歴史から、今後の公共機関のあり方を考えるblog

日本国有鉄道の歴史を研究する中で、これからの鉄道を含めた、公共交通のあり方を研究して発表していきます。

昭和30年代における、自動車の鉄道輸送

2019-11-16 16:42:57 | 日記
皆様こんにちは、今回も国鉄線見つけた面白い記事について書かせていただこうと思います。

国鉄における自動車輸送と言えば、ク5000を使った自動車輸送を覚えておられる方も多いかと思います。


画像 Wikipedia


自動車専用列車として、新車を運ぶのに使われ自動車の移動には汚れや傷を防止するため、車カバーがかけられていたのを写真で見た記憶があります。

ただ、古い写真を見ていますと移送時はカバー等を被せずに運転していたこと写真もあり、カバーしていたのは写真撮影用なのかそれとも・・・・と思うのですが、自動車カバーを収納させる場所を設けていたと言う記述もあるのでその辺はご存知に方おられましたらご教示いただければ幸いです。

百済駅における車両積卸風景 天鉄局30年史のアルバムから引用

なお、国鉄時代のク5000は1900CCまでの車を10台、20000cc以上で8台、軽自動車で12台を積載できるようになっていたそうですが、これから紹介するのは、専用貨車の「シム1000形」と呼ばれる私有貨車です。他にもダイハツがシム2000、三菱自動車もシム3000形と呼ばれる同系車をだしているようです。

今回も国鉄線昭和37年10月号に掲載されていた記事を参照しながらお話を進めたいと思います。
なお、閲覧にはパスワードが必要ですので、興味のある方は財団法人交通協力会のトップページからアクセスしてパスワードを取得されては如何でしょうか。

早速見ていきたいと思います。


何とも厳めしい車両ですが、これが車を運ぶ貨車ですと言われても正直ピンとこないかと思います。
実は、この貨車に6台の車が乗るのです。

実はこのように、貨車をクレーンで吊るしながら積み上げたそうです、この写真ではパブリカを積んでいるようですが、こんな方法で本当に大丈夫と心配してしまいます。
実は、この写真からは見えにくいのですが、下の段に2台の車が積んであります。
その証拠写真がこれ

既にナンバーも付いている車もあるのが興味深いのですが、何ともアクロバティックな積み方です。

ちなみに初代パブリカですが、

幅  1415mm
高  1380mm
であり、車両限界が幅3.0mですので、下の2台は隙間は数センチしかなかったのではないかと思います。

昭和37年の国鉄線の記事によりますと、昭和30年代後半には新車の配送はその多くが自ら車をディラーまで運転して配送するのが一般的でコストも安くなるので積極的に自走になったそうですが、人件費の高騰などでその方法も必ずしも有利は無くなってきたことから再び鉄道を利用してもらえる気運が高まったため、効率よく積載できる貨車を開発することとしたそうで、トヨタ自動車に中部支社(当時は支社制度があり、支社の配下に各管理局が設置されていました。)が働きかけて私有貨車を作ってもらいそれを国鉄が輸送する形態となったものでした。
上に載せる自動車は専用パレットであり、回送時は積み重ねて発送駅まで戻るようになっていたようです。
結果的に、こうした貨車を作ったことがその後より効率的に運べるク5000を生み、その利用も爆発的に増えるのですが、昭和48年頃から相次ぐ国鉄のストライキや運賃値上げ等から利用が低迷したそうです。
昭和53(1978)年10月には、日産自動車の輸出用自動車を輸出港に運ぶ専用列車「ニッサン号」が宇都宮貨物ターミナル~本牧埠頭間で運転されましたが、こちらも 昭和60(1985)年3月ダイヤ改正で自動車の鉄道輸送はひとまず終了しますが。翌昭和61(1986)年5月に再び「ニッサン号」の運転が再開しましたが、往年の華やかさはなく、平成8(1996)年3月にク5000による運行は廃止されたとされています。
今は一部は、コンテナ車による輸送が行わたと聞いております。



185系と言う名の電車たち

2019-09-22 20:49:06 | 日記
新聞記事でJR東日本の185系が引退するという記事が出ていたので少しだけ、思い出話などを語らせていただこうと思います。185系は、1981年(昭和56年)老朽化した153系急行電車(東海形)と呼ばれた電車の置換え用として計画されました。

