
それは、「アラスカ物語」という一冊の本との出会いがはじまりだった...。
「空で光彩の爆発が起こっていた。赤と緑がかわまり合って渦を巻き、その中心から緑の矢があらゆる空間に向かって放射されていた。彼に向かって降りそそがれる無限に近いほど長い緑の矢は間断なく明滅をくりかえしていた。光の矢は彼を射抜くことはない。それは頭上はるかに高いところで消えた。だが、消えた緑の矢は、感覚的には、姿を隠したままで、彼に向かって降りそそがれていた。身体に痛みこそ感じないが、恐怖は彼の全身を貫き、しばし立止らざるを得なかった……」。
知る人ぞ知る、新田次郎の「アラスカ物語」の冒頭のオーロラのことが書かれたくだりである。アメリカの沿岸警備船のキャビンボーイだったフランク安田は、海上で氷に閉じこめられた乗組員の食糧危機を救うために、ポイントバローをめざして氷原の上を歩き続ける。そこで、激しくオーロラが舞うシーンである。この本には、このシーンだけでなくフランク安田の数奇な運命とともに、オーロラが降りそそぐ光景が何度も出てくる。彼は日本人で初めてオーロラを見た人だといわれている。
ポイントバローでイヌイットに救われ、留まる決心をしたフランク安田は、イヌイット語とハンターとしての技術を身につけ、イヌイットの中でも進歩的な女性ネビロと結婚。乱獲による鯨やカリブーの激減による食糧危機に加え、麻疹などの疫病で滅亡の危機に瀕したイヌイットたちを救うため、カーター鉱山師と数年に及ぶ金鉱探しに出かけ、ついにシャンダラー河流域で大きな金鉱を発見する。
その後、この鉱山の大幹道にあたるユーコン河のほとりをビーバー村と名づけ、村づくりをはじめた。不可能に思われたインディアンの大酋長と交渉し、ついに200人を越えるイヌイットたちを移住させる偉業を成し遂げた。その偉大な日本人は、ビーバー村の繁栄のために人生を捧げ、1958年1月、90歳で波乱に満ちた生涯を終えた….。イヌイットを内陸へと移住させ、敵対していたインディアンと共生させたフランク安田の功績は、20世紀の奇跡ともいわれ、彼自身ジャパニーズ・モーゼとも讚えられている。アメリカに渡ったフランク安田が、ついに再び日本の土を踏むことはなかった。
この壮大なスケールの数奇な運命を持つひとりの日本人の人生がフィクションではなく、実話だということに驚かざるをえない。頁をめくるほどフランク安田という、謙虚でありながらも、強靱な意志と努力で不可能を可能にしてしていく姿にのめり込まれてしまう。生きるか死ぬかの危機に立たされながらもポイントバレーに到着したとき、ついに金鉱を探し当てたとき、私も心の中で大きな拍手を送った。読み終えたとき、しばらくぼうっとして何も考えられなかった。
『事実は小説よりも奇なり』という言葉が頭に浮かんだ。胸にふつふつと沸き起る感動は名作に対する称賛ではなく、真実に対する驚きだったと思う。
実際、インパクトが強いこの名作に影響されてオーロラを見にやってきたゲストも少なくなかった。だが、Canadian EX.のオーロラスタッフとして5シーズン活躍したRIOのフランク安田に対する思いは、誰もが感じるようなその場限りの薄っぺらい感情ではなかった...。
RIOは、2002年7月26日の日付で、02-03シーズンのオーロラスタッフ募集に、履歴書を送ってきた。封筒には、男性とは思えないような、バランスのとれた美しい字で丁寧に書かれた自己紹介文が添えられていた。
「私は、今まで3回、アラスカ北極圏地方を訪問したことがあり、トータルで半年間程度、現地の人たちと生活したことがあります。はじめてオーロラを見たのは、ユーコン河沿いにある、その小さな村でした。春、夏とその村を訪れては、友人となった現地の人達と侵食を共にし、極北地方の厳しく、そしてすばらしくもある環境を体験してきました。その体験から、自分自身ももっと深く極北地方の文化や自然に触れたいと思い、カナダのワーキングホリデーを申請しております。また、たくさんの日本人たちとのすばらしさを共有できる、またとない機会であると思い応募致しました・・・・。」
この自己紹介文に書かれていた小さな村こそが、フランク安田が作ったビーバー村だった。RIOは、中学生の頃、新田次郎が書いたこの本を読んで胸が高鳴った。たくさんのイヌイットたちを救ったフランク安田のことが、いつも心のどこかで引っ掛かっていた。
1992年、RIOが大学3年の夏、この村の存在を確かめたくて、長年の念願であったアラスカ北部のユーコン河ほとりに位置するビーバー村を訪れた。見渡す限り森と湿地に囲まれた、隔絶された場所にその村はあった。近年過疎化が進み、わずか70人ほどが静かに暮らす、殺風景な家が数十件あるだけの小さな村だった。宿泊施設などむろんあるはずもなく村のはずれにテントを張り、そこでひと夏を過ごした。村の人にフランク安田のことを尋ねても、多くを語ろうとしなかった。だが近くに住んでいたイヌイット親子と仲よくなり、この村にさらに特別な思いを抱くようになった。
