1 はじめに
共産党リンチ殺人事件は1933年12月、共産党員小畑達夫が「特高のスパイ」の疑いをかけられ、宮本顕治らのリンチを受け、殺害された事件である。
共産党はこの時期、「スパイの査問」と称し、複数のリンチ事件を起こしており、小畑殺害事件が最も重い事犯である。
Wikipediaにも記載があるが「日本共産党スパイ査問事件」という見出しに象徴されるように、「査問」にかけられた小畑が「そもそもスパイだったのか?」という点には全く触れず、事実関係にも矛盾・混乱がある。Wikipediaは結果的に共産党の主張に偏っており、内容的には不十分である。
このブログでは小畑殺害の経緯を再検討し、事実を明らかにしたい。
なお、あらかじめ断っておくと私は反「反共」の立場に立つが、共産党の主張を鵜呑みにはしないし、公判資料にあたるなどしてできるだけ客観的に分析する。共産党側はこの事件に関し「全ては特高のでっちあげ」という無理な主張をしているが、こうしたあまりにも荒唐無稽な点については逐次反論していく。共産党の主張に従うなら予審調書をはじめ、公判での宮本らの陳述もでっち上げということになり、全ては「共産党の(根拠なき)主張だけが正しい」という、あまりにも独善的な議論にならざるを得ない。
また、事件の性質上、凄惨な記述も若干入るが史実なので、 この点はご了解願いたい。
2 小畑達夫は特高のスパイだったのか?
Wikipediaの記載が「日本共産党スパイ査問事件」という見出しに見られるように、共産党員小畑達夫(党中央委員・財政担当)がスパイであったことは、初めから前提にされている。少なくともWikipediaにはスパイか否かの検討はない。
共産党にとっては小畑が特高のスパイであったほうが、自分たちのリンチを正当化できるので都合がいいだろう。しかし、結論から言えば小畑はスパイではない。特高のスパイだとする証拠があまりにも杜撰すぎるのだ。小畑をスパイとする理由は奇妙なものである。例えば、まず些末な論点を拾っていくと、
① 「常ひごろから自分が労働者出身であることを吹聴し、インテリ出身者を軽蔑し、また他のものにも軽蔑させるような言動をした。
(注釈→これはインテリ党員を尊重しないものはスパイという、東大出の宮本らしい無茶な言いがかりだ。)
② 女性関係のスキャンダルがある
(注釈→女性関係にスキャンダルがあることと、スパイであることには、何ら関連性がない)
③ 階級的熱意がなく、自分の意見が通らぬとすぐに、じゃあ自分は止めるといったことを口にしたこと
(注釈→階級的熱意なるものを客観的に測定することはできず、わずかばかり不服従の態度をとったことをもってスパイとすることはできない。むしろ、スパイなら絶対反論せず、表面上熱心に活動したことだろう。小畑に一部、不服従の態度が見られのたら、それはむしろスパイではない証拠である)
いかがだろうか?こんなタワケタことでスパイ認定されるなら、共産党員のほとんど全部がスパイの条件を満たすだろう。
以上の論点ではあまりにも荒唐無稽なのでもう少しましな論点も紹介しよう。
④ 小畑は全協(日本労働組合全国協議会、戦前の労働組合ナショナルセンターで共産党が指導)の活動家だった。1931年末に万世橋署に検挙されたが40日の拘留ですんでいること。
(注釈→拘留40日ですんでいるのは小畑だけではなく、他の者もそうで、小畑だけが特別扱いを受けたわけではない。これをもってスパイと認定することはできない)
⑤ 1933年、全協幹部が一斉検挙されたとき、小畑は逮捕を免れた。
(注釈→この時点で全協中央の幹部ではなく、幹部らが集まる場所・時間などを知る立場にはなかった。このため当局に小畑が会合の場所等を漏らすことも不可能なら、小畑が幹部の会議に参加することも不可能だった)
いかがだろうか?これで共産党が小畑に持ち出した論点の半分ぐらいだが、どれもこれもタワケタ言いがかりにすぎないことがわかる。むしろ、小畑にスパイでいてもらわないと困る(小畑がスパイでないなら同志殺しになる)共産党のほうが、小細工を弄している。
例えば④について。共産党によると1931年秋に小畑はすでに党員でありその年末に検挙されたことになるが、拘留期間中に高橋警部なる人物に尋問を受け、転向を誓い、出所したことになっている。(袴田里見党中央委員の予審調書)
ところが関係者によると、小畑が共産党に入党したのは1932年の秋である。共産党内部の情報を、党員でもない小畑が察知することはできない。
このほかいくつかの論点があるが、いずれも杜撰なものであり、到底信じるにはたりない。
従って小畑スパイ説は極めて杜撰なものであり、最大限好意的に見ても嫌疑不十分としかいいようがないものである。共産党は幻のスパイと闘ったのである。
3 高橋警部とはだれか?
