上高地明神池の嘉門次小屋の岩魚の塩焼きを食べたい、と云う念願を果たすべく乗鞍への旅を計画した。今回の旅はたんにそれだけの目的だったから、あとは適当に観光地を巡ればなどと考えていたので、雑文に紀行文を書き残そうとは思っていなかった。ところが、旅の宿や訪問先で思いがけない出会い・経験に遭遇し、その記録を残しておこうと思った次第。これまでの紀行文とは違って、時系列ではなく出会いの中で感動したことや新たに得た知見を適当に書いてみた。
<嘉門次小屋の岩魚>
これまでの二度の上高地訪問は、バスツアーの計画に従いそれぞれ滞在時間が三時間と四時間と短く、三時間では往復が難しい明神池へは、滞在時間四時間のツアーでやっと訪れることが出来たものの、嘉門次小屋で美味しそうに岩魚の塩焼きを食べながらビールを飲んでいる他の旅人たちを横目に見ながら、バス集合時間の間に合うよう時間不足のため食することはできなかったのである。そこで、今回は休暇村乗鞍高原に三連泊し、そこから上高地行きのバス便を利用して行くことを目論んだ。便の少ないバスを利用するより沢渡まで車で往き、そこでシャトルバスに乗り換えたほうが安いし便利だ、との休暇村係員のアドバイスを聞き流し、岩魚とビールという目的を果たすため車は使わないことにして、往復バス便を選択し結果として実質6時間近い上高地滞在が可能になった。
9時40分過ぎ上高地バスターミナルに到着、言われた通りにすぐさま帰り便の整理券を入手し、目的地へ歩き始める。梓川沿いに西側(穂高側)で70分、東側(キャンプ場側)で45分というパンフレット記載時間よりは長くなることを考慮し、往きは山側を帰りはキャンプ場側を歩くことに決め、ゆっくり目に歩き始めた。山側の木道の多い道は雨降りだと滑る危険があるのだが、幸いにもこの日は梅雨の合間の快晴日だったので、危険な目にも合わずにほぼ予定通りに嘉門次小屋に到着。早速念願の岩魚の塩焼き(¥1000-)とおでんと大瓶ビールのチケットを購入、生け簀を覗けるテーブルでサッポロ黒生を飲みながら涼み、岩魚の到着を待つ。20センチ程の岩魚はやっぱり美味しい、前日に休暇村で注文し食した岩魚(¥720-)よりも甘く美味しいのは、注文後に殺めて串刺しにし炭火焼きする、という鮮度のよさにあると思われる。まだ昼前ということもあり客も多くはなく、少々価格は高めにも思われたが、塩加減も適度で大満足であった。
上高地ではトイレの利用に¥100程度の寄付を求められるが、食事をとった嘉門次小屋のトイレはもちろん無料である。ここで用を足し帰路につく。明神橋という釣り橋を渡り、キャンプ場側を河童橋へと向かう。帰路は割合に平坦な砂地を歩くというふうで、山道の両側には様々な木々が立ち、山野草が咲いている。河童馬間近のビジターセンターに立ち寄り確かめたところ、今咲き誇っている花はニリンソウの他には、ラショウモンカズラという紫のラッパ状のギボウシに似た花とか、大きな三枚の葉の上に小さく下向きに咲く花を持つエンレイソウ各種、マイズルソウなどであることが分かった。落葉松は既に完全に緑色に変わっているものの、シラビソは枝先の新芽が黄緑色で目立つので分かり易い。もちろん、所どころの木々の合間からは穂高の山々の直立したそそり立ちその岩肌が目の前に迫ってくる。西側山道では見ることのできなかった山の光景にたいへん感動した。道すがらすれ違う人のほぼ半数は外国人であった。
<帝国ホテルの巨大プリン>
