森羅万象

日本社会で起きた出来事についての私の感想

アイヌ語地名ー日本編ー大和(2)

2009-04-06 14:52:05 | Weblog
ここまで準備しておいて、大和(yamato)をアイヌ語で考えてみる。
アイヌ語で「to」は「海、湖」のことだ。

ya(陸)+mak(奥)+to(湖) > yamakto > yamatto(yamato) > やまと(大和)

アイヌ語辞書によると「yamakto」みたいな「kt」つながり部分は、
発音では「tt」になるそうだ。
アイヌは縄文時代から「陸の奥の湖」と大和地方を呼んでいた。
正確には「アイヌ語を話す先住民が yamato という地名で呼んでいた」ということだ。
大和がアイヌ語地名であるということは、縄文時代に奈良地方にもアイヌが先住していた証拠だ。

九州には、例えば
薩摩(satuma=sat+tomam、乾いた-湿地)
というアイヌ語地名等があるから
アイヌは北海道だけでなく、日本列島全域に先住民として暮らしていた事になる。
さらにアイヌが先住していた地域は、日本列島や樺太だけでなく、朝鮮半島や沿海州にも及ぶ。

だ か ら 「邪馬台国は大和だ」と声高になっている勢力がいるが、
それは大きな間違いだということ。
大和地方が邪馬台国だったことは歴史上、一度もない。

ただあやかりとか、今風に言うなら村おこしとか、権威付けとか、
そういうので、滅びてしまった邪馬台国、たぶん倭・倭国で、
倭の五王、白村江や広開土王碑等に登場する倭国だろうが、
その倭国の歴史、倭国の支那・朝鮮での地位、倭国の権威を
パクって、後付して、史料とやらをそれらしく、潤色することはあるだろう。
実際は潤色された資料を史料と現代で呼んで、尊んでいるんだろう。
また、邪馬台国は九州北部のことで、大和に東進したことも、ありません。

yamato は縄文時代から現代まで、一貫して yamato でした。
邪馬台国と呼ばれたことは、一度もありません。
「大和は邪馬台国だ」というのは間違いでしたね。

アイヌ語地名ー日本編ー大和(1)

2009-04-06 14:49:51 | Weblog
大和の起源と邪馬台国について…

日本では大和は結構重要に扱われてる地名だ。
かつての奈良盆地は縄文時代から弥生初期には湖だった。
湖水は生駒山狭窄部から、今は埋め立てられた「旧」大阪湾に流れ出ていた。
奈良盆地の地下はすぐに花崗岩になっていて、その上に湖があった。
http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/edo/index.html
↑ここは視覚的でわかりやすく詳しい。

んで、弥生時代に入ってから湖周辺の森林を大量に伐採するようになった。
縄文人とは人種が違う弥生人と呼ばれる集団が侵入してきたためだろう。
大量のスエキ製作で木材が必要になり、森林伐採したと思われる。
あちこちに窯を作っては周囲の森林を伐採した。
周囲に森が無くなると、窯を新たな森に移動しては、また森林伐採を繰り返した。
そういう窯後には失敗作のスエキや土器が大量に捨てられた。
燃え残りの炭素や土器の形式などで、窯のあった大体の年代が求められている。
京都地方が紀元前後、摂津の方が3-4世紀、石川の方が7世紀前後だったかな?
奈良が少し古かったかな、数字はあやふやだが、とにかく弥生時代になってからだ。
この資料は確か大阪府教育委員会かな、そこが調査して公表したはずだ。

現代と同様に、森林伐採することで、山肌が崩壊して、土砂が湖や川に流れ出した。
雨が降る度に、山の土砂が崩れ、湖や河川は氾濫を繰り返して
そうやって、奈良盆地にあった湖はだんだん浅くなり、やがては消滅した。
記録によると、何とかという天皇が、洪水防止目的で生駒山狭窄部で河床掘削を行ったそうだ。

