文豪とスポーツ ―ハットトリック太宰治―

太宰はハットトリックを経験。バスケ部織田作は他校バスケ部の少女を恋した。文豪とスポーツの関係を楽しく紹介します。

gooブログ「文豪とスポーツ」音声版 《海水浴場で『 痴人の愛 』のヒロインと芥川龍之介と菊池寛が接近遭遇!》

2024-07-04 12:48:03 | 日記

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海水浴場で『 痴人の愛 』のヒロインと芥川龍之介と菊池寛が接近遭遇!

2024-07-03 19:18:00 | 日記

 

 ■芥川龍之介                 ■菊池寛                 ■昭和初期の鎌倉由比ガ浜 葉山三千子もこうして浜辺を歩いていたのだろう

出典 『芥川龍之介集』新潮社 昭和2      出典 『菊池寛文学全集 第10巻』文芸春秋社 1960

 

 芥川龍之介は東京帝国大学を卒業後、大正7(1918)年26歳のときに、田端の自宅を出て、鎌倉の大町の小山別邸(※鎌倉駅と由比ガ浜の中間地点あたり)を借り、英語の先生として横須賀の海軍機関学校に通っていた。当時の芥川のようすを、友人の小説家江口渙(えぐちかん)が、「その頃の芥川龍之介」という文章の中で、こう伝えている。

 八月のはじめのことだった。私と菊池寛とが一しょに芥川を鎌倉にたずねた。そして、久米(正雄)と 芥川の四人で由井ヶ浜でおよいだ。

波のきわめておだやかな日だったから、およぎには絶好だっ た。私のおよぎは中学時代に三重県の五十鈴川で、師匠にもつかず、友達仲間の見よう見まねでおぼえた観海流(かんかいりゅう=平泳ぎ)である。それもヌキ手は三十本以上はつづかない。平およぎ一点張りだ。

そこへ いくと芥川の神伝流(しんでんりゅう=立ち泳ぎで進む古式泳法)は免許とりだというだけあって、形もきれいだし、波をきってすすむときは、やせた長身が見事な曲線をえがいてのびやかにしなった。ただ、水をかいた手を大きくぬくとき、それと一しょにふり向ける首のふり向け方には、独特のボーズがあった。芥川は海の中で もやはりちょっと気取って見るくせのあるのが、そのときつよく私の注意をひいた。

 海の中でも芥川は芥川スタイルを変えなかったようだ。

 そして今を時めく文藝春秋社の創設者で、芥川龍之介の親友にして、芥川賞の生みの親菊池寛は、スポーツとは縁がなさそうな体形にもかかわらず、…だった。江口はこう続けている。

 おどろいたのは菊池寛だった。あのぶくぶくした横ぶとりのからだで、おまけにひどい近眼の くせに、じつにらくらくとおよぐのである。

「君。とてもふとっているくせに、よくそんなにおよげるねえ。」

と、いうと、彼はべつに不思議でもなんでもないというような顔をして、 「そりゃ、およげるさ。ぼくは中学時代に讃岐の高松から備後まで、瀬戸内海を横断したことが あるんだよ。こう見えてもおよぎには大いに自信があるんだ。」

 高松から広島までは、ゆうに60キロはあるから、それは無理だろう。高松に近い小豆島まででさえ10キロはある。菊池寛は若い頃から大風呂敷を広げるタチだった。それはウソだとしても、水泳に自信があったことは確かなようだ。

 そんな鎌倉での青春のひとときに花を添えたのは、谷崎潤一郎の『 痴人の愛 』のヒロイン・ナオミのモデル、女優の葉山三千子 (はやま みちこ 1902年~ 1996年)だった。本名はせい子。谷崎潤一郎 の最初の妻千代の妹だ。

 芥川と菊池らは、鎌倉由比ガ浜で、せい子とニアミスをおかしていた。江口はそのときのようすを、次のように伝えている。

 谷崎潤一郎の細君の妹でせい子というのがいた。そのとき鎌倉にきていて久米と同じ宿屋にいた。年は十八だったと思う。名前は何というのだったかおぼえていない。あとで女優になって葉山三千子と名のったが、その時は谷崎のせい子でとおっていた。夏場の鎌倉らしく数名の文学青年が彼女のまわりをはいかいしていた。それでいてせい子はせい子でそれらの文学青年をうしろに引きしたがえたまま、芥川のまわりをはいかいしていた。