河童橋辺りでの散策や土産物探しなどはそこそこに、帝国ホテルに向かった。バスターミナル到着時に上高地インフォ―メンションセンターで地図をもらおうとしたところ有料だとのこと、手折りB4サイズを名刺大位に手織りしたものを¥100で購入した際、帝国ホテルのラウンジ喫茶は混んでいそうか尋ねたら、今日は大丈夫そうとプリンを薦められた。山の景観を楽しみながら梓川沿い南下し、迂回して帝国ホテルへ向かう途中の道脇に、緑色の排泄物があちこちに散見された。熊の糞にしては少量過ぎるので、恐らく猿のものかと思われる。まさに帝国ホテルへの迂回路は猿の糞だらけといっていい状況、案内に従い正面玄関へ回り入店、喫茶コーナーは正面突き当りにあり、ベランダ席も眺められる木製椅子に案内される。お目当ての限定20食のプリンはまだ残っているとのこと、プリン&紅茶セットとショートケーキセットを注文する。それぞれ¥1700(税・サービス料込)でバニラアイスを加えるとプラス¥300と少々高めの価格。
お目当てのプリンは直径10センチの大きいグラスカップ入りで登場、その大きさにびっくりだが味も絶品であり、インフォ―メンションセンターの女性のお薦め通りトライする価値ありと云える。片やショートケーキはまるで一口サイズと極めて小ぶりで、お値段に比し割高である。とはいっても、ピシッとした制服に念入りな身なりに加え、訓練された心地よい応対ぶりには、やはり上高地帝国ホテルとしてのプライドが感じられ、一時間ほど紅茶をお変わりしながらゆっくりできたことを思えば、よしとしたい。何しろ一泊5万円を超えると云うお城であり、トイレも立派なものであった。支払金額は合計¥3700-也。
<高山巡り>
乗鞍高原から安房トンネル(¥770、福井と松本を結ぶ中部縦貫道の一部)を抜け飛騨高山までは凡そ一時間余り。大雨の予報と知っていたので、二人分の合羽も準備しており、車に残される飼い犬にとっては好都合と思いつつ、大雨の休暇村からトンネルを抜け出ると、雨は止んでおり高山に着く頃には晴れ間が見えるという状況。想定外の展開となったが、まずはデッサン教室の友人のお薦めに従い日下部邸・吉島邸近くの市営駐車場を目指した。そこから両邸と近くの高山屋台会館を廻り、天領高山の古い町並みエリアを散策し蕎麦でも食うという日程を組んだ。幸いにも車は日陰に止められた。
天領である高山は、実質的に商人・町人達が町を支配していた町衆文化であるということが分かった。御用商人であった日下部家は両替商を営んでいたということもあり、多くの民芸・工芸品を所有しており、そういうものや明治初期の大火後に再興された家には、それら所蔵するものが展示されている。隣の吉島家は酒造を生業としていたようだが、金貸業も行っており、町民らに信頼された、頼りになる豪商だったようである。つまり、高山の豪商は、年貢を多く収奪しようと高山にやってくる幕府の代官を酒・女で篭絡し、借金を抱えさせて弱みを握り、町民の生活を守り維持するというような役割を担い、一方ではその財力を生かし、仕事のない時には、無理をしてでも家づくりなどの公共工事で人々を雇い、食料不足の時には自らの倉庫から町民に振る舞う、という生き様・役割を代々貫く家系であって、その蓄財は大いに機能していたようだ。そんな話を見聞きした後に高山祭りのことを知ると、祭りの意味や様子がリアルに理解できる。
ということで、そこから5分ほど桜山八幡宮境内になる高山屋台会館を尋ねた。入場料¥900と高いが、説明用の音声ガイドを渡され、これが大いに役立った。都やお寺の建築に従事した「飛騨の匠」たちは、600年以上も前からという歴史があり、その匠たちの長い伝統に受け継がれ培われた技術が、江戸時代後期に花開いたのが高山の屋台であると云う。屋台の多くは文化文政の時代(1804~1830)に創られている。この時代は徳川第11代家斉の治世下で、幕政の綱紀が緩んだと歴史は語るのだが、一方で町人文化が栄えた時代である。元禄文化が上方を中心としていたのと対比され、武士を含めた町人層が生み出した享楽的色彩の強い文化と云われていて、酒井抱一や谷文晁、滝沢馬琴や十返舎一九とか、鈴木晴信・喜多川歌麿らの浮世絵が流布したりしていて、また、この時代に向島百花園が町民の手により開設されている。つまり商業の発展により町人文化が栄えたということなのだが、欧州に目を転じてみると、イギリスの産業革命が著しく進み、大陸でもフランス革命後のナポレオンの時代を経て。ブルジョアジーや豪商を中心に、王侯貴族の文化が拡散し個性や自我の解放と共に、文化的にはロマン主義に繋がる時代と同じであることは、社会現象としてたいへん興味深い事実である。
