「このせりふにみられる主張は、人間は他の動物と違って、単に事実生きただけでは自分で納得できるように「生きたこと」にもならないような特殊な生き物だ、という趣旨のものである。われわれは自分の行いを反省し、たえず「よかったのか、まずかったのか」と自問自答し、考えながら、そこで自分なりに出した答えとしての考えを、行ったことに一連のものとして継続する選択や、似たような選択の起こる次の機会において、活かそうとする。明らかに犬や猫は、このように生きていない。」
レジメにあったこの記述を読んで、なるほどと思った。人間が自分の行いを反省したり自問自答したり出来るのは、「考える」ことが出来るからだと思う。それは、人間だけに与えられた特権だ。どの動物もそれぞれにしか無いものを持っており、それらをフル活用して生きている。逆に言うと、それらを上手く活かせなければ、彼らは自然界の厳しい条件下で生き抜くことが出来ない。
だが、人間は違う。特権をフル活用せずとも生きていける。というよりむしろ、そういう、特権をフル活用して生きている人間の方が稀少であると私は思う。私自身も、日々生きていく中で漠然と(特に何も考えずに)時を過ごしている自分に気付き、自己嫌悪に陥る事が多々ある。だが、考えさせられるような映画を観たり、じっくり推敲しながら創作をするなどして、深く物事を考えることが出来た日には、とても生き生きしている自分に気付く。何というか、「生きている」という実感がつかめるのだ。深く物事を考える、ということは体力的にも精神的にも実にパワーを消耗することであるが、人間にとって決して切り離せないことだと私は思う。
ソクラテス以外にも、「考える」ことの重要性を説いている哲学者は少なくない。例えば、パスカルは「パンセ」の中で、「人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。しかしそれは考える葦である」として、人間の、思考する存在としての偉大さを言い表している。
私達は「考える」事をもっと「生きる」こととリンクさせなければならない。そうすれば、人間の可能性はもっと拡がるのではないかと思う。きっとソクラテスも少なからずそんなことを考え、色んな人のもとを巡ったのではないか。
彼はまずある政治家(アニュトスだと思われる)のところへ訪れた。
「かれを相手として吟味しているうちに、私は何か次のようなことを経験したのです。すなわち、かれと対話しているうちに、その人物は知恵があるものと他の多くの人間に思われ、また、とりわけ本人がそう思い込んではいるものの、しかし実はそうではないと私には思われたのです。(22頁)」
政治家の後には、彼は作家たちのところに赴いた。
「かれらの作品の中から、かれらによって最も入念に仕上げられていると私に思われた作品を取り上げて、かれらに何を言おうとしているのか詳しく問いただしたのです。(中略)ところで諸君、皆さんに本当のことを申し上げるのをはばかりはするのですが、それでもお話しないわけにはゆきません。と申しますのは、そこに居合わせたもののいわばほとんどすべての者のほうが、作家たち自信が作った作品について、かれらよりも、うまく説明することができただろうということです。(24-25頁)」
そして最後に、彼は手仕事の技術を持つ人々のもとへ出かけた。
「どの職人も、その技術を見事に発揮することができることから、それ以外の最も重要な事柄に関してもまた最も知恵があるとみなしていたのです。そしてかれらの、その度を過ごしている点が、先の知識を覆いかくしているように思われたのです。(26項)」
ソクラテスは、その政界の人は他の人に思われているほど知恵がないと思えた、と述べている。そして彼はその事を説明しようと努めた。その結果彼はその政界の人からもまたその場にいた多くの人々からも憎まれる事になった。
このようにしてソクラテスを憎む人が増える事により、彼が裁判にかけられる下地が出来上がっていったのだろう。政界の人や他の多くの人々が考える知恵と、ソクラテスが何より大切なものと考える智慧とは、その意味合いが大きく異なっていたのだ。ソクラテスが私欲からではなく、ある使命感から説いた話が、当時の人々に正しく理解されなかった事を物語っている。
政界の人は政界の事についての知識には優れている、なのに彼と他の多くの人々は智慧にも優れていると思い込んでいる。そこをソクラテスは指摘したのだ。さらには、作家(メレトスなど)や手工者にも同じ結果をうける。それぞれが専門とする業に優れている人は、他の重大な事柄についても優れていると思い込んでいた、とソクラテスは述べている。