ちょっとあれなんだが、こういう地層構造のために、
花崗岩の上に薄い土砂層があるだけという地層構造のために、
奈良盆地ってのは、飲料水に厳しい地域だと聞いた記憶がある。

これは私の想像だけど、逆にいったん雨が降ると、
この地域は、すぐに洪水になりやすいのではないだろうか。
元々が湖だった地域だからだ。

さらに、大和という地名は、縄文-弥生時代にあった湖周辺に、字・大字のように
円周上というか、まあ円形に分布していると、歴史・地名研究家は指摘している。
そりゃそうだ、湖だった時代には、湖の上に地名が存在するわけがない。

さらにさらに、「やまと」の漢字表記は
「大和、倭、山門、日本」などとバラバラで一貫性がない。
こういう漢字表記群では、どこが「や」で、どこが「ま」で、どこが「と」かを
正確にわかる人は少数だろうな。
ただ唯一に共通しているのは「yamato」という音、「やまと」という読み方だけだ。

アイヌ語ー土地・大地(shir)

2009-04-06 14:47:42 | Weblog
それから、アイヌ語の shir(土地、大地)なんだが
日本語で土地、大地、希に国とか書いたんだが、
意味的に、若干ずれていると思う。
表す日本語が思いつかないので、辞書にはそう書いてあるそうです。
アイヌ語shirの使用例では、例えば

  shir-pirika (天気が良い)
  wen-shir (天気が悪い)
  aynu-moshir = mo(安全な、危険がない、平安・平穏な)+shir(土地)

つまりアイヌ語の shir というのは、日本語で言う土地・大地のような
平面的な感じじゃなくて、その上の空間も含んだところの
3次元の空間、3Dの様な、立体的な土地の事だから、
日本語の土地とは似てるけど若干意味が違う。
あるいは例えば、農作業の「代かき」にあるような平面の田んぼじゃなくて
もっと立体的な、鳥とか雲とか飛行機とかが飛び回る3次元空間を
はっきり意識した意味での、土地・大地だそうですから、念のため。

アイヌ語と日本語ー新羅・城

2009-04-06 14:44:26 | Weblog
朝鮮半島の新羅つながりの shir で、亡くなった大野晋によると…
「治(しら)すべし」とか、平安時代からだが「領知(領地)」とか知行とか
「知る」という言葉の語源は、「土地」じゃないかと言っていた…はずだ。
この大野晋の主張を読んだ時に、アイヌ語辞典からパクって来たなと思った、泥棒だ。

勿論大野晋はアイヌ語との関連なんか書いてなかったけどね。
まあ、あれこれ手広く勉強はしていたんだろうな。
大野晋が言うには、土地を自分の物にすると、その土地のことを良く「知る」ようになる。
つまり「知る」につながるってことを言ってたはずだ。

まあ、もっと単純に考えて、土地を所有することは、統治であるから、
「治す」って意味が出るんだけど、
ただこの説明だと、アイヌ語を無視できなくなるので、やめたんだろう。

それと、残念なことに日本語辞典に「しる」で土地の意味は無いんだよね。
ただ、地名にはshir(土地・大地)が残っている(能代、松代、網走…)
もし日本語辞書に「しる」で土地・大地の例があるだろうか。

んで、まあアイヌ語だと「shir」は土地、大地、天気に使われるような
三次元空間を意味するところの土地・大地の意味がある。
だから、もしアイヌ語が日本語の源流ならば、

shir(土地・大地) 
 > shirasu(しらす・治す、土地の所有や支配、つまりshirの動詞形だよな)
 > shiru(知行、領知の知はシルから派生) 
 > shiro(しろ・城) 
 > shiru(知る=大野晋説、チョイ疑問w)
 > shiro(きりしろ、のりしろ)雰囲気が出てる。 
 > shiro+kaki(しろかき)田んぼの農作業だが、なんかこれもありそう。 