高山祭は4月14/15の春祭りと10月9/10の二度行われるということだが、観る機会・可能性は恐らくないので、数台の実物展示屋台を解説付きで見れて、雨が降ると屋台は出ない(金や漆の装飾が美しく保持する為)というしきたりとかの存在を聞き、尚更ユネスコの世界遺産に登録により将来世代への伝承が確保されたころは良かったと思った。千葉県では佐原の祭り(八坂神社祇園祭と諏訪神社秋祭り)における山車行列も同様に世界遺産となっており、山車会館にはいくつかの山車が展示され、同じように見ることが出来るのだが、ビデオ映像紹介はあるものの、音声ガイドが無いのは高山と比べて少々寂しいと感じた次第。
さて、天領高山の古い町並みは、電信柱が取り払われ、木造の町屋が恐らく観光目的に維持・修繕されているようだ。行きと帰りに南北に連なる別の路地を歩いたが、造り酒屋が多く少なくとも四軒以上あったようである。飲食店やお土産屋、飛騨家具などや木工製品の他にも様々な店が連なっていた。行列が出来ていたのは「飛騨牛寿司」の出店で、多くの外人が列を作っていたのは観光客の過半が外国人であるからで、特に中国人で多いように思われた。私たちは孫の名前入れた箸を購入したのみで、当初の予定通り適当な蕎麦屋に立ち寄った次第。晴れて車に取り残されている犬を案じて早目の帰還に向かった。
<白骨温泉の湯>
白骨温泉は38℃の炭酸泉で、加温すると炭酸成分が抜けるので加温はせず、源泉かけ流ししていると云う。乳白色の湯だが最初は無色の源泉が酸素に触れて色が変化する、と事前に調べた解説には書いてある。日帰り入浴が可能な「泡の湯」本館に立ち寄ることにした。「泡の湯」までは、乗鞍観光センターの横を上高地方面へ抜けるスーパー林道を走るが、二日前に休暇村から上高地への直通バスが同じコースを走っていて、道の様子はほぼ把握しており、荒れた狭い道路ではあったものの予定より早く温泉に到着する。本館の入浴時間は10時30分~13時30分まで、その後外湯が14時~入浴可能となる。アルバイトと思われる人々が到着後、10分ほど早くオープンしたが、恐らくその同じ従業員らが外湯も担当していると思われる。オープン直後の入浴者は凡そ10人程度と、天候が悪い為か日曜日にしては少ないと云う。入浴料は¥1000-である。
温泉は内湯とそのすぐ外の露天風呂、そして男女混浴の大露天風呂からなる。もちろん女湯の内湯と露天風呂も設置されている。湯音はやはり低く、肩を出すと寒く感じられる。しばらく湯につかり続けると湯船の下部は少々冷たいと感じて来た。よくかき混ぜなくてはいけない露天風呂である。大露天風呂に向かう、凡そ30畳くらいの広さがあり、一見二分割されているように造られている。湯は上部から樋を通じて二か所から落下している。湯船の底は苔のようなものに覆われているようで、ぬるぬる滑るので歩くときは要注意である。深い湯船なので太腿上部まで湯につかりながら歩くことになる。既に男7人ほど、女1人が入っており、男湯からは6段のステップを下りて湯に入るのだが、女湯からの入り口は湯面が見えるのみで、湯につかったまま出入りできる。しばらくして入っていた女性は立ち上がらないで歩いてその入り口から消えていった。この日は雨が上がり強い風の吹く大露天風呂だったが、合計20分余りの入浴後の体は妙に軽くなった印象を受けた。私の妻も同じ感覚を抱いたということである。宿泊すると3万円弱の支払いを要するようだ。いつもより客が少ないと、受付の女性はぼやいていたが、私たちにとっては幸いであった。