大学を卒業する春休みも、再びビーバー村へ出向いて3週間を過ごした。それでも、RIOには物足りなかった。サラリーマン生活の間も、ビーバー村でもっとじっくり暮らしてみたいと思う心の火が消えることはなかった。
4年後、会社に辞表を出し、再びビーバー村へ向かった。最初の訪問のときに親しくなったイヌイットの息子が歓迎してくれた。3ヶ月ほど彼の家に居候し、寝起きをともにする中で英語を学び、サーモン漁やムースハンティングなどを体験し感動した。村の学校で、日本やフランク安田のことについて、子どもたちに知っている限りのことを話してやることがあった。
そのときの滞在の間に、RIOに新たな夢を抱かせる大きなできごとに出会くわした。フランク安田と同時代に生きた人物を追悼するために行われた『メモリアル・ポトラッチ』への参加である。
『メモリアル・ポトラッチ』は、日本で言う法事を意味し、親族が主催者となってごちそうを参列者に振る舞い故人を偲ぶ、北米大陸に暮らすネイティブインディアンの伝統行事のひとつだった。
「初めて参加したポトラッチは、とても衝撃的でした。決して裕福な村ではないのに、テーブルには、ムース(ヘラジカ)のヘッドスープやキングサーモン、ヤマアラシやビーバーの肉を使った料理など、数えきれないほどご馳走が並んでいました。みんなでこのご馳走を楽しんだ後、体育館のような広い場所に集まって、『GIVE AWAY』という、親族が参列者に贈り物を贈る儀式がありました。ビーズの工芸品、クマの爪の首飾り、銃、ダイヤモンドウィローなどの地元の工芸品に、靴下や毛布などの手作りの日用品など、たくさんの贈り物が用意されていました。参列者は、それらを身につけ、ドラムダンスや綱引きをして楽しみ、フィデェロというバイオリンによるインディアンのダンスなども行われました。その様子は、僕の心を大きく動かしました。本当に心打たれたのです…」
2004年の夏、RIOは再びポトラッチを体験する機会を得た。いつもは、フェアバンクスから小型飛行機でビーバー村へ行っていたが、この年は、イエローナイフのオーロラガイドの仕事が終わった後、河の氷が解けるのを待ってホワイトホースからカヌーでユーコン河を下り、ビーバー村へ向かった。雄大なユーコン河の旅はとても楽しかった。
「2回目のポトラッチは、準備から片づけまでを手伝い、その全容を知ることができました。そしてその間にひとつの考えが浮かんで、頭の中から離れなくなったんです。生涯をビーバー村に捧げたあの“フランク安田”のメモリアル・ポトラッチを、彼の没後50年にあたる2008年の節目に行えないだろうかと。ポトラッチが終わったとき、このアイディアを、ビーバー村にある唯一ある学校、『クルイックシャンク・スクール』の校長Ann Fisherに相談しました。この学校もフランク安田が作ったものでした。彼女は、生前のフランク安田と交流があり、彼をとても尊敬していたひとりだったので、実現に向けて一緒に努力しましょうと約束してくれました」。
このポトラッチは、地元の人だけの参列で終わってはいけない。フランク安田にゆかりのある人や彼の生き方に共鳴する人たちにも、日本からこのポトラッチに参加してもらえたら…。RIOの夢はどんどん膨らんだ。日本人の参加こそが、日本の地を二度と踏めなかったフランク安田のいちばんの供養になるのではと考えた。日を追うにつれ、その思いは強くなった。
フランク安田のメモリアル・ポトラッチの実現には、いくつかの障害があった。そもそもポトラッチは、ネイティブインディアンの伝統行事であり、フランク安田は、イヌイットたちに未だ語り継がれている英雄だった。でも、RIOには、インディアンとイヌイットの共存させることをも実現したフランク安田の法要だからこそ、ビーバー村をあげてのメモリアル・ポトラッチをがふさわしいと思えてならなかった。だが、村の人にわかってもらうには、説得のための時間が必要だった。
まずは、フランク安田の子孫にあたる人々を説得し理解を得た。でも、発起人のひとりでいちばんの有志であった校長のアンが、2006年に亡くなり、計画を断念せざるをえないと状況にも陥ったが、RIOは諦めなかった。幸運にも、彼女の後を継いで校長になった娘のシャリーンが、母親の意志を引き継いで協力を申し出てくれた。シャリーンは教育関係者や州議会議員などに積極的に働きかけ、教育委員長やビーバー村のツアー会社のオーナー、アラスカ州下院議員などの協力者を得て、彼らとともに計画していくことを約束した。
RIOも実現に向けて、積極的に行動を起こしはじめた。まずは、協力者を募るために、テレビ局や新聞社をいくつか回ったが、最初はなかなか手応えがなかった。そこで新田次郎がアラスカ取材旅行について書いた『アラスカ物語』の後記にも登場する、オーロラ研究の第一人者でアラスカ大学の赤祖父名誉教授に会いに行った。赤祖父教授は、協力を申し出てくれた。