こういうスムーズな流れが展開できるんだ。
城なんてshir にピッタリな言葉だと思う。
城の語源は shir っていうことで、行きたいんだが…
まあ、中国語では城は「しろ」と読まないだろう。

日本列島と朝鮮半島の考古学(2)

2009-04-06 14:40:42 | Weblog
今の朝鮮人のご先祖様に、つながるだろうと思われる人種が
朝鮮半島に登場したのは、最大古くても今から約2700-2800年前で
3000年前までは遡れない。
鴨緑江が流れている海岸沿いに、西方から、そういう人種集団が南下して、
朝鮮半島全域を侵略したのが契機だ。
それ以来、縄文人つまり今で言うアイヌだが、朝鮮半島から居なくなった。
こういうのを人種の交代と呼ぶそうだが、侵略以外の何物でもない。

だから朝鮮人の場合は、朝鮮半島での歴史は浅くて
半万年なんてのは、全くの大嘘、捏造以外の何物でもなく、
日本人として、近隣諸国との友好を重んじて、大甘に見てあげても、
せいぜい2700-2800年程度の歴史しか無く
考古学的には、これでもうイッパイ、イッパイ、忍耐の限界の数字だ。

なぜ彼らが朝鮮半島に南下したかだが
2700-2800年前の縄文晩期は、どうやら小氷河期らしく
それまでの温暖化していた気候が、寒冷化した時期で
食料や温暖な土地を求めて、北方の人間が南下し侵略したと考えられている。
縄文晩期の次の弥生時代は、逆に温暖化した時期で、
海面も現在より5m程高かったので、弥生海進と呼ばれている。
暖かかった縄文時代中期は、縄文海進と呼ばれていて、
最大で10m程海面が現在より高かったと言われていたはずだ。

日本では縄文時代、弥生時代と大きく分けられるけど
弥生時代が始まったのは、今から約2300年前と言われている。
縄文と弥生の違いは人種の違いだ。
2700-2800年前に鴨緑江河口から侵略してきた集団が
500年ほど掛けて朝鮮半島で人種の交代を引き起こし
更に日本列島にもその侵略の手を伸ばした。
こういう大きな異なる人種の衝突が縄文と弥生の違いだ。

なぜ、縄文人がこのように侵略され続けたのかというと
縄文人には武器が無かった、人殺しの道具を持っていない、武装していなかったからだ。
縄文時代の弓では鏃が小さくて殺傷能力がない。
現代の日本で例えて言うなら「非武装中立、平和憲法死守」みたいな感じだろうな。

例えば剣(つるぎ)は弥生以降のものだが、両刃で、人殺し以外に使えない道具だ。
両刃の道具って、危なくて扱いが面倒で、人殺し以外には使えない。
天皇家の三種の神器にも剣があったが、そういうことなんだろう。
一方で刀ならば片刃で、何とか人殺し以外に、道具にも使える。
んで日本では、なぜか剣(つるぎ)が発達しなくて刀(かたな)が主流なんだよな。

剣は両刃だから、技能が無くても、突いたり振り回せば、
そこそこに人殺しは出来る、そういう武器だ。
でも刀の場合は、片刃だから、突きの場合は剣と同じに出来るが
単純に振り回しても、峰打ちの場合は、人殺しはできない。
太刀筋と刃の向きの「流れ」を習得しないと、人殺しができない武器だ。
人殺しするのに、技(わざ)が必要なように、「わざわざ」面倒くさいことをした。
不思議なことをしたもんだなと思うが、まあ、刀は実戦的じゃないと思う。

日本列島と朝鮮半島の考古学(1)

2009-04-06 14:37:53 | Weblog
朝鮮半島は氷河期が終わってから、4000年ほどの期間、無人地帯だった。
その後、今から6000-6500年前に、
北の豆満江(6500年前)や南の洛東江河口(6000年前)に
縄文人が住み着くようになった。ほぼ同時期だな。
やがて海岸伝い、川伝いに縄文人が朝鮮半島内部に拡大していった。
これは縄文土器・縄文貝塚・縄文人の人骨遺跡などで明らかになっている。
ここから出土する人骨を朝鮮人が見て、ウリのご先祖様じゃないと悔しがっている。