スーパー林道を抜けると沢渡駐車場の若干上高地よりの道路に合流する。そこから松本方面にハンドルを切り沢渡バスターミナルなどを経てしばらく走ると、乗鞍高原へのT字路交差点に着くが、上高地方面から来た場合そこから乗鞍高原方面へは右折禁止である。松本方面への長いトンネルを通過した先の親子滝というバス停付近のUターン道路で反転しなくてはならない。これも、二日前に上高地から親子滝バス停経由で乗鞍高原に乗り換えていたので様子は承知済み。バス停で知り合った大分出身の白骨温泉に向かう女性二人組は、共に旦那を亡くした同級生とのこと、夫婦二人の我々の旅を羨ましいと言っていたが、旦那のいない友人同士の旅を楽しんでいる様子。退職後の夫との生活に女性達はどうしてそれほど不満を抱き愚痴の種にするのか、私には不思議に思われる。一番相互愛が必要な年代なのに、まるで夫への愛は失せたかのようである。東京の息子夫婦宅から静岡の娘夫婦宅へ転居したという女性は、息子の方がきつい娘より優しいとはいうものの、「息子の嫁よりはましなのよ」という気持ちだと語った。
<彌生と松本城とホテル周辺>
道の駅「風穴の里」で昼食、土産物探しなどをして松本へ、松本市内の交通渋滞はすさまじい。日曜日の市内は松本市立美術館を前にまるで車は動かなくなってしまった。後でわかったことだが、市内中心部のイオンショッピンモール駐車場に入ろうとする車の長い列が、直進方向を止めているので、交差点がパンクしているという状況であった。美術館の常設展として、松本出身の草間彌生の作品が展示されていた。水玉模様で有名な彌生の、渡米前の水玉ではない抽象画作品に惹かれるものを感じた。全くランダムな解読できない表現というのではなく、大体は暗い色合いのバックの中央に何らかを模したように感じられる抽象物が描かれており、何か(心の叫びのようなもの?)を訴えているような印象を受けた。そこで見た作品と同じようなものがホテルのレストランに飾ってあり、その絵は彌生かと尋ねたところ当たりであった。ホテルの持ち主と松本出身の彌生には何らかの接点があったようで、三点の同様の作品が飾られていて、そのうちの一つは渡米から帰国後のものだと云う。近づいてよく見ると帰国後の作品は水玉模様が描かれていた。渡米前の作品の中央の抽象部分は、亀が網に捕られてしまった図柄、というような印象を私は受けた。三枚の中ではこの作品が気に入った次第。美術館のショップではオレンジ水玉模様のカボチャふうのバックが8万円ほど、財布が3万円ほどで販売されていた。草間彌生は1929年生まれ、松本の種苗屋の娘である。とにかく、独創性に対しての強烈な意識を持つ芸術家であるらしいことが分かった。
“国宝”松本城は小さな城である。六層からなり上層へ上る階段は急で且つ一段の高さが40センチ以上と思われる高さがある。しかも狭いので手摺や紐に頼って昇り降りしなくてはならない。400年の風雪に耐えてきたというのだから、この城で暮らした当時の武士達の大変さ、体力・気合・気風などというものが偲ばれ、現代人の我々には及びもつかない人種という気がしてくる。戦国時代に築城されたときには深志城といったようなので、有名な進学校である松本深志高校(現在でも松本城に一番近い場所にある高校)の名はそんなところが源なのかも、と思った次第。3時半過ぎに訪れ入場した時間でも、まだ多くの観光客で天守閣への登る階段には行列が出来ている状態、登って降りるだけで精一杯、性根を使い果たし、普段使うことのない筋肉の緊張により足腰の疲れがどっと出てしまった。「自らが80歳で再チャレンジできるかな」などと、エベレスト制覇の三浦雄一郎の気分を問いたくなった。
