ち、離れられなくなったんだと思います。

実際に、グルシャは農夫に預けて、寂しさを感じはするものの、

元気に町に戻ろうとするのです。

だけど、ミカエルの命がまた危険にさらされることを偶然に知った。

だから、ミカエルを救うために、また安易な行動ではありますが、

走って農夫の家まで戻ります。この行動に「自分のため」という感情が

挟まる余地があるとしたら、「ミカエルを救いたい」という自分の気持ちを

埋めるために、救いに戻ったということになるのでしょうか。



>ここらから、彼女の覚悟は固まってきているように思う。

>命がけの吊り橋渡り、そして、山奥の男との結婚。

>けど、まだ覚悟は固まってなかった。

>ミカエルのせいで自分は不幸なんだという思いが彼女のどこかにあったはず。

>その証拠に彼女は結婚生活になかなか馴染めない。



つり橋を渡ることも、山奥の男との結婚も、すべて「自己犠牲」です。

彼女は、このときすでに私の言い方で言うならば ミカエル>自分。

でも、一方でもちろんそれは、自分がミカエルに尽くしている、

自分はミカエルのせいで不幸だという「自己満足」でもあるのです。

不幸だとは思っていなかったと思いますが、

これは「不幸」という言葉の捉え方の違いでしょうね。

私は、ミカエルに尽くせることで「自己満足」、つまり幸せだと

グルシャは思っていたと思うので。



そして、彼女が結婚生活に馴染めなかったというよりも

結婚生活を拒否したのは、シモンがいたからでしょう。

私は、そこにミカエルの影響はないと思います。
マツタコ管理人
「自分のため」
続きです。



>実際、彼女は途中でミカエルの面倒が見切れなくなってミカエルを

>捨てようとするシーンが出てくる。

>そこにはいろいろな言い訳が生じてくる。

>彼女には覚悟がなかったことがそこにも表れている。



自分の「かわいそう」という気持ちを満足させるための行動でもあるけれど、

それはミカエルを救う行動でもある。

たとえば、医者は人の命を救う、消防士も人の命を救う。

もちろん、彼らには自己満足な気持ちがあるはずです。

だけど、自己満足だからと言って、

人の命を救うという素晴らしい行為の価値が減るでしょうか?

自己満足でいいんじゃないでしょうか?



そして、グルシャは、確かに安易な行動で覚悟がなかったために、

一度は捨てようとしますが、それは、身勝手というよりは、

自分の力の無さを思い知ったからだと思います。

人を救い、生かすためには、自身が強くなければならないのです。

だから、それにふさわしい人に育ててもらえるように考えた。



>しかし、実際、捨てて自分の身勝手さに気付き、

>再び「善の誘惑」に苦しむこととなる。

>彼女は再び、ミカエルを自分のもとで育てようと思う。

>グルシャは何度かこういった「善の誘惑」に向き合う事で、

>「善の誘惑」ではなく、自ずから「溢れ出る善」へと近付いていったのではないか?



管理人さんは「誘惑」の中に「自分のため」というマイナスイメージを

もたれているんでしたよね?

私は、グルシャがミカエルから解放された後、

喜びそして悲しむシーンが大好きなんですが、

私は、このときに管理人さんの言うところの「あふれ出る善」ではなく、

逆に「自分のため」に悲しみだしたのだと思っています。

もし、農夫たちがいい人たちならば、

育てる能力のないグルシャが育てるよりははるかにいいわけです。

だけど、グルシャにとってミカエルが特別な存在に成り出し、

自分の寂しさのために手放したくはなかったのです。本当は。



管理人さん 「自己満足な善」→「あふれ出る善」

私     「アガペー(隣人愛)」→「自分のためのエロス的愛」



面白いですね、同じ作品を観ながら、まったく逆の発想を持つ。
マツタコ管理人
「誘惑」と「自己満足」
私の中の「誘惑」というイメージですが、

>「誘惑」というのは悪いイメージがあるのと、

>「誘惑」っていうのは外からのものという印象があります。

>実際に国語辞書で「誘惑」の意味を調べてみました。

>「心を迷わせて、さそい込むこと。よくないことにおびきだすこと」



「誘惑」は、the seductive power

魅惑的な人を引き付ける力、そそのかす力。

このような意味です。

私は、ここでいう「誘惑」は、

「社会で楽な生き方をする」ことから引き離される方向に

誘われ、惑わされることだと思っています。



「外から働く力」という印象をもたれているようですが、

最終的に何かを決定するのは人の心、すなわち「内からの力」です。

「外から働く力」が「内からの力」を揺り動かす。

その「内からの力」には、善の心と悪の心がある。

それが葛藤するのが人間だと思います。



>最初、グルシャがミカエルを拾ったのは「善の誘惑」から。

>そこにはまだ迷いがあり、覚悟には到っていない。

>「かわいそうだから」という気持ちが勝っての、

>その気持ちを埋めるための自己満足からの安易な行為だったのではなかろうか?



「かわいそう」という気持ち、私もこれが「善の誘惑」だと思っています。

そして、「かわいそう」という気持ちが無償で起ることこそが「アガペー」。

その「かわいそう」という気持ちを埋めることは、

おっしゃるように確かに自分のための行為です。

安易な行為というのもそうでしょう。自分を窮地に陥れますから。

自分が窮地に陥ることを十分にわかった上での行為でないことは確かです。
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