中国残留 日本軍「性奴隷」被害ハルモニフォトエッセイ

過ぎ去った過去のことではありません。今でも苦しみ続けている人がいます。彼女たちの声に耳を傾けてみませんか?

ご挨拶

2006-09-09 | 紹介等
第二次世界大戦が終わり、61年もの年月が過ぎました。
私たちの生活は驚くほど便利になりました。
しかしその裏で、忘れ去られ、いまだに置き去りにされている人たちがいます。
朝鮮から「慰安婦」として中国に連れて行かれた人たちです。
彼女たちはだまされ、脅され、連れて行かれました。
戦争という時代の中で、貧困・民族差別・女性差別の犠牲になったのです。
戦争が終わったあと、故郷に帰ることもできず、生きるためにその地に残らざるを得なかった彼女たち。
積もり積もった61年の想いは、悲しみとなり、諦めとなり、彼女たちの人生を覆っています。
ひとり、またひとりと被害者たちは亡くなっていきます。
私たち戦後に生きている者たちにできることは、事実を知ること、そして二度とこのようなことを起こさないようにすることではないでしょうか。
このフォトエッセイは2005年に韓国・ナヌムの家で作られたものです。
今でもまだ故郷に帰ることが出来ない彼女たちの声に、どうか耳を傾けてみてください。
ご意見・ご感想等ございましたら下記までご連絡ください。
ayauyu123@mail.goo.ne.jp
あや

はじめに

2006-09-09 | 紹介等
ここは、遠く長い道を歩き続けてきたハルモニたちがやっと見つけた場所です。
この土地の、からっ風の中で育ってきた、言葉に出来ないほどの想いは、噴出すたびに涙になり、ため息が出てきます。
どうしてここに住んでいるのかと尋ねることはできませんでした。
会いたい人はいるのか。食べたいものは何か。
…そんな小さな願いを聞きだすことさえも、できませんでした。
まさに私たちが、この寂しい土地にハルモニたちを放り出していたのです。
彼女たちの悲しみの涙がもはや凍り付いてしまっているのに、私たちは彼女たちに対して、関心を持とうとしませんでした。
まったく関係ない他人のことのように、私たちは考えていたのでしょうか。
そんな自分を恥ずかしく思い、ハルモニに対して申し訳なく思います。
そのような気持ちで行ってきた、中国訪問日程を記録します。

キム・スノク

2006-09-09 | キム・スノク
国籍:大韓民国(2006年取得)
故郷:平壌
出生年度:1922年
動員年度:1940年
連行場所:中国 黒龍江省 東寧県 石門子
現在住所:大韓民国・ナヌムの家(2005年12月より)



平壌が故郷であるキム・スノクハルモニ。
他のハルモニたちに比べて外向的で活発な性格である。
家庭状況が苦しく、7歳の時から他人の家に住み込みで働いていたが、お腹をすかせた弟妹の面倒を見るために、父親に無理やり業者に売られた。
家に帰りたい一身でお金を儲けて、借金をすべて返して帰って来たが、結局父親に再び売られてしまい、中国黒竜江省の石門子慰安所に行くことになった。
約5年間、恥辱的な性奴隷生活をした後、故郷に帰る勇気がどうしてもなく、昔慰安所があった場所に今でも暮らし続けている。
私たちが何回かハルモニに会いに伺うたびに「韓国に必ず行きたい」と思われているようだが、ハルモニがそばにいなければ不安を感じる漢族のご主人の頑なな反対により、望んでいる故郷訪問はなかなか実現しない。(※)


※2005年12月より大韓民国ナヌムの家在住

キム・スノクphoto1

2006-09-09 | キム・スノク


ハルモニが連れて来られ過ごした慰安所があった村、石門子で。
とても緊張したせいか、私達がここに到着するやいなやタバコを一本出して吸われた。
「ハルモニ大丈夫ですか?」控え目に尋ねると、
返事の代わりにただ穏かなほほ笑みを返して、深くタバコを吸われた。

キム・スノクphoto2

2006-09-09 | キム・スノク


日本軍の駐屯地だった石門子には軍隊の慰安所があったが、当時ハルモニがいらした慰安所の「軍部」で雑務をしていたガァク・キョンサさんも、ここに住んでいらっしゃる。
二人は中国語で話をされたので、その内容を理解することはできなかったが、非常に穏やかな雰囲気の中でじっくりと言葉を交わされた。
ガァク・キョンサさんは、慰安所で「フクマル」と呼ばれた朝鮮人女性と解放後一緒に生活したが、その女性は結局死んだと言う。
正確な朝鮮名を尋ねることさえできなかったということだ。

キム・スノクphoto3

2006-09-09 | キム・スノク


解放(※)後、ハルモニは漢族の男性と結婚をした。
現在一緒に暮らす方は三番目のご主人だ。
詳しいお話はされなかったが、結婚生活が円満ではなく、たくさん苦労をされたようだ。
家族ができ一緒に長い間生活したとしても、幼い頃遊び回った故郷とは、生活環境や習慣が異なることがたくさんあったので、異国での生活は不便であり自由ではなかったはずだ。

※解放:1945年8月15日のこと。日本では「終戦」と呼ぶが、韓国では「解放」という。

キム・スノクphoto4

2006-09-09 | キム・スノク



偶然、この日はハルモニの誕生日だった。
家族が皆集まって楽しい時間を過ごした。
ハルモニも気分が良かったのか、ビールをたくさん飲み、急性アルコール中毒で病院に運ばれた。
その席に一緒にいた家族たちは皆、ハルモニが突然亡くなってしまうのではないのかという不安に包まれた。

キム・ウィギョン

2006-09-09 | キム・ウィギョン
国籍:朝鮮
故郷:ソウル 太平洞
出生年度:1918年
動員年度:1938年
連行場所:中国 南京, 宜昌, 長沙
現在住所:中国 湖北省 武漢市



1918年ソウル太平路で生まれた。
1男5女中5番目。
故郷の話をするといつも「南大門」を見たことを思い出すようだ。
ハルモニは1938年、日本軍人2人によって連行された。
約30人の女性たちと一緒に汽車に乗って連れて行かれる途中、急に汽車が止まって野原に連れて行かれ集団輪姦にあうという悲惨な経験をした。
以後、「あかり」という名前で南京・宜昌・長沙を転々とし、約7年間、性奴隷(※)生活をした。
解放された後、慰安所から逃げ出し、物乞いをし、放浪生活をしながら「武漢」に定着した。
慰安婦だったことへの蔑視のせいで結婚生活は順調にはいかず、子供も産むことができなかった。
女の子一人を養女にもらい、育てた。
現在、養女夫婦と一緒に住んでいるが、中国の失業問題が深刻でハルモニの娘の夫もやはり失業状態だ。
ハルモニは常に娘の心配、生活費の心配のために心安らかではない。

※性奴隷:「慰安婦」という言葉が被害の実態に適さないとして、「性奴隷」と呼ぶことがある。

キム・ウィギョンphoto1

2006-09-09 | キム・ウィギョン



アパートで娘夫婦と一緒に住んでいるキム・ウィギョンハルモニ。
足が不自由で一日中部屋の中でばかり過ごす。
たまにTVに放映される韓国番組を見るだけで胸がどきどきして眠ることができなくなると言う。

キム・ウィギョンphoto2

2006-09-09 | キム・ウィギョン



ハルモニは中国語の武漢方言しか話すことができない。
しかし「桔梗」の歌に合わせて狭い部屋でダンスをする時の手足の動きは、
明らかに「朝鮮」のものだった。