犬連れの旅行で、ホテルから5分の松本城を四回も周回し、色々なことが観察できた。まずホテルから大手門側への道すがら、井戸水を湧水の様に流している採水場のような場所が三か所もあり、その水は飲めると云うことを示すために水質検査表も掲示されている。その水をポリタンクに詰め採水に来ている人も見かけた。ホテルの水は全てその井戸水で、ホテルの本館棟と旧館棟の間には、きれいな水が早瀬のように流れている。その割に本丸を囲む内堀は浅く濁っており、たいへん大きな鯉が泳いでいたりする。大手門への参道のような広い道路にはシナノキが街路樹として植えられ、丁度花を付け始めていた時節で、シナノキ自体見ることの少ないことに加え、その珍しい開花風景は目に残った。よく整備された松本城公園内には、アオギリ(桐の葉を持つ、新枝が黄緑色で同じ個所で枝が四方に張り出るという、まるでミツマタのような特徴を持つ)とか、初めて見る樹木(名前はメモせず忘れたがみごとに開花していた)などが植えられている。東側に市役所・日銀松本支店、北側には裁判所・松本神社・旧開智学校、南側には信州テレビとか金融機関の建物と、市内中心部となっていて、市役所側の外堀から渡って入る太鼓門は開門時間が長く、二の丸跡へ続く散策路がある。早朝にはウォーキング・ジョギング・犬の散歩・鳥の観察などをする人がいて、平坦な公園内には多くのベンチ(木製・石・ゼメント)が設置されており、市民の憩いの場的雰囲気がある。一周してもさほど大きな城址公園でもないことが逆に親しみやすさを感じさせる所以かもしれない。
ホテルのある場所は、上土町という名がついている。松本城の東門馬出の場所らしく、馬の出入りの為に土が盛られた場所であることに由来するらしい。確かにその場所から南側方面への路地を見ると微かな下り坂になっていて、その路地沿いには昔ながらの飲み屋街が連なっている。大正ロマンの街とも書いてあり、大正時代の建築物を含む上土劇場(今も現役)・上土シネマ(閉場)・白鳥写真館・信州毎日新聞松本事務所・歌声喫茶・酒屋などがあり、また土蔵造りの店や、居酒屋も腰壁を漆喰で蒲鉾状に斜め格子に仕上げた、昔風の雰囲気のある街並みである。そのことは、二連泊して暮らしてみて更に納得した次第。
<松本ホテル花月>
民芸フィロソフィーのホテル、民芸家具のホテルとして宣伝を行っている中規模の、由緒あるホテルであるらしい。ホテルの受付は若い美人ぞろいで、中には中央アジア風の外国人や、他にも中国語・英語を話せる外人がいて、レストランにはインド人風のウェイターもいる。宿泊客の中には中国人や西欧人などもいた。ホテルのロビー・レストランの家具・部屋の家具類などの全てが民芸家具という名の、恐らく松本民芸家具と呼ばれるものであるらしい。部屋は本館最上階7階の北東側の端で、駐車場の見下ろせる24㎡のスタンダードツイン。大浴場は温泉ではなく、女湯は本館一階、男湯は旧館一階となっていて、受付ロビーが本館二階で、旧館二階には喫茶「八十六温館」(ヤトロオンカン)とショップ“tumugu”があり、本館二階のレストラン“I;caza”(イカザ)はフランス料理の店。更にチェックアウト日には囲碁本因坊戦第五局が行われる会場にもなっていたので、対局用の大きい和室とか解説場所をも備えていると思われる。
ホテルの云う民芸精神とは、「民藝の美しさとは、何気ない美しさ。普段の生活の中で使い続けられることにより磨かれる輝き。名もなき職人達が代々伝え、研鑽を重ねた用の美。そんな日常にある民藝の美にこそ、本物の美しさがあると考える」、というものである。その根本は柳宗悦の「手仕事の日本」を見直すと云う作業を通して、「日常の道具の美しさ」とか「今までよく知られていない日本の固有の姿」を発見しようという運動・哲学にある、と推察される。月曜日の風呂上がり、妻が部屋のテレビで“笑福亭鶴瓶の家族に乾杯“を見ている時間に、ロビーの民芸家具の椅子に座り、民芸関連の蔵書から幾つかを二時間ほど開いてみた。臼井吉見の「安曇野」全三巻と池田三四郎の「松本民芸家具」である。これらの本を開いて、松本・安曇野という地方・地域の特徴とかが、その民芸運動に関与した人々の活動とか影響力の大きさを知り、更に荻原守衛(碌山)・岩崎ちひろ・草間彌生という芸術家の生き様と重なりあうところもあり、よく分かったような気がした。
