阜陽日記

主として家族・知人などへの近況報告用の公開日記

2011年9月26日~30日

2011-09-30 20:02:44 | 日記
 9月26日(月)。曇。授業。夜、阜陽市内散策。
 27日(火)。曇。授業。
 28日(水)。曇時々雨。授業。旧校舎(清河校区)と新校舎(西湖校区)の間を歩いてみたが、30分ほどかかった(まあ、路線バスもタクシーもあるので、無理して歩く必要はないのだが)。午後、阜陽市内散策。さすがに歩いて回るには広すぎる街だけれど。
 29日(木)。雨。授業。初任給を受け取る。夜、新校舎にて新入生歓迎会に引っ張り出される。
 30日(金)。曇。授業。午後、阜陽市内散策。
 今週はそれほど書くことなし。明日(10月1日)から7日までは国慶節で休み。

2011年9月19日~25日(荷物到着ほか)

2011-09-25 19:56:12 | 日記
 先週の日記で「(日本には)月餅というものは無い」とうっかり書いたところ、日本でもいちおう菓子として売られている、という当然の突っ込みを受けた。まあ、特に中秋節に食べるという習慣は無い、という話ではあるのですが。

 19日(月)。曇時々雨。
 授業。

 20日(火)。曇のち晴。
 昨日あたりからまた急に寒くなる。
 授業。

 21日(水)。晴。
 授業。
 見事な晴天で、気温も上がる。阜陽に来てからこんなに天気がいいのは初めて。
 出国前に家から送った荷物(書籍と冬物の衣服)がようやく届く。中身はほぼ無事だったのだが、段ボール箱は見事にボロボロになっていた。
 午後、N先生らと外国人登録のため公安局に行く。ところが、証明写真(日本で撮影したもので、ごく一般的な 4 cm × 3 cm のもの)のサイズが合わなかったため、やり直しということになる。証明写真のサイズは2インチとなっているとのこと(これはN先生も知らなかったので、仕方がないところではあるのだが)。

 日本語会話の教科書にこんな場面が出てきた。日本人と中国人留学生が新宿に冬物のブレザーを買いに行っている、という設定である。

「これなんかどうかしら。」
「ちょっと地味じゃないかしら。これはどうかしら。」
「あら,素敵な色。(そばに来ていた店員の方をみて)着てみてもいいのかしら。」
……
「意外に安かったわね。」
「ええ,もっと高いかと思いましたわ。」
……
「おかげでいい買物が出来ました。ほんとうに有難うございました。」
「いいえ,どういたしまして。また何かあったらおっしゃってね。いつでもお供しますわ。」

 ……いや、べつに日本語としては間違ってはいないのだが、若い日本人女性は、ふつうはこんな会話しないだろ? さすがに学生には、現代日本の口語としては不自然であることは言っておいた。(誤解なきように念のために書いておくと、この教科書でこんな女言葉が出てくるのは、この箇所だけである。)

 22日(木)。晴。
 授業。
 N先生に聞いたところでは、阜陽ではこのような天気のほうが普通とのこと。一ヶ月近く曇天続きだったので、そういう天候の方が普通なのかと思っていた。
 昼、手持ちの現金(人民元)が少なくなってきたのと、外国人登録の手数料400元(最初500元と聞いたのだが、正しくは400元だった)が必要なため、N先生の案内で、市内の中国銀行(Bank of China)に両替に行く。
 午後、N先生たちと再度公安局へ行き、手続きを済ませる。

 23日(金)。晴。
 授業。
 日本語クラブの学生たちから何か日本のものを借りたいと言ってきたのだが、あいにく都合のいいものが手元にない。絵葉書でも少し持って来ればよかった。図版の入った高校日本史の教科書を貸す。

 24日(土)。晴。

 25日(日)。晴。
 3年生に出していた作文の宿題の添削などをする。

2011年9月10日~18日(老師節、中秋節、新入生歓迎会ほか)

2011-09-19 00:31:41 | 日記
 10日(土)。
 書き忘れていたが、この日は中国では老師節、すなわち「教師の日」である。中国の祝祭日についてのほとんど知識がないまま来てしまったため、そういうものがあると知って少々困惑したものである。
 夜、三宅明正先生から、恩師の一人である安田浩先生がなくなられたという連絡をメールで受ける。以前から覚悟していたこととはいえ、落ち込む(事情については「日夜困惑日記」13日付の「安田浩先生の訃報」、15日付の「安田浩先生について思い出すことなど」を参照)。