以上見てきたように、小畑がスパイではないとほぼ断言してよいと思う。ただし、一点だけ共産党側によると「小畑の自白」があった事柄があるので、それを検討してみよう。
共産党によると小畑は1931年に検挙され取り調べを受けた万世橋署の高橋警部に対し、出所後、数回会い、党内情報を流したと告白したという。この真偽を吟味してみよう。
結論から先に言ってしまえば、これもウソなのである。というのは当時の万世橋署には高橋なる警部は実在しないからである。共産党・全協は所轄レベルで逮捕しても取り調べは本庁でした。そのため万世橋署に高橋警部がいたとしても、取り調べをするわけはないのである。小畑の取り調べをしたのは本庁特高労働課第一係(全協関係の取り調べは特高労働課第一係の担当)の井上巡査部長。小畑が常任委員を務めていた日本通信労組の担当は、この井上巡査部長と二木、黒木という二名の巡査だった。
共産党は万世橋署に高橋警部なる人物がいないことをその後しぶしぶ認め、「本庁の特高に高橋と称する人物が二名いたからそのどちらかが、小畑をスパイにした」としている。しかしこれも支離滅裂な論理だ。というのも共産党が「本庁の特高に高橋とい姓の人物がいた」というのは、1934年のことなのである。小畑が全協活動家として拘禁された1931年のことではない。
つまり、以上を勘案すると小畑がスパイであった可能性は極めて低い、もっとはっきり言えばスパイではなかったのである。しかし、宮本、袴田らは小畑をスパイであると、「査問」する前から決め込んで、凄惨なリンチを加えたのである。
4 凄惨な「査問」
「スパイ」査問に当たったのは、宮本顕治、袴田里見、秋笹政之輔、逸見重雄、木島隆明の五人。
「査問」を受ける側は小畑達夫、大泉兼蔵の二人。二人は東京府東京市渋谷区幡ヶ谷の党アジトにおびき寄せられ、そこで「査問」を受けた。
(袴田里見、秋笹 政之輔の第二審判決に引用された逸見重雄の予審尋問調書より、読みやすくするため、漢字カナ交じり文を現代文に翻訳して抜粋・引用します)
実際の「審問」は大泉、小畑が代わる代わる「査問」を受けたのだが、話を複雑化しないため、小畑が受けた「査問」のみ、記述する。
①査問中の小畑の状態
針金・紐で両手を後ろ手に縛られ、両足も針金・紐で縛られていた。
②暴行の状況
12月23日午正午ごろより「査問」が始まる。冒頭宮本は「‥今度は一週間ぐらい監禁して徹底的に調べるからそのつもりでいろ」
宮本、袴田、笹秋の三人は小畑を打ったり、撲ったり、蹴ったりした。笹秋はまき割り用の小さい斧で頭をなぐった。いったん「査問」休止。
翌24日、午前九時三十分ごろより「査問」再開。宮本、袴田、笹秋、自分(逸見)、木島の五人が小畑の「査問」をはじめ、思い思いに小畑を詰問した。袴田は撲りつけるなどし、宮本は警察の拷問はこんなものではないと言った。
秋笹が火鉢の火を小畑の両足の甲に乗せた。また、木島は小畑の腹部を露出させ、硫酸を垂らした。
昼過ぎ、「審問」を休止している間、手足を縛られ、頭にオーバーを巻き付けられていた小畑が逃亡を図り、大声をだしたので秋笹を除く四人(秋笹は用便中)が小畑を押さえようとして乱闘、小畑が断末魔の声を上げ、死亡。(重要な注、これは実は裁判の判決で認められた状況で、戦後、この状況を詳述する発言が袴田から出されている)
この後、主に木島の働きでアジトの床下に小畑の死体が埋められる。
宮本らが逮捕され事実上、共産党は崩壊する。
5 小畑の本当の死因は何か?
小畑の死体解剖検査記録によると、頭部損傷は頭蓋骨、頭蓋底の骨質間出血、硬脳膜下出血、軟脳膜下出血があり、重大な損傷と言える。このほかこめかみ後部軟部組織間出血を除くとその他は全身にわたる多数の皮下出血であり、損傷それ自体しては軽微である。しかし、皮下出血を生じさせる打撃となると軽微ではすまない。鈍器(鈍体)の打撃で、そう簡単に皮下出血が生じるわけではない。
では、死因は?となると判断が分かれる。
A 最初の死体解剖検査記録・死因鑑定(村上次男、宮永学而)→脳震盪死
B 再鑑定書(古畑種基)→外傷性ショック死(これは裁判所が支持)→傷害致死罪
C 袴田里見が1978年、雑誌上で行った証言「小畑の右腕をねじ上げればねじ上げるほど、宮本の全体重を乗せた右膝が小畑の背中をますます圧迫した。やがて小畑のオゥーという断末魔の叫び声が上がった。小畑は宮本のしめ上げも息がつまり、ついに耐え得なくなったのである」→宮本を主犯とする殺人罪。
D 立花「他の所見からも袴田証言は裏付けられる。顔面の左側には異常がなかったのにもかかわらず、右側には額からまゆ毛、下顎の右口角部等に(大クルミ大、大鶏卵大等)の大きさの淡暗紫色変色部が散在し、そこを解剖してみると(皮下組織間に広汎なる出血の存を認む)とある」「つまりこの部位が強く圧迫されたのである。はじめはこれは殴打の痕かと思っていたのだが、考えてみると人は殴るときに右手を使うから殴打のあとならむしろ左側につくはずである。上から下までちょうど線上にこの変色部がならんでいるから、これは最後に頭部をおさえつけたときできたものとみなしたほうがよいだろう」
E 立花隆「宮本が小畑を殺した」と断言。
G 立花「一般の法医学関係者たちの意見をきいてみても、袴田証言に解剖所見と矛盾するところはない。当時、袴田がこれと同じ証言をしていたら、窒息死の鑑定がくださてていただろうことは確実なのである」
6 結語
殺人犯がだれだったかはこれを読んでくれた方の判断に委ねたい。駄文におつきあいいただき、感謝します。