きなこの夢日記

私の夢が、みんなの夢が、叶いますよーに

黙る

2007-03-02 23:08:07 | 
3月2日  


 何もない、普通の幸せに感謝。って簡単なようで、なかなかできません。
 「どうして?」ってもやもやしてる今の気持ちにぴったりだったので・・・
              



               高円寺カトリック教会 司牧
                 晴佐久 昌英 署

    星言葉より


      黙る


 学生時代に観た劇団四季の名演「オンディーヌ」が忘れられない。オンディーヌは水の精でありながら、人間の若者ハンスに恋してしまう。そこで水の精の掟を破って人間となりハンスと愛し合うが、やがて二人は引き裂かれ、ハンスは死に、オンディーヌは人間でのすべての記憶を消されて「永遠の世界」へと連れ戻される。忘れられないのはそのラストに近いシーンだ。

 舞台中央で向かい合う二人。虚空からオンディーヌを呼ぶ声が響きわたる。その声が三度響いた瞬間、オンディーヌの記憶は消え、ハンスは息絶えなければならない。二度目の呼び声が響きわたったとき、ハンスは叫ぶようにこういう。
「さあ、オンディーヌ、選んでくれ!残された最後の十秒を、語り合うか、それともくちづけのために黙るか」

 オンディーヌがどちらを選んだかは、書くまでもないだろう。

 黙るとは、単に話をやめることではない。だまること自体が積極的、かつ根源的行為だ、いうなればむしろ、人は黙ることをやめたときに話し出す。しかしその話の内容たるや、なんと空疎で冗長なることか。大半は愚痴か文句か弁解か、自慢かウソかお愛想か。もしも地獄があるならば、生前自分がしゃべったことを細大もらさず聞かされるところにちがいない。

 ことばがむなしく響くのは、ことばの背景の豊なる沈黙の世界に根ざしていないからだ。人はきちんと黙らなければ、きちんと語れない。どのように語ろうかと意気込む前に、まずどれだけ豊かに黙れるかを問題にすべきだ。

 黙ることをあきらめたことばは、人を傷つけ、争いを生む。そのようなことばをどんなに重ねても、人はいやされない。どこまで語り合っても、人は理解し合えない。いつだって孤独を生むのは、沈黙ではなくことばなのだ。

 心に渦巻くことばを鎮めて黙ったときこそ、本来の自分自身を見いだすときであり、初めて他者に出会えるとき。迷ったとき、行き詰ったとき、最も苦しいときは、ことばでごまかさずに、まず、黙る。深く、静かに、ゆったりと。

 ぼくもまた最後の十秒は黙って過ごしたい。人は沈黙の世界でこそ愛し合えるのだから。そして実は、ぼくらは常に最後の十秒を生きているのである。