ちょっと普通の川では無いなあって
思っていたんです。
その川を渡る橋
川って言っても、幅が1~2m
でもはまったら大変な水量です。
近くに有った看板ですが、かなりボロボロ
でも、これがまた認識できたので…(^^ゞ
紀伊国井本本荘絵図について
宝永6年(一七〇九)の現在の紀の川市東大井まで開通した
小田井用水は、この付近では紀の川の北岸約1キロのところを流
れています。この小田井用水ができるより以前、この地域では
小さなため池を数多く造り、和泉山脈の水源林に降った雨水や
伏流水をそのため池にたくわえて、農業用水として使っていま
した。小田井用水の完成によって、この地域のかんがい状況は、
大幅に改善されましたが、小田井用水よりも標高の高い場所に
あった水田では、その恩恵を受けることができず、その後も
ため池によるかんがいが続けられました。
ンにれらのため池や水源林は、じつは今から七00年以上 前の
鎌倉時代末期に作られた「紀伊国井本荘絵図」にも描がれ
おり、これらのため池の多くがすでに鎌倉時代には存在し、そ
の頃から和泉山脈を水源とするため池かんがいが行われていた。
とが分かります。
このように鎌倉時代以来の歴史をもつ多数のため池が、お互
いに関連し合いながら同一地域内に運続して残りかんがいに利
されてきた景観は非常に珍しく 貴重な水を一滴も無駄にす
るまいとする昔の人々の苦労がしばれます。
これらのため池は、今でもその一部が、かんがいや防火用水などとして
利用されています。
宝永6年(一七〇九)の現在の紀の川市東大井まで開通した
小田井用水は、この付近では紀の川の北岸約1キロのところを流
れています。この小田井用水ができるより以前、この地域では
小さなため池を数多く造り、和泉山脈の水源林に降った雨水や
伏流水をそのため池にたくわえて、農業用水として使っていま
した。小田井用水の完成によって、この地域のかんがい状況は、
大幅に改善されましたが、小田井用水よりも標高の高い場所に
あった水田では、その恩恵を受けることができず、その後も
ため池によるかんがいが続けられました。
ンにれらのため池や水源林は、じつは今から七00年以上 前の
鎌倉時代末期に作られた「紀伊国井本荘絵図」にも描がれ
おり、これらのため池の多くがすでに鎌倉時代には存在し、そ
の頃から和泉山脈を水源とするため池かんがいが行われていた。
とが分かります。
このように鎌倉時代以来の歴史をもつ多数のため池が、お互
いに関連し合いながら同一地域内に運続して残りかんがいに利
されてきた景観は非常に珍しく 貴重な水を一滴も無駄にす
るまいとする昔の人々の苦労がしばれます。
これらのため池は、今でもその一部が、かんがいや防火用水などとして
利用されています。
と書いているらしいです。
こんなに看板がボロボロでも文字認識する一太郎ソフトに感謝です。
(今回はさすがに見直ししてますが…)
という事で、この川は用水だったんです。
上流には、以前紹介した 龍之渡井 が有ります。
昔の人は人の力だけですごい物を作ったんですね。
ちなみにココは、次回紹介する 長田観音 の前です。
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