なぜ、氷河期後、間氷期の4000年間も朝鮮半島が、無人地帯だったのかと言うと
朝鮮半島が海に突き出した形だからだ、半島形状だからだ。
氷河期から温暖化した際に、寒い気候を好む植物は北に逃げた。
寒冷を好む植物を餌にしていた昆虫や動物、更にマンモスハンターも北上した。
しかし暖かい気候を好む植物は、半島地形ゆえに、海に阻まれてしまって、
南の日本列島や西の中国大陸から朝鮮半島に移動できなかった。
まあせいぜい、渡り鳥くらいしか、朝鮮半島に植物の種を運ばなかった。
だから温暖化した気候に適した植生の回復に時間が掛かる。
そのために、朝鮮半島は植生が乏しく、昆虫や動物を養う餌がなかった。
旧大陸も、西はピレネー山脈、南はアルプスに遮られて、植生が非常に貧しい。

一方で、日本列島は南北に非常に長く、そして海岸沿いが開いている地形なので
植物が種を飛ばしながら、南北に自由に行き来が出来る。
気候変動に応じて、寒冷が好きな植物、温暖が好きな植物が、逃げたり侵入したりで
絶えてしまわないので、日本列島は植生が非常に豊かになった。
昔読んだので、数字があやふやだが、
旧大陸だと樹木の種類は30種類くらいだそうで
日本の場合のそれは1000種類以上あると書いてあった。
1043種類?前後と書いてあったような気がするな。
数字はちょっとあれだが、それほどまでに、日本は植生が豊かだということなんだろう。

アイヌ語地名ー日本と朝鮮半島編ー白神・猿田彦・新羅

2009-04-06 14:35:53 | Weblog
新羅は古くは、それぞれ斯蘆国(しろ、シラ)、辰韓(しんかん)と呼ばれ、
辰韓の中の後の新羅になるのが斯蘆国だということだ。

いずれの国の発音も「shiro、shira、shin+kan」になっている。
語頭がshir(大地・土地)で、たまに語尾にra(低い所)が付いてる。

つまり、土地の低いところ、低地が特徴の場所だ。
それもちっぽけな低地じゃなく凄い低地、広大な低地で、その場所に行ってみたら
「ここは広大な、ものすごい、低地になってるなあ」
という印象を持つくらいの低地だ…つまり日本語で言ったら大きな盆地だ。
そして新羅とは朝鮮半島の内陸部で盆地にある。

一方でshir(土地・大地)は、日本にも残っている。
例えばブナの原生林で有名な白神(しらかみ)山地は

shir+un+kamuy = しらかみ

あと、例えば白鬚(しらひげ)神社は、shirが語頭に来る。
ここの祭神が猿田彦命(さるたひこ)だが
アイヌ語でsar=谷地だからな、なにかあるんだろう。
猿田彦のhomeは伊勢の五十鈴川だそうで、航空写真を見ると
この周辺はtomam(湿地)とsar(谷地)が入り組んだ地形に見える。
白髭神社の由来を読んでいて、どうしようもなく「這い乗り」のイメージが湧いてきてねw

アイヌ語地名で shir 関連は「尻、白、知、城、代、走」等の
漢字に置き換えられたのも、言っておくか。

アイヌ語地名ー朝鮮半島編ー済州島

2009-04-06 14:34:06 | Weblog
済州島では集落のことを kotan(こたん)と言うそうだ。
それから、もう一つ思い出したが、チャシも済州島で使っていたはずだ。
アイヌ語ではchasi(柵)だが、やがて砦へ拡大したようだな。
因みに朝鮮語でsashが城を意味するそうだが、音が似てるね。