フランク安田の故郷である石巻市へも何度も足を運んだ。フランク安田の子孫である静子さんと親しい日本舞踊名手である藤間京緑さんらの強い協力も得て、ポトラッチで彼女の持つ日舞京緑会や日高見太鼓のメンバーがビーバー村へ出向いて、日本文化を披露してくれることになった。RIOの夢がいよいよ現実味を帯びてきた。
さらに計画を聞いた石巻の文化・教育関係者は実行委員会を発足し、夢の実現へ後押ししてくれることになった。
仙台の有力紙「河北新報」もこのイベントに特別な感心を抱いてくれた。そして、フランク安田のことやメモリアル・ポトラッチのことなど、関連記事を何度か取り上げてくれた。河北新報の地方版である「石巻かほく」では、2008年の元旦の朝刊で、このメモリアル・ポトラッチについて4頁にも渡ってカラーで特集し、RIOの撮影した美しいオーロラの写真が紙面を飾った。発起人としてRIOのことも紹介されていた。
シャリーンは、またU.S.Aの子どもたちのための奨学金制度『オーロラファンド』の存在を知り、フランク安田の故郷である日本の石巻にビーバー村の子どもたちを連れていくプランを立て応募した。アラスカは、このファンドのエリア外にもかかわらず、見事、その寄金を得ることができた。シャリーンは、さらに地元の教育委員会などからも予算を得て、2008年夏のメモリアル・ポトラッチに先駆け、ビーバーの子どもたちの日本への修学旅行を実現させた。
2008年4月半ば、「クルイックシャンク・スクール」の小中学生8人は、校長のシャリーンを含む5人の引率者とともに日本にやってきた。石巻市では2泊して、フランク安田の子孫にあたる安田静子さんに対面。母校である湊小との交流会や市民らの歓迎会に出席した。ビーバー村の子どもたちの修学旅行の様子は、石巻の地元の新聞やテレビのニュースでも取り上げられ、ニュースでRIOも、インタビューを受けた。
RIOは、もちろん成田到着から、通訳も兼ねながら日本でのすべての行程を同行し、彼らの滞在がより楽しくなるように全力でサポートした。ただ、過疎化による生徒の減少で、この学校の廃校が決まり、最後の修学旅行となってしまうのが残念でならなかった。
オーロラツアーが終焉を迎え、オーロラガイドを辞めた後も、このポトラッチのために動く時間を考慮して、定職に就くことを避け、いろんなアルバイトで資金を稼いだ。時間が許す限り、ポトラッチに関する根回しや準備に充てた。
自ら立ち上げたホームページでも、ポトラッチやフランク安田のこと、ビーバー村の子どもたちの修学旅行の様子などを紹介した。元スタッフの紹介で共同通信社にも出向き、全国数十社を越える新聞で、このポトラッチに関するニュースが流されることになった。
ここで、再びRIO自身のヒストリーに話を戻すことにしよう。RIOは、会社を辞め3度目のビーバー村滞在の後、ワーキングホリデー制度を利用して1年間ニュージーランドへ渡り、フィッシングロッジで働いた。自然と向き合う仕事は、彼の性分にとても合っていて、水を得た魚ように楽しく働いた。気がつくと、魚を捌くのが誰よりも上手くなっていた。
あっという間に1年が過ぎた。次の進路を考えたとき、再び海外で働くことを望んだRIOは、日本へ戻ると同時に、再度ワーキングホリデーを利用し、カナダで働くことを考えた。彼の目に、たまたまイエローナイフのオーロラ人気が高まっているという新聞記事が目に止まった。ビーバー村で見たオーロラをもっと見てみたいと思っていた気持ちと、たくさんのネイティブインディアンやイヌイットが暮らすカナダ極北で仕事するのはとても興味をそそった。
オーロラを何度か見たことがあり、オーロラにとても興味を抱いていることやアラスカで極北暮らしを体験していること、それにフィッシングガイドの経験もあるRIOを、セイジは、面接することなく、日本にいた彼と電話で話をしてすぐに採用した。
RIOは、日本から、カナダのほかの町に寄ることなく、イエローナイフへダイレクトにやってきた。イエローナイフ空港で初めて会ったRIOは、どちらかといえば控えめな印象だったが、礼儀正しく好感度の高い青年だった。
夏からウエブ制作のために働いていたデザイナー兼オーロラガイドのYOSHIが、夏の間留守にしていた私に興奮して言った台詞を今でも覚えている。「今年は、いいオーロラがガイドがいます。何と言っても名前がいい。里見亮という、時代劇俳優のような名前なんです....」。亮は、英語では発音しにくいらしく、地元のツアーの関係者や協力者からRIOと呼ばれた。
ふたりきりになるとよく話をするRIOは、オーロラスタッフの中では静かな存在で、誰かを押しのけて前に出ることはなかったが、覚えることとやることが多く余裕を持てない1年目の仕事でも、愚痴ひとつこぼさなかった。