「安曇野」は安曇野出身の彫刻家碌山とパトロンであった安曇野出身で新宿中村屋という名のパン店を開いた相馬愛蔵とその妻良子(黒光)らのことを、実名を用いでフィクションとして書いた、新聞連載された大河小説であるらしい。作者の臼井吉見自身も松本出身なのである。津和野出身の画家安野光雅が一度しか訪れたことのない「安曇野」について、同名の画集を出している。その画集にはエッセイも多く書いており、その画集のきっかけとなったのが臼井吉見の「安曇野」であるらしい。という訳で、この読書で得た発見や様々な知見・認識・印象などは、碌山やちひろ(岩崎知弘)の項で随時紹介したいと思う。
ホテルの夕食について紹介したい。「ながのテロワール」というタイトルの創作フランス料理、長野特産の食材を用いた、と云う意味らしいが、その食事のメニュウーが大変面白い。例えば「700m上昇」という名の料理、鯛のポアレというふうな料理なのだが、松本の海抜550m+鯛の住処海抜-150mを加えて700mになるからと云う。「初恋」という前菜は、長野佐久の鯉の唐揚げのようなものであり、「信州の幻」という名は、県内のある牧場の“千代幻豚“という名の豚を使っていたりするのである。一品毎にウェイターが料理の説明をしてくれ、そこで生まれる会話がまた楽しい、そんな趣向のレストランで、飲み物は生ビール¥1000‐と高いものの、非日常の時間を楽しめる。妻には大好評なのだが、私は注文した¥900‐の吟醸酒がワイングラスに注がれているのが落ち着かず、なんでせめてグラスの御猪口でないのかなどと、美味しくは感じられない、もちろん翌日は生ビールに変更したのだが…。また、連泊の部屋の掃除は不要と申告したところ、喫茶「八十六温館」の珈琲券二枚を手渡されたので、翌日の美術館巡り後にレトロ調の喫茶店で利用させていただいた次第。難点は浴室と宴会場が同一フロアなことで、囲碁本因坊戦の前夜宴会場となった本館一階の女風呂に行った妻は宴会客と浴衣姿で出会い憤懣を語っていた。とはいっても、一泊一万円のクーポンで、創作フランス料理と盛りだくさんな朝食バイキングの一泊二食付きは、十分満足に値する。本来の価格は平日で¥16000‐位であるらしい(もちろんシーズンによるが…)。但し、ホテルより30mほど離れた駐車場の料金¥800/日の負担を要する(日に何度でも出し入り可能なれど)。
<荻原守衛“碌山”>
碌山美術館は月曜日でも5月~10月の間は休館ではない。寄付と支援によって1958年開設された美術館は、よくできた造りになっている。まず碌山の作品群があり、高村光太郎の過半の作品群が戦争で焼失したのとは違い、それらの作品は後世の芸術家たちにとって大きな財産である。生い立ちや留学時のこと、その時期の絵画作品、影響を受けた芸術家たちの作品群、パトロンであった中村屋に関わる芸術家たちの作品などと、上手く碌山の全体像が分かる展示内容となっている。かつて雑文「近代絵画の時代性その一(洋画編)」で、荻原守衛の生き様や、パトロンである中村屋の相馬良子(りょう?、筆名黒光)との関係などを取上げていたので、いくつかの関連した知見が得られた。まず、アメリカ留学中を経て24歳で渡仏、アカデミー・ジュリアンでは、その作品展で二度の一等賞(受賞名は異なるが)を獲得したこと。絵画にも取り組んでいたが、その様子をフランスの指導者が、その勤勉さと熱意を大いに評価していたこと。ロダンとの交友では、帰国する前に訪れた際に、日本に帰ると手本とするような作品を目にすることが無くなる旨の心配を話したようで、ロダンからは「自然を師とせよ」との助言・教えを得ていたこと。相馬黒光との関係については、性的なところまでは至らず、黒光の境遇に同情しての恋慕だったのではないか、との記述があった。また、1910年31歳での死因について、皮膚病の治療薬として投与されていた砒素による中毒死ではないか、との見立てが書かれていた。