 11日(日)。
 昼、安田門下の弟弟子でもあるMくんより電話あり、中国からでは葬儀に行けないからお互い中国で頑張っていこう、ということに落ち着く。

 12日(月)。
 中秋節で休み。主任のH先生からお祝いの月餅をいただく。
 夜、学生5人ほどに誘われて夕食。

 なお、日本と中国の中秋節の違い、ということは、この週の授業のネタにしばらく使わせていただいた。具体的には、日本では中秋(そもそも「中秋節」という言い方はしない)は祝日ではなく、月見をする程度であること、月餅というものは無いこと、月見団子というものがあること、などである。もっとも、月見団子の説明も大変であるが(そもそも「団子」がなんだかわからないから、米などを粉にして練って、小さく丸く固めてゆでたりしたもので……と説明しなければならないし、電子辞書などではたいてい串団子の写真が載っているので、それとの違いも説明しなければならないし)。

 13日(火)。
 この辺りから本格的に授業となる。

 14日(水)。
 授業。
 阜陽師範学院では、学食などの会計に、プリペイド式の電子マネーカード(Suica みたいなもの)を使っている。施設が古く教室の冷暖房なども未整備な割に(教員寮には冷暖房がある)、変なところで最新式の電子機器が使われているわけだ(もっとも日本だって同じようなもんか)。この使い方がよくわからなかったのだが、この日、C先生に手伝ってもらってカードを作り、使い方などをいろいろ教えてもらう。

 15日(木)。
 授業。

 16日(金)。
 授業。
 夜、18時より日本語課の新入生歓迎会。中国語で日本語課のことが説明される中、ぼんやりと教員のひとりとして過ごす。ちなみに教員紹介の際、間違って埼玉県出身にされてしまった。紹介に必要と言われて渡したデータにははっきり日本国千葉県生まれと書いたはずなのだが、たぶんMくん(埼玉出身)のデータと混同されたのだろう。長谷川先生は中国語ができないので英語で交流してはどうか、という質問が出たんだが、ぼくの英語なんて中国語よりは若干マシな程度だし、だいたい完全な日本語訛りで、たぶん中国語訛りの入っている学生に通じるかどうか。あい・きゃん・すぴーく・いんぐりっしゅ・あ・りとる。

 17日(土)。
 休み。朝から小雨交じりで風が強い。

 18日(日)。
 休み。
 朝日新聞出版から、ぼくも寄稿した三好和義『世界遺産・小笠原』が届く。こちらで郵便物を受け取ったのは初めて。

【居住環境】
 寮は2階建てで庭つき。1・2階両方にトイレ(兼洗面台兼シャワールーム)、1階にキッチンがある。部屋は1階と2階にそれぞれ2室ずつ。1階は湿気が多い、と言われたので2階に住んでいるのだが、もともと乾燥した気候なのだがそんなに湿気に警戒する必要があるんだろうか。なお、1階にはそのうち別の先生が入る予定なのだが、いまのところはぼくが自由に使わせてもらっている。

9月4日~10日

2011-09-10 22:26:54 | 日記
 この日記は、何もなければ1週間から10日ごとぐらいの更新にするつもりである。

 9月4日(日)。
 朝、3年生の学生が挨拶に来る。
 夕方、日本語科のC先生(中国人男性、初対面)に誘われ、阜陽市の中心街で夕食。いままで白金漢宮大酒店と師範学院の周りしか見ていなかったので新鮮であった。

 5日(月)。
 午前中、2年生2班(37名)の「日語会話」の授業開始。学生に半ば手助けしてもらうような形で、お互いに自己紹介をして済ませる。
 なお、時間割は第1節課 8:00~8:45, 第2節課 8:55~9:40, 第3節課 10:00~10:45, 第4節課 10:55~11:40 となっており、第1・第2節課, 第3・第4節課をそれぞれ続けて行うことになっている。つまり45分+10分休憩+45分。
 朝の始まりが早い代わりに昼休みが3時間近くあり、午後は第5節課 14:30~15:15, 第6節課 15:25~16:20, …と続く。

 6日(火)。
 雨。
 2年生1班(37名)、続けて3年生1・2班(57名)の「日語会話」授業。夜、夕食に出たところ、たまたま学生たちとばったり会い、そのまま一緒に夕食。
 寮から近い北門のすぐ近くに小さなスーパーが開店していた。せっかく寮に電気炊飯器があることだし、と思って、米を買ってきて試しに炊いてみる。

 7日(水)。
 曇時々雨。いままで夏の蒸し暑さだったのに、昨日の雨あたりから急に冷え始める。
 阜陽師範学院には、老校区(旧校舎)と、建設中の新校区(新校舎)の2つのキャンパスがあり、寮があるのは老校区の方。水曜の授業のみは新校区で行うため、スクールバスで新校区に向かう。歩いても15分ほどの距離ではあるが、まだ不案内なので。
 2年生1班(27名)、続けて2年生2班(26名)の「日語会話」授業。
 旧校舎はそれこそ教壇と黒板のある昔風の教室だが、新校舎はパソコンとプロジェクタのある立派な教室……と言いたいところだが、設備の使い方がよくわからないし、ホワイトボードが無くて困ったりする。