 せい子は、文豪夏目漱石に小説「鼻」を激賞され、一躍文壇に躍り出た芥川に関心があったようだ。さらに、せい子は、芥川に積極的にアプローチした。

  せい子も数人の文学青年を引きつれてわれわれの中に入ってきた。久米とせい子と文学青年と が一れつになって歩いていく。白い服に白い靴をはいているせい子のうしろ姿が、月明りでくっ きりと浮き出して見える。その一〇メートルあとから私と芥川とがならんでいく。 「君。あれ、何の匂いだろう。たしかにせい子の匂いだ。と思うんだが。」 芥川は私の顔をのぞくようにしてこういった。たしかに特別な匂いがする。前を歩いているせ い子の匂いが、風にのって二人のところまで流れてくるのだ。

 さて、その後、芥川とナオミ=せい子との関係はどうなったのか。実はこの年、大正7年には、塚本文(つかもとふみ)18歳と結婚し、鎌倉の大町で新婚生活を始めたばかりだった。「痴人の愛」でナオミに翻弄される河合譲治のようになることは回避できた。

 なお、菊池寛の水泳上手の話に戻るが、菊池はある人に、水泳にかかわるこんなウソもついたようだ。

「自分は瀬戸内海の漁夫の子に生れたのだから、水泳がうまい。一時間に八哩(マイル)は泳げると出鱈目(でたらめ)を云ひました。」(『菊池寛全集 第1巻』「まどつく先生」より)

  1マイルは1.6キロ。1時間に8マイルは、1.6×8=12.4キロ/時となる。100メートルを47秒で泳ぐ世界記録レベルでも、時速8キロに達しない。ましてや一時間泳ぎ続けるような遠泳ともなれば、一般的には時速2~3キロといわれている。やはり菊池は破格のビックマウスだった。

《文責 中川 越 手紙文化研究家・コラムニスト 東京新聞連載中 NHKラジオ深夜便・文豪通信・レギュラーとして出演中・次回のNHKラジオ深夜便・文豪通信の放送は、2024-7-9、23時8分頃から。テーマは「山登りが好きな文豪たち」


甲子園の「アルプススタンド」名付け親、岡本一平の漫画

2024-07-01 15:28:16 | 日記

 

『世界一周の絵手紙』 岡本一平著 磯部甲陽堂 大正13年 〈1924年〉 右が岡本一平

 

 

 今年も夏の甲子園が開催される。甲子園といえばアルプススタンド。確かに青空に向かって切り立つ山のようにそびえるスタンドは、いかにもふさわしい命名だ。この名付け親は、岡本一平。明治から昭和にかけて活躍した漫画家。「芸術は爆発だ!」という言葉や1970年の大阪万博、太陽の塔の制作者として知られる岡本太郎のお父さん。そして、一平の妻、太郎のお母さんは、有名な作家岡本かの子だ。

岡本一平は、大正11〈1922〉年、36歳のときに世界旅行に出発し、アルプスを見た。出発のときの自画像を、同行者とともに描いたのが、上図の漫画(船に乗った二人の右側が岡本一平)。

一平は本物アルプスのその記憶をもとに、昭和4〈1929〉年に、増設された甲子園のスタンドを、「アルプススタンド」と名付けた。

その際書かれた漫画と説明文は、以下の通り。

「甲子園野球大会 漫画速報台 (昭和四年)〈1929年〉 アルプススタンド 入り切らぬ入場者のため今年はスタンドの両翼を増設した、両方で八千人余計入る、そのスタンドはまた素敵に高く見える、アルプススタンドだ、上の方には万年雪がありそうだ。」『新らしい漫画の描き方』岡本一平著 先進社 昭和5年 〈1930年〉

 スタンドの上に浮かぶ夏の白雲が、万年雪に見えたのだろう。

 

《文責 中川 越(手紙文化研究家・コラムニスト 東京新聞連載中 NHKラジオ深夜便・文豪通信・レギュラーとして出演中)》


愉快な戦争「ベースボール」を愛した正岡子規

2024-06-30 12:32:52 | 日記

出典 『漱石の思ひ出』夏目鏡子述 松岡譲筆録 改造社 昭和3

 