ここでは、簡単に185系電車の誕生までの経緯などを書いていこうと思います。


画像 Wikipedia 

JR東日本が、旧国鉄時代に製造した車両185系を、東京と静岡県の伊豆半島を結ぶ特急「踊り子」から数年以内に退役させる方針を固めたことが8日、分かった。老朽化したため。185系の退役でJR東が定期運用する特急列車から国鉄時代に造った車両が消え、1日に30周年を迎えたJRの発足後に登場した車両に統一される。

 踊り子は伊豆半島にある人気観光地の伊豆急下田、修善寺までそれぞれ走っており、車両の置きかえで旅行者の利用促進を狙う。後継車両には、中央線の主に新宿(東京)-松本(長野県)間を走る特急「あずさ」や新宿-甲府間などの「かいじ」に使っているE257系を転用。(共同)

ニュースサイトで読む: https://mainichi.jp/articles/20170408/k00/00e/020/316000c#csidxe9bc88e68463166aebcc013e91b6c73

Copyright 毎日新聞

185系電車の特徴
185系電車は、普通電車と特急電車の汎用と言うことから、従来の特急電車と大きく異なる点が多々あります。
まず、従来の特急電車は房総特急を除き長距離運転をするのが目的であり、ドアは片側に一つだけで、かつその幅は70cmと小さなものであり一人づつしか乗降できない程度の大きさでした。もちろん、車いすでの利用などは配慮されていません。
それは、特急列車と言うのは停車駅も少なく長距離利用客を出来るだけ早く目的に連れて行くことを目的としていたからです。
それが、185系では、両端にドアがありその幅も1mと大きなものでした。
この1mと言う大きさは今まで使っていた急行電車と同じドアの幅でありもっと遡れば80系電車と言われた電車と同じドア幅であり、普通電車としての利用を前提としていたことがここでもよくわかるかと思います。
また、特急電車は昭和33年の151系「特急こだま」時代から固定窓が貫かれており、例外的に特急ひびき、特急あまぎが例外的に窓が開く特急電車でしたがこれは元々準急用に計画された日光形(157系)を使ったからであり、当初から特急形と普通列車の兼用とはいえ特急形として計画された電車で窓が開く特急電車は185系のみと言えましょう。
さて、何故こんなことになったのでしょうか?
急行型で当初は計画されていた?
あまり、この点は書かれていないのですが、当初は急行電車の置換えですので当然のことながら急行置換用として計画されていました。 デビュー当初185系電車が転換クロスシートでかつ窓が開閉式になっていたのは当初は急行電車で計画されていたからでした。 何故、それが特急になったのか・・・それは当時の国鉄の財政状況にありました。 毎年1兆円近くの赤字を計上し、国からも6000億からの補てんを受けていたわけで、何とか増収にということで、営業サイドからの強い要望があったそうです。 急行形電車の標準仕様として計画していたけれど結果的に特急として・・・と言うことになったため設備的にはすでに評判は悪いとはいえ簡易リクライニングシートが当たり前になっていたのに、普通列車と兼用と言う理由?を付けて転換クロスシートになったのですから・・・。 特急利用者としては納得できないですよね。 その後昭和57年(1982年)には、東北・上越新幹線が大宮で暫定開業となったため185系200番台が増備され、リレー号快速として利用されました。
JR化後のリニューアル工事で特急らしく
アコモデーションも中途半端で終わってしまった185系ですが、国鉄でもこれはまずいと思ったのか、国鉄末期に新特急なる名称を誕生させるとともに、営業施策上、B特急料金と言う今までの特急料金よりも安い特急料金を設定されます。 国鉄としても、185系で特急は厳しいと思ったのでしょうか。 さて、その後も185系は特急電車としては乗降口のドアが広い反面、転換クロスシートはやはり特急電車としては見劣りするため、JR化以降、シートの交換が行われています。 転換クロスシート→リクライニングシートへの変更であり、これで名実ともに特急電車らしくなったと言えましょう。 結局、大きなドアが汎用性を高めることとなり、「臨時列車ながら」に充当される等に充当されたのはご存じのとおりです。
185系の兄弟車がある?
185系電車には兄弟車ともいえる電車があります。

画像 Wikipedia

それは、117系電車と呼ばれる電車です。 関西並びに名古屋地区にだけ投入された電車で、当初は関西だけの限定だったのですが、JR東海の初代社長であった須田氏が中京地区にも117系を導入して欲しいということで実現したもので、例外的に中京地区にも117系が投入されました。
関西地区に投入された117系は室内の内装が艶消しのマホガニー調であったのに対し、名古屋地区のものは艶ありタイプであるなど、若干異なっていました。 最高速度や、部品などもほぼ共通であり西の117系が関東圏では185系として特急で使われているとファンの間では話題になったものでした。