このブログで扱うのは、“江戸時代から明治の半ばまで、日本全国の津々浦々を結んで荷を運んでいた長距離海上輸送用の和船”である。……長い。短く呼びたい。この船は俗に「千石船(せんごくぶね)」とか「北前船(きたまえぶね)」などと呼ばれていた。ほかに「菱垣廻船(ひがきかいせん)」、「樽廻船(たるかいせん)」という呼び方もある。
これらの語と、このブログで使う「弁才船(べざいせん)」という語の関係を書いておこう。
「千石船」とは、“1,000石(石は体積の単位、1石≒180リットル)を積む船”という意味で、文字通りに受け取れば「米1,000石(四斗俵で2,500俵)を積むことができる=載貨重量150トン」の船、ということになる。しかし船の大きさは1,000石積とは限らず、200石くらいから2,000石を超えるものまで、ひっくるめて「千石船」と呼ばれていたようなので、“たくさん積める船”、“でっかい船”くらいに考えるのがよさそうだ。
「菱垣廻船」は、“菱型(ひしがた)の模様を垣(かき)につけた廻船(荷を運ぶ船)”。舷側の垣立(かきたつ=船の横っ腹の手すりっぽいところ、と言えばわかるだろうか)の下部は、通常は細長い材木を何本か横に長ーく通すのだが、これを傾けた格子状(つまりひし形)にしている船(どこをひし形にしているかについて間違った記述をしている歴史教科書もあるらしい)。
これは、ざっくりいうと、天下の台所大坂と巨大消費地江戸との間の大量輸送のために大坂の問屋グループが雇った船であることを示そうと、外観をかっこよく差別化したものである。……ざっくりしすぎたかも。ええと、時代によっていろいろと事情が変わったりするので、そのへんは「菱垣廻船」でググってください。
「樽廻船」は、樽を運ぶ船。こっちも大坂―江戸の大量輸送用に、菱垣廻船とは別の問屋グループが雇った船のこと。酒樽を隙間なく積めるように設計されているが、外観から分かるような特徴はない。
菱垣廻船と樽廻船はライバル同士で、いろいろと確執があった。はい、ざっくりしすぎですね。
「北前船」という呼称のほうは、「北前(きたまえ)」が“北廻り(きたまわり)の転訛”だとか、“日本海のこと”だとか諸説あるようだが、日本海から下関をまわり、瀬戸内海から大坂へ向かう「西廻り航路」の船をさす(北前船ってどんな船「海と船なるほど豆辞典」)。
当時の本州沿岸航路は、西廻りがメインストリート。太平洋側を通る東廻り航路はいわば裏通りであって、現代において日本海側を“裏日本”などと失礼な呼び方をするのとはまるっきり逆。このため、語としては航路を指しているだけだが、「北前船」のイメージとしては“でっかい商売をしている船”、あるいは“ものすごくでっかく儲けている船”。
「北前船」は、荷を預かって運ぶ「運賃積み」ではなく、船主(船頭を兼ねることもある)が自分で荷を買い、寄港先で売り買いを繰り返して利益を出す「買い積み」というやり方をするという特徴がある。もうね、ぜんぜん儲けの幅が違うらしいの。うまいこといくと、ものすごーく儲かっちゃうらしいの。
ただし、北前船の所属地・寄港地であった日本海側では「北前船」とは呼ばれていなかった。他の地方で、その儲けをうらやむような気持ちで呼んだもののようである。
外観にも少し特徴がある。江戸中期に長距離の廻船は皆ベザイ造り、ということになったものの、大坂・瀬戸内をはじめとする太平洋側と日本海側とでは、その造りに目立つ違いが生まれた。太平洋側に比べて、日本海側の船(「北前船」ですな)は、船首・船尾がぐぐっと上に反り上がり、船首に近い部分の船腹がたっぷりとふくらむ。これを石井謙治氏は区別して、「上方型弁才船」「北前型弁才船」と呼んだ。しかし、安達裕之氏は単に日本海側の船を「北前船」と呼ぶにとどまっているっぽい。
