ゆら~りゆらり~と・・・整体のススメ

広島県呉市の女性整体師です(バランス活性療法院まつかわ)健康・ダイエット・呉情報など楽しいブログを目指してます。

延命地蔵(首なし地蔵とお抱え地蔵)

2010-03-10 09:18:36 | 呉情報
呉市宮原12丁目にあるお地蔵さまと、同じようなお地蔵さまを作ってくださいっていうご依頼の電話がありました。
それで、このお地蔵さまに会いにいって見ました。
私は、このお地蔵さまの事を初めて知ったのですが、このお地蔵さまを抱えると病気が治るとかで、多くの方がお参りされているようです。

【延命地蔵の由来】
天保の飢饉は、同四年から七年余りに亘って長雨による水害や夏の冷害によって起こった長期で全国的な飢饉で江戸時代最大の飢饉であった。大凶作が続き食物がなく餓死行き倒れ死者、疫病死者が続出した。
(中略)
天保七年申歳は天保の飢饉で最も大きく、呉地方でも木芽葉や草の根を食べ飢えをしのいだという。当時県北の山村の人々が食物を乞う為来呉したが宮原村海岸端や鍋峠付近で行き倒れ餓死したという。それから二十年位たって、その人々の遺骨が見つかった。篤信家の澤原八右衛門氏は之をあわれんで無縁仏を集め合葬し、宮原村海岸狐崎に地蔵尊をたてた。その座右に「天保七申歳 餓死之遺體 合葬於此処 為菩薩営之安政四年十月 施主 澤原八右衛門」の碑文が刻まれてある。明治十九年宮原村海岸一帯が海軍用地となって、地蔵尊は澤原家の所有地此処に移転安置された。此処は大正時代までは、呉と警固屋を結ぶ唯一の交通路の中間にあって鍋峠に通ずる山と谷に挟まれ曲がりくねった淋しい街道端で、此処から湧きでる「はまぐり水」は、当時鍋峠を越す人々の「のど」をうるおしていた。ある日いたずらな若者が、勿体なくも地蔵尊の首をたたきもぎとって、谷間へ投げ込んだ。若者は日ならずしてその所業によって激しい腹痛を起こして狂い死したという。首の行方がわからず之を心配した信者達は、代わりの新しい首を作ってすえたが又首がなくなっていた。それから人々は「首なし地蔵」と呼ぶようになった。その後二つの首がどこからともなくもどってきたので新しい首に新しい胴体を作って二体の地蔵尊を並べて祀った。昭和二十七年 堂守を置くことが定められ延命地蔵と命名された。同三十一年百年祭を記念して弘法大師像を観音寺主管故寺下妙孝先生によって右側に安置された。毎月二十四日は縁日で萬願寺住職の読経が行われている。

広島ブログ

最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
持てみました! (きまま)
2010-03-11 23:41:43
お地蔵様も作るんですか!?
お抱え地蔵はHPの呉市の観光で紹介したことがあります。その時お参りして家内安全・健康長寿を願ってお地蔵様を抱えてみました。重かったけどなんとか持てました。元気にやっているところを見ると願いはかなってるかも

Unknown (ゆこりん)
2010-03-12 09:04:14
★きままさん
墓所掃除でも何でも、お問い合わせがあれば、可能な事はさせていただいております♪
願いはかなってますね
想像よりは重く無かったです