3年目になる頃には、無口なRIOがツアーゲストを前にして、本当に上手くしゃべっている姿に驚いた。オーロラが弾ける度に、弾ける方向を指差し、「ほら今、あそこがきれいですよ..」と誰もがその美しさを見逃さないように、ゲスト全員に注意を向けてガイドしていた。オーロラを讚える彼の言葉に偽りはなく、彼自身もオーロラを楽しんでいるのが伝わてきった。オーロラや極北のことを熟知した一人前のチーフオーロラガイドに、いつのまにかなっていた。
RIOは、私たちが自らの手でオーロラツアーに幕を引くまでオーロラガイドとして活躍してくれた。次シーズンを最後のシーズンにしようと私とセイジが決心した2006年 4月、RIOは、ポトラッチのことでそろそろ本格的に動こう思い、翌シーズンイエローナイフに戻ってくるかどうか迷っていた。だが、最後のオーロラツアーを、ゲストの数も内容も最高の形で実現して頂点で終わりたいという、私たちの思いに共感して最後まで一緒にがんばることを約束してくれた。迷わず差し出してくれたRIOの右手を、私は一生忘れないだろう。
ワンシーズン半年続くオーロラツアーを5シーズンも一緒に過ごしたRIOだったが、フランク安田のような謙虚さを持つRIOのメモリアル・ポトラッチの計画を知ったのは、最後のシーズンで燃え尽きた2007年の春だった。ほかのスタッフから何となく聞いていたが、なぜRIOがそれほどまでビーバー村に特別な思いを抱いているのかは詳しく知らなかった。そのとき初めてふたりだけでランチをして、RIOの企画書を見せてもらった。企画書を読んで話を聞き、彼に思いつく限りのアドバイスをした。でも、RIO自身メリットを考えると、何がそれほどまで彼を動かすのかわからなかった。
答えは、『アラスカ物語』にあった。ROが貸してくれた文庫本『アラスカ物語』は、中学の時に読んだあの1冊だった。カバーもなく手垢でかなり汚れており、年季が入っていた。中には、フランク安田と妻ネビロの白い十字架の墓の写真が1枚挟まれていた。
RIOはただただこの本を読んでフランク安田の生き方に感動したのだ。そしてビーバー村に行き、彼の偉業を知るほど、尊敬の気持ちが強くなり、ついに日本に帰ることがなかったフランク安田の法要を、日本人の自分こそがやってあげなくてはと思ったのだ…。RIOがオーロラガイドを仕事として選んだのも、RIOの人生の大きな流れの中でイエローナイフはビーバー村とつながっているからなのだと、初めて彼を理解できた気がした。
2008年8月23日と24日の2日間に渡り、ビーバー村でフランク安田没50周年を記念するメモリアル・ポトラッチが行われる。舞台となるのは、「クルイックシャンク・スクール」。ポトラッチならではの特別な夕食会や、イヌイット、インディアン、そして日本からの参列者たちがそれぞれの伝統文化を披露する文化交流イベントが予定されている。村の歴史やフランク安田の功績についての講話や映写なども予定されている。
フランク安田が金鉱発見で得たすべての財産と心血を注いで作ったユーコン河沿いのビーバー村。この地に彼を慕う人々が国境を人種を越えて集まり、彼の偉業を讚える。なんと素晴らしいことだろう。人々がご馳走を食べ歌い踊る様子を、遠い空からフランク安田自身も微笑みながら眺めていることだろう。彼の魂は、死後もずっとこのビーバー村を守り続けているに違いないから。
ポトラッチが行われる夜、夏の終わりにもかかわらず、無限に近いほど長い緑の矢が間断なく明滅をくりかえし、参列者向かって降りそそがれるようなオーロラが舞う奇蹟が起こることを期待せずにはいられない。
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ビーバー村
北極圏(北緯66度33分)まで12kmという高緯度に位置し、内陸性気候のため冬の最低気温は、氷点下60度まで下がることもあるが、逆に夏は摂氏30度を越える日も多い。地球の磁極を中心に浮かぶオーロラベルトの真下に位置するため、8月以降はオーロラが出現することも多い。
1910年に石巻市出身のフランク安田が創立。ビーバー村があった場所は、もともとアサバスカインディアンの居留地内で、グッチン族とコユーコン族の生活の場であった。アラスカでは、昔からインディアンとエスキモーの間で戦い繰り返されており、この場所にイヌイットを定住させることは、奇蹟に近いことだった。現在でも、コユーコン族、イヌイット(エスキモー)、またはその混血の人々が、夏はキングサーモン、秋はムース(大へらじか)など伝統狩猟をして暮らしている。
ここまでの交通機関は、フェアバンクスから小型飛行機が毎日運航、片道45分で村へ到着できる。小型飛行機以外は、ユーコンをボートで遡っていく方法のみ。フェアバンクスから、車でダルトンハイウェイを北上し、ユーコン河に架かる橋でボートに乗り換え、片道約6時間。
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この原稿を書いた後、RIOは、しめやかに、そして盛大にこのポトラッチを成功したと聞いています。
