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[提供:新潮社]
 日本が破滅に向って急速に傾斜していった時代,金も学問も希望すらもなく,ひたすら貧困とたたかっていた孤独な青年松本清張.印刷所の版下工としてインクにまみれ,新聞社に勤めてからも箒の仲買人までしながら一家八人の生活維持に苦しんだその時代が今日の松本文学を培ったのであった.本書は,社会派推理小説の第一人者である著者が若き日を回想して綴る魂の記録である――.

 多作さと綿密な取材力,犯罪の動機と密接に関連する社会の動向をたくみに取り入れ,冷厳な社会には冷徹な眼差しを向けるしかないというある種の達観.作家生活40年の間に,編著を含め750冊を刊行した松本清張の原動力は,現実社会の不条理な壁に阻まれ続けてきた彼の下積み時代の鬱屈,舐めさせられた苦汁と評することはたやすい.しかし清張が,近代日本文学に占める独自の位置を示唆したのは,疑いなく社会に対するルサンチマン(怨念)であり,それを淡々と率直に語った作品は存外に少ない.
‘少年時代には親の溺愛から,十六歳頃からは家計の補助に,三十歳近くからは家庭と両親の世話で身動きできなかった.私に面白い青春があるわけではなかった.濁った暗い半生であった’
 清張の同世代の日本人は,義務教育の尋常小学校を最終学歴とする者が34%,高等小学校に進んだものは58%,中学校への進学者は8%.清張の学歴は,旧制小学校高等科で終わっている.幸か不幸か,貧しい階層に似つかわしくない知力と向学心を備えたこの若者には,一家8人を養う重圧と貧乏,職業差別と会社内の差別待遇が待ち受けていた.出世の見込みは皆無,狭い家には家族がひしめいている.休日の予定を立てることもできず,線路を歩いて通勤する日々.草の生えた線路みちの途中には,炭坑があり,鉄橋があり,長屋があり,豚小屋があったという.
‘砂を噛むような気持ちとか,灰色の境遇だとか,使い馴らされた形容詞はあるが,このような(貧困困窮の中での生活の)自分を,そんな言葉では言い表せない.絶えずいらいらしながら,それでいて,この泥砂の中に好んで窒息したい絶望的な爽快さ,そんな身を苛むような気持ちが,絶えず私にあった’
 真暗な気持ちを正しく形容することもできないほどの「濁った半生」.その息苦しさから逃げるように,懸賞小説を書くことが生活に組み込まれていく.国民作家として,誰よりも守備範囲を広く保ち続けた清張の洞察は,大衆文学史と古代史論考のうえで無視できない.白樺派のヒューマニズムとは対照的な「社会的弱者,差別された側」にたつ文学性,歴史の真実を探り当てる眼光紙背に,類稀なる想像力.悲惨な境遇でなければ,これらを醸成することはかなわなかっただろう.この暗い自伝は前半生で終わる.この作家の後半生の苦難と光芒を知る人は,相当な関心をもって読むことができるはずだ.

半生の記 (文春文庫)
藤沢 周平
文藝春秋

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原題: 半生の記
著者: 松本清張

ISBN: 4101109125
  • 『半生の記』松本清張
    --新潮社,2004.改版
    (C) 1966 松本清張