「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」で知られる俳人正岡子規(まさおかしき)は、明治期、日本にベースボールを根付かせた功労者で、いわば大谷翔平の生みの親の親の親である。文豪でありながら野球殿堂博物館にレリーフが飾られ、「野球殿堂入り」している。

 明治23(1990)年、22歳のときに、親友に宛てた手紙の文末に、次の俳句を添えている。まず詞書(ことばがき)として、「色男(いろおとこ)また時として此(この)戯(たわむ)れあり」と添えられ、次の句がる。

「恋(こい)知(し)らぬ猫(ねこ)のふりなり球(たま)あそび」

 「球(たま)あそび」というのは、野球のことだ。

 そして、この手紙の最後の署名は、「能球(のぼーる)」としている。子規の幼いときの名の「升(のぼる)」をもじった洒落(しゃれ)。また、同じ年の手紙の署名には、「野球」と書かれたものもある。これも、のぼーると読ませたようだ。彼は、明治17(1884)年17歳のとき、東京大学予備門時代にベースボールを知り、肺の病で喀血(かっけつ=血をはくこと)して、22歳でやめるまでの間、野球に熱中した。ちなみに、現在でも使われている野球用語、バッターを打者、ランナーを走者、デッドボールを死球という言い方などは、正岡子規の翻訳だ。バットを持ったユニフォーム姿の子規の写真も残されている。

 子規がどれほど野球に熱中したかという証拠の一つに、子規が書いた「Base-Ball」というコラムを紹介しよう。少し長くなるが、野球の一つの重要な本質に届いているすばらしい文章だと思われるので、ぜひ読んでいただきたい。

「運動となるべき遊技は日本に少(すくな)し。鬼事(=おにごつこ)、隠れつこ、目隠し、相撲、撃劍(げきけん)位(ぐらい)なり。西洋には其(その)種類多く枚挙する譚(わけ)にはゆかねども、競馬、競走、競漕(=ボート)などは最普通にて最評判よき者なれども、 只々早いとか遅いとかいふ瞬間の楽しみなれば面白き筈(はず)なし。…其外(そのほか)無數の遊びあれども特別に注意を引く程のものなし。たゞローン・テニスに至りては勝負も長く少し興味あれども、いまだ幼稚たるを免れず、婦女子には適當なれども壯健活激の男子をして愉快と呼ばしむるに足らず。愉快とよばしむる者たゞ一ッあり、ベース・ボールなり。…運動にもなり、しかも趣向の複雑したるはベース・ボールなり。人数よりいふてもペース・ボールは十八人を要し、随(したがっ)て戦争の烈(はげ)しきことロー ン・テニスの比にあらず。二町四方の間に弾丸(=ボール)は縦横無尽に飛びめぐり、攻め手はこれにつれて戦場を馳(は)せまはり、防ぎ手は弾丸を受けて投げ返しおつかけなどし、あるは要害をくひとめて敵を擒(とりこ) にし弾丸を受けて敵を殺し、あるは不意を討ち、あるは夾(はさ)み撃(うち)し、あるは戦場までこのうちにやみ討ちにあふも少からす。實際の戦争は危險多くして損失夥(おびただ)し。ベース・ボール程愉快にてみちたる戦争は他になかるべし。ベース・ボールは総(すべ)て九の数にて組み立てたるものにて、人數も九人宛(まで)に分ち勝負も九度とし、pitcherの投げるボールも九度を限りとす。之(これ)を支那風に解釋すれば九は陽数の極にてこれほど陽気なものはあらざるべし。九五といひ九重といひ皆(みな)九の字を用 ふるを見れば誠に目出たき数なるらん。」(『子規全集 第8巻』正岡子規著 アルス 大正14)

 野球は、そしてスポーツは、肉おどり血をわかせる、愉快な戦争だ。人はこんなにチャーミングな戦争を発明したというのに…。 子規の深いため息が聞こえて来る。

《文責 中川 越(手紙文化研究家・コラムニスト 東京新聞連載中 NHKラジオ深夜便・文豪通信・レギュラーとして出演中)》