風林火山
登場人物 第13弾
「飯富虎昌」(おぶとらまさ)
「戦国時代の武将」「武田家の家臣」で
「武田二十四将」の「一人」
「永正元年」(1504年)に生まれたとされているが
「生年」には「諸説」があって「定か」ではない。
一時期「今井信元・栗原兵庫」らと「共」に
「信虎」に「謀反」したこともあるが
「降参」して許されその後は「信虎」に「従った」
「天文5年」(1536年)に
「北条氏綱」が「駿河」に「侵攻」すると
「信虎」と共に「今川軍の援軍」として「参戦」し
「北条軍」を大いに「破った」
「天文7年」(1538年)にも
「諏訪頼満・村上義清」の「連合軍」と戦い
このとき「寡兵」であるにも関わらず
数で勝る「連合軍」を打ち破り
自らは「首級97」を「挙げる」という
「軍功」を「挙げた」とまでされている。
「天文10年(1541年)
「武田家宿老」であり「有力国人」であった
「板垣信方」「甘利虎泰」らと「共」に
「信虎の嫡男・晴信」を「擁立」して
「信虎」を「駿河」に「追放」し
以後は「武田家の宿老」として「晴信」をよく支えた。
「天文17年」(1548年)
「板垣信方」と「甘利虎泰」が
「上田原の戦い」で「戦死」した後は
「武田軍団」の「中核」となって「信玄」を支えた。
「軍事面」では常に「武田家の最前線」に立ち
「天文22年」(1553年)に
自らが「守備」する「内山城」を
「長尾景虎」(上杉謙信)「村上義清」の
「8000の軍」に囲まれた時には
わずか「800の手勢」でこれを「撃退」した。
「永禄4年」(1561年)の
「第4次「川中島の戦い」では
「妻女山攻撃」の「別働隊」の「大将」を
務めるなど「柱石」として
「武田氏躍進」に「尽力」するとともに
「信玄の嫡男・武田義信」の「傅役」(後見人)に
「任命」されるなど「武田家随一」の
「宿老」として「重き」を成した。
『甲陽軍艦』に拠れば
「傅役」を務める「義信」と
「信玄父子」の仲は決して良好なものではなく
「対今川氏」の「方針」をめぐって
「信玄」と「義信」父子が「対立」を深めると
「虎昌」は「義信」を担いで「謀反」をたくらんだとして捕らえられ
(密告したのは虎昌の弟(甥)の三郎兵衛・後の山県昌景)
「永禄8年」(1565年)10月19日
その「責任」を取らされる形で「自害」した。
これにより「飯富家」は「断絶」し
「虎昌の家臣」は「三郎兵衛」が
「山県家」の「名跡」を襲ったのに
併せて引き継ぐこととなった。
(享年62歳)
「墓所」は「山梨県甲斐市亀沢」
(旧中巨摩郡敷島町)の「天沢寺」
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登場人物 第13弾
「飯富虎昌」(おぶとらまさ)
「戦国時代の武将」「武田家の家臣」で
「武田二十四将」の「一人」
「永正元年」(1504年)に生まれたとされているが
「生年」には「諸説」があって「定か」ではない。
一時期「今井信元・栗原兵庫」らと「共」に
「信虎」に「謀反」したこともあるが
「降参」して許されその後は「信虎」に「従った」
「天文5年」(1536年)に
「北条氏綱」が「駿河」に「侵攻」すると
「信虎」と共に「今川軍の援軍」として「参戦」し
「北条軍」を大いに「破った」
「天文7年」(1538年)にも
「諏訪頼満・村上義清」の「連合軍」と戦い
このとき「寡兵」であるにも関わらず
数で勝る「連合軍」を打ち破り
自らは「首級97」を「挙げる」という
「軍功」を「挙げた」とまでされている。
「天文10年(1541年)
「武田家宿老」であり「有力国人」であった
「板垣信方」「甘利虎泰」らと「共」に
「信虎の嫡男・晴信」を「擁立」して
「信虎」を「駿河」に「追放」し
以後は「武田家の宿老」として「晴信」をよく支えた。
「天文17年」(1548年)
「板垣信方」と「甘利虎泰」が
「上田原の戦い」で「戦死」した後は
「武田軍団」の「中核」となって「信玄」を支えた。
「軍事面」では常に「武田家の最前線」に立ち
「天文22年」(1553年)に
自らが「守備」する「内山城」を
「長尾景虎」(上杉謙信)「村上義清」の
「8000の軍」に囲まれた時には
わずか「800の手勢」でこれを「撃退」した。
「永禄4年」(1561年)の
「第4次「川中島の戦い」では
「妻女山攻撃」の「別働隊」の「大将」を
務めるなど「柱石」として
「武田氏躍進」に「尽力」するとともに
「信玄の嫡男・武田義信」の「傅役」(後見人)に
「任命」されるなど「武田家随一」の
「宿老」として「重き」を成した。
『甲陽軍艦』に拠れば
「傅役」を務める「義信」と
「信玄父子」の仲は決して良好なものではなく
「対今川氏」の「方針」をめぐって
「信玄」と「義信」父子が「対立」を深めると
「虎昌」は「義信」を担いで「謀反」をたくらんだとして捕らえられ
(密告したのは虎昌の弟(甥)の三郎兵衛・後の山県昌景)
「永禄8年」(1565年)10月19日
その「責任」を取らされる形で「自害」した。
これにより「飯富家」は「断絶」し
「虎昌の家臣」は「三郎兵衛」が
「山県家」の「名跡」を襲ったのに
併せて引き継ぐこととなった。
(享年62歳)
「墓所」は「山梨県甲斐市亀沢」
(旧中巨摩郡敷島町)の「天沢寺」
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