Augustrait






 新撰組か、新選組か。幕末の動乱期に惹きつけられる愛好家の間では、今でも議論の尽きないテーマである。もっとも、局長の近藤勇は「選」と「撰」のどちらにもこだわりは持たなかったので、読みと意味と同じであれば書き字には神経質でなかったということか。1863年から1869年までのわずか6年間、反幕派の弾圧に終始したこの特殊警察組織は、13人の幹部(首唱者)のうちすべてが暗殺、戦死、病死した。例外的に、長寿のうえ往生を許されたのが、池田屋にも斬り込んだ二番組長・永倉新八であった。

 本書は、幕末から大正時代まで生き延びた新撰組幹部、永倉新八の口述を「小樽新聞」記者がまとめた回顧録。大正まで生存した新撰組剣士のうち、永倉と並び有名なのは斎藤一だろう。永倉は「沖田総司は猛者の剣、斎藤一は無敵の剣」と語ったという。記者に語った内容を、文章化しているために、本書は永倉の一人称ではない。おそらく随所に脚色も施されているだろう。しかし同時に、新撰組結成、池田屋事件、禁門の変など、常にクーデター鎮圧の枢要にいた男の語る実戦談は、緊張感に漲っていることだろう。

 永倉は、新撰組解散後の1871年、藩医・杉村介庵の婿養子として杉村姓を名乗り、77歳で往生するまで小樽の地で過ごした。孫に囲まれた静かな余生を送ったが、ある時、孫を連れて散歩した。やくざ者が永倉に因縁をつけると、永倉は凄味のある眼光で相手を威圧した。蛇に睨まれた蛙の如く、男は身動きとれなかったという。誇張ではなく、「潜り抜けた死線の数と年季が桁外れ」の永倉には、動乱期を忘れ新時代を謳歌する者など、生温いだけだった。今も、永倉の子孫は北海道の地に住むという。本書は、新撰組関連の出版を広く手掛けた新人物往来社の本の中でも、新撰組の内実を測る第一級史料の位置づけにある。

子孫が語る永倉新八  新選組 永倉新八外伝  新選組戦場日記―永倉新八「浪士文久報国記事」を読む

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▽『新撰組顛末記』永倉新八
-- 新人物往来社, 2009
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