「空で光彩の爆発が起こっていた。赤と緑がかわまり合って渦を巻き、その中心から緑の矢があらゆる空間に向かって放射されていた。彼に向かって降りそそがれる無限に近いほど長い緑の矢は間断なく明滅をくりかえしていた。光の矢は彼を射抜くことはない。それは頭上はるかに高いところで消えた。だが、消えた緑の矢は、感覚的には、姿を隠したままで、彼に向かって降りそそがれていた。身体に痛みこそ感じないが、恐怖は彼の全身を貫き、しばし立止らざるを得なかった……」。
知る人ぞ知る、新田次郎の「アラスカ物語」の冒頭のオーロラのことが書かれたくだりである。アメリカの沿岸警備船のキャビンボーイだったフランク安田は、海上で氷に閉じこめられた乗組員の食糧危機を救うために、ポイントバローをめざして氷原の上を歩き続ける。そこで、激しくオーロラが舞うシーンである。この本には、このシーンだけでなくフランク安田の数奇な運命とともに、オーロラが降りそそぐ光景が何度も出てくる。彼は日本人で初めてオーロラを見た人だといわれている。
ポイントバローでイヌイットに救われ、留まる決心をしたフランク安田は、イヌイット語とハンターとしての技術を身につけ、イヌイットの中でも進歩的な女性ネビロと結婚。乱獲による鯨やカリブーの激減による食糧危機に加え、麻疹などの疫病で滅亡の危機に瀕したイヌイットたちを救うため、カーター鉱山師と数年に及ぶ金鉱探しに出かけ、ついにシャンダラー河流域で大きな金鉱を発見する。
その後、この鉱山の大幹道にあたるユーコン河のほとりをビーバー村と名づけ、村づくりをはじめた。不可能に思われたインディアンの大酋長と交渉し、ついに200人を越えるイヌイットたちを移住させる偉業を成し遂げた。その偉大な日本人は、ビーバー村の繁栄のために人生を捧げ、1958年1月、90歳で波乱に満ちた生涯を終えた….。イヌイットを内陸へと移住させ、敵対していたインディアンと共生させたフランク安田の功績は、20世紀の奇跡ともいわれ、彼自身ジャパニーズ・モーゼとも讚えられている。アメリカに渡ったフランク安田が、ついに再び日本の土を踏むことはなかった。
この壮大なスケールの数奇な運命を持つひとりの日本人の人生がフィクションではなく、実話だということに驚かざるをえない。頁をめくるほどフランク安田という、謙虚でありながらも、強靱な意志と努力で不可能を可能にしてしていく姿にのめり込まれてしまう。生きるか死ぬかの危機に立たされながらもポイントバレーに到着したとき、ついに金鉱を探し当てたとき、私も心の中で大きな拍手を送った。読み終えたとき、しばらくぼうっとして何も考えられなかった。
『事実は小説よりも奇なり』という言葉が頭に浮かんだ。胸にふつふつと沸き起る感動は名作に対する称賛ではなく、真実に対する驚きだったと思う。
実際、インパクトが強いこの名作に影響されてオーロラを見にやってきたゲストも少なくなかった。だが、Canadian EX.のオーロラスタッフとして5シーズン活躍したRIOのフランク安田に対する思いは、誰もが感じるようなその場限りの薄っぺらい感情ではなかった...。
RIOは、2002年7月26日の日付で、02-03シーズンのオーロラスタッフ募集に、履歴書を送ってきた。封筒には、男性とは思えないような、バランスのとれた美しい字で丁寧に書かれた自己紹介文が添えられていた。
「私は、今まで3回、アラスカ北極圏地方を訪問したことがあり、トータルで半年間程度、現地の人たちと生活したことがあります。はじめてオーロラを見たのは、ユーコン河沿いにある、その小さな村でした。春、夏とその村を訪れては、友人となった現地の人達と侵食を共にし、極北地方の厳しく、そしてすばらしくもある環境を体験してきました。その体験から、自分自身ももっと深く極北地方の文化や自然に触れたいと思い、カナダのワーキングホリデーを申請しております。また、たくさんの日本人たちとのすばらしさを共有できる、またとない機会であると思い応募致しました・・・・。」
この自己紹介文に書かれていた小さな村こそが、フランク安田が作ったビーバー村だった。RIOは、中学生の頃、新田次郎が書いたこの本を読んで胸が高鳴った。たくさんのイヌイットたちを救ったフランク安田のことが、いつも心のどこかで引っ掛かっていた。
1992年、RIOが大学3年の夏、この村の存在を確かめたくて、長年の念願であったアラスカ北部のユーコン河ほとりに位置するビーバー村を訪れた。見渡す限り森と湿地に囲まれた、隔絶された場所にその村はあった。近年過疎化が進み、わずか70人ほどが静かに暮らす、殺風景な家が数十件あるだけの小さな村だった。宿泊施設などむろんあるはずもなく村のはずれにテントを張り、そこでひと夏を過ごした。村の人にフランク安田のことを尋ねても、多くを語ろうとしなかった。だが近くに住んでいたイヌイット親子と仲よくなり、この村にさらに特別な思いを抱くようになった。