もともと安曇野生れの碌山は、安曇野の素封家相馬愛蔵に嫁いできたばかりのフェリス女学院出の良子(黒光)の眩いばかりの姿に恋慕し、持参した絵画に魅了されて洋画家を目指している。その後不同舎での鍛錬に飽き足らず渡米渡欧を目指す。ただ渡米後フェアチャイルド家の学僕などをしてお金を稼ぎ、それを元手に二度繰り返した碌山の渡仏留学の経歴をみると、その当時の国費留学生や素封家の息子たちとは異なるガッツとか反骨精神いうようなものを、持っていた感がある。28歳で帰国を決意した碌山はイタリア・ギリシャ・エジプトを経て帰国する。私は雑文「『パンの会』の人々に日本の過去を見る」でも、荻原守衛(碌山)の帰国後の発言を取上げている。その帰国後の発言は、「日本の現在の彫刻界が、(新に建てらるる建築(博覧会的仮小屋的)が現わす時代精神であるのと同様に)表面だけを飾って奥行きのない所、一時的であり直輸入的であり無意味の西洋模倣である所、時代精神がそのまゝ彫刻に現われて居る。即ち全然国民性を忘却して、唯だ五里霧中に逆ふて居る状態である。国民性を破壊し去った過渡期の状態と云ふのなら未だ取り所もあるが、破壊とか建設とか云ふ意味で逆って居るのではなく、唯だ無意義に彷徨ふて居る状態であるから仕方がない」と云うもので、当時の彫刻界を批判的に語っている。
松本ホテル花月の蔵書「安曇野」(臼井吉見著)で発見したのは、臼井はエジプトを訪れた際に見た「村長」(ある村長の表情見た人物像)という彫像に、碌山の「文覚」という彫刻に相共通するエネルギーを感じ、帰国時にエジプトに立ち寄った碌山がこの彫像を見たに違いないと確信したことを著書のあとがきに書いている。臼井吉見が同郷の芸術家碌山に関する物語を書こうと思った動機には、こういう臼井の体験があったことも窺える記述であった。碌山の代表作は、重要文化財「女」・「北條虎吉像」や、「文覚」(鎌倉初期の真言宗の僧、誤って他人の妻を殺し、これを悔いて出家苦行したという)・「抗夫」などである。
もう一冊の蔵書「松本民芸家具」(池田三四郎)での発見は、碌山の育った松本安曇野の青年たちの一般的気質についての表現である。柳宗悦に師事して松本民芸家具の創生の取り組んだ池田三四郎の志と見立てが著書に書かれており、そこには心を揺さぶることばがあった。曰く「技術を中心にした独特な人間形成のための地域的条件というものは既になくなりつつある。言い換えれば全国的に拡大された都会的文化的影響のため、かつて素朴で忍耐強い若い子弟を集めることは難しいのである。地域的人間の特性は暫時希薄になって全国的に希薄なものになりつつある」、これは木工職人を目指す人材が著しく減少してきていることを課題視した発言であるが、ここに書かれた碌山の生まれた地域の若者気質とは、まさに碌山その人が素朴で忍耐強い若者であったことを言い当てている、と想われたのである。