現代においても、政界、財界、学会、文学界、芸能界、スポーツ界等々それぞれの専門分野で特に優れている人はたくさんいるが、ソクラテスの指摘は同じように生きているのではないだろうか。ソクラテスは、名声のある人々より、尊敬されることの少ない人々のほうがむしろ思慮に優れていると思えたと述べている。それは、知らないのに知っていると思っている人より、知らないので知らないと思っている人(無知の知)のほうが優れているというソクラテスの言葉にもよく表れている。
レジメにあったこの記述を読んで、なるほどと思った。人間が自分の行いを反省したり自問自答したり出来るのは、「考える」ことが出来るからだと思う。それは、人間だけに与えられた特権だ。どの動物もそれぞれにしか無いものを持っており、それらをフル活用して生きている。逆に言うと、それらを上手く活かせなければ、彼らは自然界の厳しい条件下で生き抜くことが出来ない。
だが、人間は違う。特権をフル活用せずとも生きていける。というよりむしろ、そういう、特権をフル活用して生きている人間の方が稀少であると私は思う。私自身も、日々生きていく中で漠然と(特に何も考えずに)時を過ごしている自分に気付き、自己嫌悪に陥る事が多々ある。だが、考えさせられるような映画を観たり、じっくり推敲しながら創作をするなどして、深く物事を考えることが出来た日には、とても生き生きしている自分に気付く。何というか、「生きている」という実感がつかめるのだ。深く物事を考える、ということは体力的にも精神的にも実にパワーを消耗することであるが、人間にとって決して切り離せないことだと私は思う。
ソクラテス以外にも、「考える」ことの重要性を説いている哲学者は少なくない。例えば、パスカルは「パンセ」の中で、「人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。しかしそれは考える葦である」として、人間の、思考する存在としての偉大さを言い表している。
私達は「考える」事をもっと「生きる」こととリンクさせなければならない。そうすれば、人間の可能性はもっと拡がるのではないかと思う。きっとソクラテスも少なからずそんなことを考え、色んな人のもとを巡ったのではないか。
彼はまずある政治家(アニュトスだと思われる)のところへ訪れた。
「かれを相手として吟味しているうちに、私は何か次のようなことを経験したのです。すなわち、かれと対話しているうちに、その人物は知恵があるものと他の多くの人間に思われ、また、とりわけ本人がそう思い込んではいるものの、しかし実はそうではないと私には思われたのです。(22頁)」
政治家の後には、彼は作家たちのところに赴いた。
「かれらの作品の中から、かれらによって最も入念に仕上げられていると私に思われた作品を取り上げて、かれらに何を言おうとしているのか詳しく問いただしたのです。(中略)ところで諸君、皆さんに本当のことを申し上げるのをはばかりはするのですが、それでもお話しないわけにはゆきません。と申しますのは、そこに居合わせたもののいわばほとんどすべての者のほうが、作家たち自信が作った作品について、かれらよりも、うまく説明することができただろうということです。(24-25頁)」
そして最後に、彼は手仕事の技術を持つ人々のもとへ出かけた。
「どの職人も、その技術を見事に発揮することができることから、それ以外の最も重要な事柄に関してもまた最も知恵があるとみなしていたのです。そしてかれらの、その度を過ごしている点が、先の知識を覆いかくしているように思われたのです。(26項)」
ソクラテスは、その政界の人は他の人に思われているほど知恵がないと思えた、と述べている。そして彼はその事を説明しようと努めた。その結果彼はその政界の人からもまたその場にいた多くの人々からも憎まれる事になった。
このようにしてソクラテスを憎む人が増える事により、彼が裁判にかけられる下地が出来上がっていったのだろう。政界の人や他の多くの人々が考える知恵と、ソクラテスが何より大切なものと考える智慧とは、その意味合いが大きく異なっていたのだ。ソクラテスが私欲からではなく、ある使命感から説いた話が、当時の人々に正しく理解されなかった事を物語っている。
政界の人は政界の事についての知識には優れている、なのに彼と他の多くの人々は智慧にも優れていると思い込んでいる。そこをソクラテスは指摘したのだ。さらには、作家(メレトスなど)や手工者にも同じ結果をうける。それぞれが専門とする業に優れている人は、他の重大な事柄についても優れていると思い込んでいた、とソクラテスは述べている。
現代においても、政界、財界、学会、文学界、芸能界、スポーツ界等々それぞれの専門分野で特に優れている人はたくさんいるが、ソクラテスの指摘は同じように生きているのではないだろうか。ソクラテスは、名声のある人々より、尊敬されることの少ない人々のほうがむしろ思慮に優れていると思えたと述べている。それは、知らないのに知っていると思っている人より、知らないので知らないと思っている人(無知の知)のほうが優れているというソクラテスの言葉にもよく表れている。