大学を卒業する春休みも、再びビーバー村へ出向いて3週間を過ごした。それでも、RIOには物足りなかった。サラリーマン生活の間も、ビーバー村でもっとじっくり暮らしてみたいと思う心の火が消えることはなかった。
4年後、会社に辞表を出し、再びビーバー村へ向かった。最初の訪問のときに親しくなったイヌイットの息子が歓迎してくれた。3ヶ月ほど彼の家に居候し、寝起きをともにする中で英語を学び、サーモン漁やムースハンティングなどを体験し感動した。村の学校で、日本やフランク安田のことについて、子どもたちに知っている限りのことを話してやることがあった。
そのときの滞在の間に、RIOに新たな夢を抱かせる大きなできごとに出会くわした。フランク安田と同時代に生きた人物を追悼するために行われた『メモリアル・ポトラッチ』への参加である。
『メモリアル・ポトラッチ』は、日本で言う法事を意味し、親族が主催者となってごちそうを参列者に振る舞い故人を偲ぶ、北米大陸に暮らすネイティブインディアンの伝統行事のひとつだった。
「初めて参加したポトラッチは、とても衝撃的でした。決して裕福な村ではないのに、テーブルには、ムース(ヘラジカ)のヘッドスープやキングサーモン、ヤマアラシやビーバーの肉を使った料理など、数えきれないほどご馳走が並んでいました。みんなでこのご馳走を楽しんだ後、体育館のような広い場所に集まって、『GIVE AWAY』という、親族が参列者に贈り物を贈る儀式がありました。ビーズの工芸品、クマの爪の首飾り、銃、ダイヤモンドウィローなどの地元の工芸品に、靴下や毛布などの手作りの日用品など、たくさんの贈り物が用意されていました。参列者は、それらを身につけ、ドラムダンスや綱引きをして楽しみ、フィデェロというバイオリンによるインディアンのダンスなども行われました。その様子は、僕の心を大きく動かしました。本当に心打たれたのです…」
2004年の夏、RIOは再びポトラッチを体験する機会を得た。いつもは、フェアバンクスから小型飛行機でビーバー村へ行っていたが、この年は、イエローナイフのオーロラガイドの仕事が終わった後、河の氷が解けるのを待ってホワイトホースからカヌーでユーコン河を下り、ビーバー村へ向かった。雄大なユーコン河の旅はとても楽しかった。
「2回目のポトラッチは、準備から片づけまでを手伝い、その全容を知ることができました。そしてその間にひとつの考えが浮かんで、頭の中から離れなくなったんです。生涯をビーバー村に捧げたあの“フランク安田”のメモリアル・ポトラッチを、彼の没後50年にあたる2008年の節目に行えないだろうかと。ポトラッチが終わったとき、このアイディアを、ビーバー村にある唯一ある学校、『クルイックシャンク・スクール』の校長Ann Fisherに相談しました。この学校もフランク安田が作ったものでした。彼女は、生前のフランク安田と交流があり、彼をとても尊敬していたひとりだったので、実現に向けて一緒に努力しましょうと約束してくれました」。
このポトラッチは、地元の人だけの参列で終わってはいけない。フランク安田にゆかりのある人や彼の生き方に共鳴する人たちにも、日本からこのポトラッチに参加してもらえたら…。RIOの夢はどんどん膨らんだ。日本人の参加こそが、日本の地を二度と踏めなかったフランク安田のいちばんの供養になるのではと考えた。日を追うにつれ、その思いは強くなった。
フランク安田のメモリアル・ポトラッチの実現には、いくつかの障害があった。そもそもポトラッチは、ネイティブインディアンの伝統行事であり、フランク安田は、イヌイットたちに未だ語り継がれている英雄だった。でも、RIOには、インディアンとイヌイットの共存させることをも実現したフランク安田の法要だからこそ、ビーバー村をあげてのメモリアル・ポトラッチをがふさわしいと思えてならなかった。だが、村の人にわかってもらうには、説得のための時間が必要だった。
まずは、フランク安田の子孫にあたる人々を説得し理解を得た。でも、発起人のひとりでいちばんの有志であった校長のアンが、2006年に亡くなり、計画を断念せざるをえないと状況にも陥ったが、RIOは諦めなかった。幸運にも、彼女の後を継いで校長になった娘のシャリーンが、母親の意志を引き継いで協力を申し出てくれた。シャリーンは教育関係者や州議会議員などに積極的に働きかけ、教育委員長やビーバー村のツアー会社のオーナー、アラスカ州下院議員などの協力者を得て、彼らとともに計画していくことを約束した。
RIOも実現に向けて、積極的に行動を起こしはじめた。まずは、協力者を募るために、テレビ局や新聞社をいくつか回ったが、最初はなかなか手応えがなかった。そこで新田次郎がアラスカ取材旅行について書いた『アラスカ物語』の後記にも登場する、オーロラ研究の第一人者でアラスカ大学の赤祖父名誉教授に会いに行った。赤祖父教授は、協力を申し出てくれた。