 8日(木)。
 雨。午後、2年生1班の「日語会話」。きちんとした授業は初めて。

 9日(金)。
 2年生2班の「日語会話」、3年生の「日語写作」(日本語作文)。
 夜、3年の男子学生たちに誘われて夕食。

 10日(土)。
 曇時々晴(いままでふつうに晴れ上がったところを見たことがない。そういう天候なのだろう)。授業開始以来初の週末。寮でのんびりと過ごす。

 いまのところ授業は全くの手さぐりで、M先生はどうやって教えていたのか、ということを学生に確認などしながら進めていっているところ。学生たちがある程度日本語がわかるため、つい早口になってしまい、わからないと言われることがしばしばなので、なるべくゆっくり、わかりやすい日本語を話すようにしないといけない、と痛感する。

ここまでのあらすじ

2011-09-03 16:43:38 | 日記
 8月24日。成田は雨。
 ぼくの後輩にして阜陽師範学院での前任者であり、これから上海の華東工科大学に赴任するM君とともに、成田空港から中国東方航空上海(浦東空港)行MU524便に乗る。13:20発のはずが、前便の到着が遅れた関係で30分遅れる。
 恥をしのんで申し上げれば、じつは海外に出るのも飛行機に乗るのもこれが初体験だったりする(ちなみに中国語の知識も薄弱)。ただ、なにより眠くてすぐ眠ってしまったため、あまり感慨めいたものはなかった。3時間弱で上海到着。華東工科大学の宿舎に入り、M君、M君の元教え子で上海で働いているT君と夕食。その後、M君と少し上海観光などをする。

 25日。上海は曇。
 もともと上海から阜陽までは飛行機で行くはずだったのだが、行く直前になって上海~阜陽間の航路が廃止されてしまった。そのせいで、仕方なく電車に乗ることになる。
 上海発11:46の電車に乗るため、宿舎を10:30に出た。荷物が多いので地下鉄でなくタクシーを利用することにしたのだが、これが結果的には大失敗。というのも、渋滞に巻き込まれてしまったからである。上海駅に着いたのがぎりぎり10分前。そこから広い駅構内をホームまで全力疾走、なんとか間に合う。ただ、そのせいで朝食と昼食を食べそこねてしまった。
 ここから阜陽までは、寝台車での10時間近い一人旅になる。それでも、なんとか車内販売の弁当を買って食べる。
 南京、合肥などを経由し、21:28、阜陽到着。学科主任のH先生が迎えに来る。まだ寮の準備ができていないということなので、とりあえず、しばらくの間ホテルに滞在することになる。なにやら非常に立派なホテルだったので恐縮していたら、「白金漢宮大酒店」すなわちバッキンガム宮殿ホテル、というものすごい名前だった。

 26日。阜陽は雨。
 H先生、同僚のN先生(中国人女性)の案内を受けて阜陽師範学院を案内される。

 27日。曇、ときどき雨。
 ようやく明日から寮に入居することが決まる。
 N先生、同僚のL先生(中国人女性)の案内を受けて阜陽師範学院とその周辺の店などを案内される。

 28日。曇のち晴。
 寮に引っ越し。2階屋のうち2階に住むことになる(1階は湿気があるので推奨できない、とのこと)。N先生の案内で生活必需品などを購入。寮には据え置きのパソコンがあるのだが、電源ケーブルが無くて動かない。それならば、とりあえず自分で持ってきたパソコンをネットにつなごうとしたのだが、室内にある回線からはなぜかつながらなかった。

 29日。曇。
 暑い。パソコン環境に詳しい先生(中国人男性)に見てもらうも、すぐには直せず。L先生の案内で、公安局に在留許可を取りに行く。

 30日。曇。
 結局、パソコンは新調することになり、とりあえず日本から持ってきたパソコンをネットにつなぐことになったのだが、これも IP アドレスの設定、パスワードの設定などの手間があり、簡単にはつながらず。この件、翌日に持ち越し。

 31日。曇時々晴。
 特に無し。

 9月1日。曇。
 確認したところ、ネット用アカウントの設定に5日ほどかかる由。
 昼、信息工程学院関係者の皆様と歓迎パーティ。

 9月2日。曇時々晴。
 携帯電話が動かなくなる。

 9月3日。曇時々晴。
 L先生より授業日程についての連絡がようやく入る。また、やっとネット接続用アカウントが発行され、部屋のパソコン(日本から持ってきたものであるが)を介してネットにつなぐことができるようになる。携帯電話は単純に電源が入ってなかっただけだった。