これらの名で呼ばれた長距離航路の廻船には、ベザイという型の船が使われた。江戸時代初期まで、地方によってさまざまな型の船が荷船として使われていたが、江戸中期、経済性に優れたベザイ造りの船が上方で作られ始めると、短期間でこの形が日本全国を席巻したという(石井謙治「和船I」)。
ベザイ・ヘサイ・ベサイ・ベンザイなど、音にもバリエーションがあり、またこれに当てる漢字も、弁才・弁財・弁済などと定まらないが、この語が示しているのは船の造り(構造)である。どんな構造なのかは別項に譲るが、これがなぜベザイと呼ばれるのかもよく分からない。分からないけれども、日本全国の船大工は「ベザイ(あるいはそのバリエーション)造り」と呼んで、ガンガン造りまくったのであった。
さて、以上をまとめると、これらの呼称が示しているのは、「千石船」:大きさ、「菱垣廻船」:装飾と荷主・航路、「樽廻船」:荷と荷主・航路、「北前船」:所属地・就航地と商法、「ベザイ」:船型、ということになる。
冒頭に書いた“江戸時代から明治の半ばまで、日本全国の津々浦々を結んで荷を運んでいた長距離海上輸送用の和船”全般を指すものとしては、ざっくりした「千石船」か「ベザイ」が適当のようだ。「菱垣廻船」・「樽廻船」・「北前船」は、その一部分である(この3つは互いに重ならない)。
このブログもどきでは「弁才船」(べざいせん)と呼ぶ。「ベザイ造りの船とは言うがベザイ船とは言わない」とか、いろいろとご意見もあるようだが、ここはおとなしく斯界の権威、石井謙治先生&安達裕之先生の呼び方にならうことにする。
ただ、「弁才船」って誰も知らないのよねー。ということで、タイトルは「弁才船(千石船)ノート」とした。「千石船」をメインに押し出さないのは、千石積みとは限らないんだよ!という気持ち。
余談だが、「せんごくぶね」と人に話すと、かなりの確率で「戦国船」だと思われるということが最近わかった。どっちにしても、「誰も知らない」。
いいの。いいのよ。どうぞ皆様お気になさらず。
……「戦国船」という船はない、ということだけは言っておいたほうがいいのだろうか。
■Wikipedia
「弁才船」
「北前船」
「菱垣廻船」
「樽廻船」
これらの語と、このブログで使う「弁才船(べざいせん)」という語の関係を書いておこう。
「千石船」とは、“1,000石(石は体積の単位、1石≒180リットル)を積む船”という意味で、文字通りに受け取れば「米1,000石(四斗俵で2,500俵)を積むことができる=載貨重量150トン」の船、ということになる。しかし船の大きさは1,000石積とは限らず、200石くらいから2,000石を超えるものまで、ひっくるめて「千石船」と呼ばれていたようなので、“たくさん積める船”、“でっかい船”くらいに考えるのがよさそうだ。
「菱垣廻船」は、“菱型(ひしがた)の模様を垣(かき)につけた廻船(荷を運ぶ船)”。舷側の垣立(かきたつ=船の横っ腹の手すりっぽいところ、と言えばわかるだろうか)の下部は、通常は細長い材木を何本か横に長ーく通すのだが、これを傾けた格子状(つまりひし形)にしている船(どこをひし形にしているかについて間違った記述をしている歴史教科書もあるらしい)。
これは、ざっくりいうと、天下の台所大坂と巨大消費地江戸との間の大量輸送のために大坂の問屋グループが雇った船であることを示そうと、外観をかっこよく差別化したものである。……ざっくりしすぎたかも。ええと、時代によっていろいろと事情が変わったりするので、そのへんは「菱垣廻船」でググってください。
「樽廻船」は、樽を運ぶ船。こっちも大坂―江戸の大量輸送用に、菱垣廻船とは別の問屋グループが雇った船のこと。酒樽を隙間なく積めるように設計されているが、外観から分かるような特徴はない。
菱垣廻船と樽廻船はライバル同士で、いろいろと確執があった。はい、ざっくりしすぎですね。