フランク安田の故郷である石巻市へも何度も足を運んだ。フランク安田の子孫である静子さんと親しい日本舞踊名手である藤間京緑さんらの強い協力も得て、ポトラッチで彼女の持つ日舞京緑会や日高見太鼓のメンバーがビーバー村へ出向いて、日本文化を披露してくれることになった。RIOの夢がいよいよ現実味を帯びてきた。
さらに計画を聞いた石巻の文化・教育関係者は実行委員会を発足し、夢の実現へ後押ししてくれることになった。
仙台の有力紙「河北新報」もこのイベントに特別な感心を抱いてくれた。そして、フランク安田のことやメモリアル・ポトラッチのことなど、関連記事を何度か取り上げてくれた。河北新報の地方版である「石巻かほく」では、2008年の元旦の朝刊で、このメモリアル・ポトラッチについて4頁にも渡ってカラーで特集し、RIOの撮影した美しいオーロラの写真が紙面を飾った。発起人としてRIOのことも紹介されていた。
シャリーンは、またU.S.Aの子どもたちのための奨学金制度『オーロラファンド』の存在を知り、フランク安田の故郷である日本の石巻にビーバー村の子どもたちを連れていくプランを立て応募した。アラスカは、このファンドのエリア外にもかかわらず、見事、その寄金を得ることができた。シャリーンは、さらに地元の教育委員会などからも予算を得て、2008年夏のメモリアル・ポトラッチに先駆け、ビーバーの子どもたちの日本への修学旅行を実現させた。
2008年4月半ば、「クルイックシャンク・スクール」の小中学生8人は、校長のシャリーンを含む5人の引率者とともに日本にやってきた。石巻市では2泊して、フランク安田の子孫にあたる安田静子さんに対面。母校である湊小との交流会や市民らの歓迎会に出席した。ビーバー村の子どもたちの修学旅行の様子は、石巻の地元の新聞やテレビのニュースでも取り上げられ、ニュースでRIOも、インタビューを受けた。
RIOは、もちろん成田到着から、通訳も兼ねながら日本でのすべての行程を同行し、彼らの滞在がより楽しくなるように全力でサポートした。ただ、過疎化による生徒の減少で、この学校の廃校が決まり、最後の修学旅行となってしまうのが残念でならなかった。
オーロラツアーが終焉を迎え、オーロラガイドを辞めた後も、このポトラッチのために動く時間を考慮して、定職に就くことを避け、いろんなアルバイトで資金を稼いだ。時間が許す限り、ポトラッチに関する根回しや準備に充てた。
自ら立ち上げたホームページでも、ポトラッチやフランク安田のこと、ビーバー村の子どもたちの修学旅行の様子などを紹介した。元スタッフの紹介で共同通信社にも出向き、全国数十社を越える新聞で、このポトラッチに関するニュースが流されることになった。
ここで、再びRIO自身のヒストリーに話を戻すことにしよう。RIOは、会社を辞め3度目のビーバー村滞在の後、ワーキングホリデー制度を利用して1年間ニュージーランドへ渡り、フィッシングロッジで働いた。自然と向き合う仕事は、彼の性分にとても合っていて、水を得た魚ように楽しく働いた。気がつくと、魚を捌くのが誰よりも上手くなっていた。
あっという間に1年が過ぎた。次の進路を考えたとき、再び海外で働くことを望んだRIOは、日本へ戻ると同時に、再度ワーキングホリデーを利用し、カナダで働くことを考えた。彼の目に、たまたまイエローナイフのオーロラ人気が高まっているという新聞記事が目に止まった。ビーバー村で見たオーロラをもっと見てみたいと思っていた気持ちと、たくさんのネイティブインディアンやイヌイットが暮らすカナダ極北で仕事するのはとても興味をそそった。
オーロラを何度か見たことがあり、オーロラにとても興味を抱いていることやアラスカで極北暮らしを体験していること、それにフィッシングガイドの経験もあるRIOを、セイジは、面接することなく、日本にいた彼と電話で話をしてすぐに採用した。
RIOは、日本から、カナダのほかの町に寄ることなく、イエローナイフへダイレクトにやってきた。イエローナイフ空港で初めて会ったRIOは、どちらかといえば控えめな印象だったが、礼儀正しく好感度の高い青年だった。
夏からウエブ制作のために働いていたデザイナー兼オーロラガイドのYOSHIが、夏の間留守にしていた私に興奮して言った台詞を今でも覚えている。「今年は、いいオーロラがガイドがいます。何と言っても名前がいい。里見亮という、時代劇俳優のような名前なんです....」。亮は、英語では発音しにくいらしく、地元のツアーの関係者や協力者からRIOと呼ばれた。
ふたりきりになるとよく話をするRIOは、オーロラスタッフの中では静かな存在で、誰かを押しのけて前に出ることはなかったが、覚えることとやることが多く余裕を持てない1年目の仕事でも、愚痴ひとつこぼさなかった。