んで、アイヌ語で kotan とは集落のことだが、
この kotan は kot+an という二つの言葉から出来ている。
即ち kot(窪地、くぼんだ状態) と an(あり) に分けられる。
つまり「kotan」とは「窪地、あり」という意味で、
窪地が目立つほどにある状態で、そこに行くと
「ここには窪地があるよな」と感じる様な状況
窪地が多数、あちこちにある状態をkotan(集落)と言うそうだ。

んで、それじゃあ、なぜ窪地があちこちにあると、
集落の意味になるのか?なんだが
その理由は、竪穴式住居のことを言ってるからだそうだ。
縄文時代の住居は、地面を掘り下げて作ったと小学校で教わっただろ。
それのことをアイヌが kotan と言ったんだな。
竪穴式住居は縄文時代だけでなく、平安時代まで残っていたと思ったな。

繰り返しだが、北海道のアイヌが済州島まで出かけて
「集落はkotanと言うんだよ」と教えて、北海道に帰ったのではない。
北鮮に出かけて「ここは湿地だからtomamだよ」と教えて帰ったのでもない。
新羅に出かけて「ここは盆地だからshir+raだと」教えて帰ったのでもない。
珍島に出かけて「ここは干潮時に歩いて渡れる海だからchin+toだよ」
と朝鮮人に教えて、aynu+moshir(北海道)に帰ったのではない。
日本列島はもちろん、朝鮮半島、東シベリア、カムチャッカ、樺太一帯に
アイヌが先住していたから、アイヌ語地名が残る。

アイヌ語地名ー朝鮮半島編ー新羅

2009-04-06 14:06:15 | Weblog
「しんら、しらぎ」はアイヌ語地名だ。

shir+ra(大地の低地、盆地だろう) > shinra > しんら > 新羅
shir+ra > shira > しらぎ > 新羅

「ぎ」が何を意味するか不明だが
新羅は古くは、それぞれ斯蘆国(しろ、シラ)、辰韓(しんかん)と呼ばれ、
辰韓の中の後の新羅になるのが斯蘆国だということだ。

いずれの国の発音も「shiro、shira、shin+kan」になっている。
新羅の発音は多くは「しらぎ/しんら/シルラ」になる。
シルラなんてアイヌ語そのままなんだがな。
まあ、どう発音するか悩ましくもある。

shir+ra > shin+ra 

は発音してみるとほぼ同じだぞ、rがダブってるからだ。
共通してるのは、語頭がshir(大地・土地)で、
たまに語尾にra(低い所)が付いてる。

豆満江 < とまん < tomam=湿地

北鮮の有名な国境付近の河川だが、大きな、目立つ、広大な湿地があると思われる。
とそう思って、世界地図・航空写真を見てみると
河口部分が広大なtomam(湿地)になっている。
海水面が高い縄文海進の時代は、もう少し内陸に入り込んだtomamだったはずだ。

珍島、チンド < chin+do = chin(足)+to(海・湖) = 足の海

珍島は干満の差が激しくて、干潮時は海が干上がり、歩いて島に渡れる。
つまり「足」で歩いて島に渡れる「海」だから chin+to(do) なんだ。
島の名前じゃなく、本来は海の名前なんだが、
朝鮮人はよそ者だから、それがわからない。

この chin(足)は日本語にも残っていて、今でも使われている。
おチンチン(男性器、まあ中足だな)とか、チンバ(足の悪い人)とか言う。

アイヌ語地名は日本列島だけでなく朝鮮半島にも散在している。
アイヌ語地名が朝鮮半島に散在している事実は大きいぞ。
近現代になって、北海道からアイヌが朝鮮半島に出かけて
アイヌ語地名を朝鮮人に教えてから、また北海道に帰ったのでない。
それ以前にアイヌが朝鮮半島全域に先住していたからこそアイヌ語地名が残る。
つまりアイヌは日本列島だけでなく朝鮮半島でも先住民族だった証拠だ。