写撮日記_しゃとるにっき

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武蔵の国 行き写撮 2号写

2017-09-25 | Weblog

石田堤 にやってきました。
長さ約250メートルだけですが、忍城水攻めの堤防が現存していて、
石田三成の名を冠して 石田堤 と呼ばれています。
  

天正18年、関白秀吉は天下統一の仕上げとして、
小田原の後北条氏を攻めます。
陸と海から20万余の大軍で小田原城を包囲し、
圧倒的な軍事力を見せつけます。

 

ただ、北条方には関東一帯に100を超す支城があり、秀吉は
いくつかの部隊を編成し、それらの支城を攻略しながら進軍させ、
小田原に全軍を集結させる計画でした。

  

その部隊の中で、上州方面から忍城攻めを担当したのが
石田三成らが率いる2万の軍勢でしたが、忍城は降伏勧告に応じず、
抗戦の構えです。

ここで秀吉は派手な演出として 水攻め を命じます。
総大将 石田三成はこの命に従い、5日間で28キロにも及ぶ
堤防をこしらえます。
自然の堤防を利用したとはいえ、備中高松城の数倍に及ぶ
大工事でした。


三成が陣を敷いたのは現在の埼玉古墳群です。
  

6月中旬に利根川の水を引き入れ、折からの梅雨の雨も手伝って、
堤防内の水かさは増して、城も城下も水没して行きますが
本丸だけは沈みませんでした。
これがのちに 浮き城 と言われる所以ですね。

忍城側では、城代の成田泰季が死去し、嫡男の成田長親が指揮を執りますが
その士気は高く、不沈の本丸に籠って耐えしのぎます。

  

6月18日、豪雨となり、さすがに本丸も危ないかと思われましたが
はたして内通者がいたのでしょうか、水の量に耐えかねたのでしょうか
それとも手抜き工事があったのでしょうか
堤防が決壊。多量の水が攻め手側の陣を押し流し、石田勢200余名が
溺死してしまいます。

後世に 三成は戦下手 と評されるのはこの忍城水攻めの失敗と、
結局忍城を落とせなかったことが大きな要因なわけです。
 

しかし忍城攻めに手こずったのは三成の指揮能力の問題ではなく、
水攻めをさせたことにより各隊の士気が下がっていたのが
最大の原因でしょう。
沈みゆく城を見ているだけでいいはずでしたから。

秀吉は三成に援軍を差し向けます。

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