3年目になる頃には、無口なRIOがツアーゲストを前にして、本当に上手くしゃべっている姿に驚いた。オーロラが弾ける度に、弾ける方向を指差し、「ほら今、あそこがきれいですよ..」と誰もがその美しさを見逃さないように、ゲスト全員に注意を向けてガイドしていた。オーロラを讚える彼の言葉に偽りはなく、彼自身もオーロラを楽しんでいるのが伝わてきった。オーロラや極北のことを熟知した一人前のチーフオーロラガイドに、いつのまにかなっていた。
RIOは、私たちが自らの手でオーロラツアーに幕を引くまでオーロラガイドとして活躍してくれた。次シーズンを最後のシーズンにしようと私とセイジが決心した2006年 4月、RIOは、ポトラッチのことでそろそろ本格的に動こう思い、翌シーズンイエローナイフに戻ってくるかどうか迷っていた。だが、最後のオーロラツアーを、ゲストの数も内容も最高の形で実現して頂点で終わりたいという、私たちの思いに共感して最後まで一緒にがんばることを約束してくれた。迷わず差し出してくれたRIOの右手を、私は一生忘れないだろう。
ワンシーズン半年続くオーロラツアーを5シーズンも一緒に過ごしたRIOだったが、フランク安田のような謙虚さを持つRIOのメモリアル・ポトラッチの計画を知ったのは、最後のシーズンで燃え尽きた2007年の春だった。ほかのスタッフから何となく聞いていたが、なぜRIOがそれほどまでビーバー村に特別な思いを抱いているのかは詳しく知らなかった。そのとき初めてふたりだけでランチをして、RIOの企画書を見せてもらった。企画書を読んで話を聞き、彼に思いつく限りのアドバイスをした。でも、RIO自身メリットを考えると、何がそれほどまで彼を動かすのかわからなかった。
答えは、『アラスカ物語』にあった。ROが貸してくれた文庫本『アラスカ物語』は、中学の時に読んだあの1冊だった。カバーもなく手垢でかなり汚れており、年季が入っていた。中には、フランク安田と妻ネビロの白い十字架の墓の写真が1枚挟まれていた。
RIOはただただこの本を読んでフランク安田の生き方に感動したのだ。そしてビーバー村に行き、彼の偉業を知るほど、尊敬の気持ちが強くなり、ついに日本に帰ることがなかったフランク安田の法要を、日本人の自分こそがやってあげなくてはと思ったのだ…。RIOがオーロラガイドを仕事として選んだのも、RIOの人生の大きな流れの中でイエローナイフはビーバー村とつながっているからなのだと、初めて彼を理解できた気がした。
2008年8月23日と24日の2日間に渡り、ビーバー村でフランク安田没50周年を記念するメモリアル・ポトラッチが行われる。舞台となるのは、「クルイックシャンク・スクール」。ポトラッチならではの特別な夕食会や、イヌイット、インディアン、そして日本からの参列者たちがそれぞれの伝統文化を披露する文化交流イベントが予定されている。村の歴史やフランク安田の功績についての講話や映写なども予定されている。
フランク安田が金鉱発見で得たすべての財産と心血を注いで作ったユーコン河沿いのビーバー村。この地に彼を慕う人々が国境を人種を越えて集まり、彼の偉業を讚える。なんと素晴らしいことだろう。人々がご馳走を食べ歌い踊る様子を、遠い空からフランク安田自身も微笑みながら眺めていることだろう。彼の魂は、死後もずっとこのビーバー村を守り続けているに違いないから。
ポトラッチが行われる夜、夏の終わりにもかかわらず、無限に近いほど長い緑の矢が間断なく明滅をくりかえし、参列者向かって降りそそがれるようなオーロラが舞う奇蹟が起こることを期待せずにはいられない。
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ビーバー村
北極圏(北緯66度33分)まで12kmという高緯度に位置し、内陸性気候のため冬の最低気温は、氷点下60度まで下がることもあるが、逆に夏は摂氏30度を越える日も多い。地球の磁極を中心に浮かぶオーロラベルトの真下に位置するため、8月以降はオーロラが出現することも多い。
1910年に石巻市出身のフランク安田が創立。ビーバー村があった場所は、もともとアサバスカインディアンの居留地内で、グッチン族とコユーコン族の生活の場であった。アラスカでは、昔からインディアンとエスキモーの間で戦い繰り返されており、この場所にイヌイットを定住させることは、奇蹟に近いことだった。現在でも、コユーコン族、イヌイット(エスキモー)、またはその混血の人々が、夏はキングサーモン、秋はムース(大へらじか)など伝統狩猟をして暮らしている。
ここまでの交通機関は、フェアバンクスから小型飛行機が毎日運航、片道45分で村へ到着できる。小型飛行機以外は、ユーコンをボートで遡っていく方法のみ。フェアバンクスから、車でダルトンハイウェイを北上し、ユーコン河に架かる橋でボートに乗り換え、片道約6時間。
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この原稿を書いた後、RIOは、しめやかに、そして盛大にこのポトラッチを成功したと聞いています。