「北前船」という呼称のほうは、「北前(きたまえ)」が“北廻り(きたまわり)の転訛”だとか、“日本海のこと”だとか諸説あるようだが、日本海から下関をまわり、瀬戸内海から大坂へ向かう「西廻り航路」の船をさす(北前船ってどんな船「海と船なるほど豆辞典」)。
当時の本州沿岸航路は、西廻りがメインストリート。太平洋側を通る東廻り航路はいわば裏通りであって、現代において日本海側を“裏日本”などと失礼な呼び方をするのとはまるっきり逆。このため、語としては航路を指しているだけだが、「北前船」のイメージとしては“でっかい商売をしている船”、あるいは“ものすごくでっかく儲けている船”。
「北前船」は、荷を預かって運ぶ「運賃積み」ではなく、船主(船頭を兼ねることもある)が自分で荷を買い、寄港先で売り買いを繰り返して利益を出す「買い積み」というやり方をするという特徴がある。もうね、ぜんぜん儲けの幅が違うらしいの。うまいこといくと、ものすごーく儲かっちゃうらしいの。
ただし、北前船の所属地・寄港地であった日本海側では「北前船」とは呼ばれていなかった。他の地方で、その儲けをうらやむような気持ちで呼んだもののようである。
外観にも少し特徴がある。江戸中期に長距離の廻船は皆ベザイ造り、ということになったものの、大坂・瀬戸内をはじめとする太平洋側と日本海側とでは、その造りに目立つ違いが生まれた。太平洋側に比べて、日本海側の船(「北前船」ですな)は、船首・船尾がぐぐっと上に反り上がり、船首に近い部分の船腹がたっぷりとふくらむ。これを石井謙治氏は区別して、「上方型弁才船」「北前型弁才船」と呼んだ。しかし、安達裕之氏は単に日本海側の船を「北前船」と呼ぶにとどまっているっぽい。
これらの名で呼ばれた長距離航路の廻船には、ベザイという型の船が使われた。江戸時代初期まで、地方によってさまざまな型の船が荷船として使われていたが、江戸中期、経済性に優れたベザイ造りの船が上方で作られ始めると、短期間でこの形が日本全国を席巻したという(石井謙治「和船I」)。
ベザイ・ヘサイ・ベサイ・ベンザイなど、音にもバリエーションがあり、またこれに当てる漢字も、弁才・弁財・弁済などと定まらないが、この語が示しているのは船の造り(構造)である。どんな構造なのかは別項に譲るが、これがなぜベザイと呼ばれるのかもよく分からない。分からないけれども、日本全国の船大工は「ベザイ(あるいはそのバリエーション)造り」と呼んで、ガンガン造りまくったのであった。
さて、以上をまとめると、これらの呼称が示しているのは、「千石船」:大きさ、「菱垣廻船」:装飾と荷主・航路、「樽廻船」:荷と荷主・航路、「北前船」:所属地・就航地と商法、「ベザイ」:船型、ということになる。
冒頭に書いた“江戸時代から明治の半ばまで、日本全国の津々浦々を結んで荷を運んでいた長距離海上輸送用の和船”全般を指すものとしては、ざっくりした「千石船」か「ベザイ」が適当のようだ。「菱垣廻船」・「樽廻船」・「北前船」は、その一部分である(この3つは互いに重ならない)。
このブログもどきでは「弁才船」(べざいせん)と呼ぶ。「ベザイ造りの船とは言うがベザイ船とは言わない」とか、いろいろとご意見もあるようだが、ここはおとなしく斯界の権威、石井謙治先生&安達裕之先生の呼び方にならうことにする。
ただ、「弁才船」って誰も知らないのよねー。ということで、タイトルは「弁才船(千石船)ノート」とした。「千石船」をメインに押し出さないのは、千石積みとは限らないんだよ!という気持ち。
余談だが、「せんごくぶね」と人に話すと、かなりの確率で「戦国船」だと思われるということが最近わかった。どっちにしても、「誰も知らない」。
いいの。いいのよ。どうぞ皆様お気になさらず。
……「戦国船」という船はない、ということだけは言っておいたほうがいいのだろうか。
■Wikipedia
「弁才船」
「北前船」
「菱垣廻船」
「樽廻船」