また、曰く「すべての中高生が、進学課程に追われて、不幸にしてその路線を踏んでゆけないものは、大人にならないうちに、社会的脱落者になってしまうような、今の教育制度の中で、頭だけでなく身体全体に充実した人生の過ごし方のあることを示してやりたい」、これは家具職人としての遣り甲斐を人の人生における成長と結びつけて語ったことばである。碌山の時代の若者が持っていたこの地域の若者の気質が、戦後教育制度と変化する社会状況の中で失われて行きつつあることを例示している。碌山の時代の人が抱いていた自らの充実した人生への真剣な問い、即ちロダンに率直に相談したような問いとか、忍耐強さという気質とか、教える大人たちの情熱・熱意とかに関して、社会の変化と共に失われて行きつつあることを憂えているのである。その後池田は北海道出身の若者を木工職人として受け入れていく。
更に付け加えれば、碌山をとりまいていた人々の中には、井口喜源治のように、内村鑑三に傾倒して相馬愛蔵らの創設した東穂高禁酒会に参加し、地元に私塾・研成義塾を開き34年間に及ぶ人格教育を実践し600人の生徒を育てたという、中江藤樹及びペスタロッチに例えられた安曇野の人物(安曇野に記念館あり)が存在したという事実は注目に値する。碌山は後に「地方はかかる人を生める事を誇りとする時も来るべく候」と、井口への深い信頼を語っている。つまり、碌山とはこのような地域で生まれ、刺激され育っていった人物なのであった。碌山については、東京新宿の中村屋サロン美術館にても、その後の相馬黒光が支援した中村彝(つね)らと共に展示・掲示されていると云う。
<岩崎ちひろ>
安曇野岩崎ちひろ美術館も月曜は休館日ではない。こうした観光客への配慮は嬉しいことである。常念岳などの北アルプスの山並みが見える立地に、美術館は広大な敷地を有していて、更に美術館を取り巻くようにトットちゃん広場(ちひろの絵で愛される黒柳徹子著作の物語にちなんだ)が囲んで構成されている。その作品を愛する女性を中心とした多くの人々が来館しており、今月は季節がら花の絵のコーナーや人生略歴のコーナー、海外の絵本作家の作品や絵本の部屋、コーヒーコーナーなど、よく構成された展示コーナーがあり、絵本の世界とか、そういう絵画作品の持つ独特な宇宙空間を感じさせてくれる美術館となっている。妻は、人が多くて略歴などじっくり読めなかったなどと感想を言っていた。
福井県武生町で生まれたちひろ(知弘、1918~1974)は岩崎家の三人姉妹の長女で、小さいころから運動神経抜群且つ絵が上手だったという。ちひろ自身は府立第六高等女学校(現都立三田高校)に入学し、その頃母の文江(1890~1977)はちひろの絵の才能を認め、画家岡田三郎助の門をたたいている。母文江は奈良女子高等師範学校の一期生で、卒業後開校されたばかりの武生の公立実科高等女学校の教師として赴任していて、そこで出産するも三ケ月後には東京へ戻っている。夫の倉科正勝(長野県出身の建築技師)は婿養子として岩崎家に入ったようである。というのも岩崎家は女系家族で、母文江も四人姉妹の長女として生まれていて、四人とも松本高等女学校を卒業している。母文江は岩崎家を継ぐと云う期待で師範学校を出て学校の教員となり、正勝を婿養子として貰った。ちひろの父正勝は、文学・美術を趣味としており小説や俳句を文学誌に投稿していたと云う。牧水の妻となる歌人の太田貴志子を牧水と争ったという説もある。文江が松本の種苗屋の娘である点では、草間彌生の実家と同業種だったことになる。母文江はその後ちひろが通った府立六女にも勤めてたりしていて、肝臓癌で1974年に亡くなったちひろより長生きし、三年後の1977年まで生きている。
ちひろに纏わるこういう家族の歴史を紐解くと、ちひろが父正勝の芸術家としての感性とか、母文江の知性やたくましさなどを引き継いでいて、裕福な商家の娘文江の共稼ぎ夫婦としての生活習慣の中で、その才能を育んでいったことが想像できる。その感性の源には、安曇野の自然とその地域の人間性がある。また、宮沢賢治の思想(ヒューマニズムの聖化といわれる)に共感していたちひろは、戦後1946年疎開先松本で共産党に入党し、1950年松本善明(後の弁護士、衆議院議員)と結婚している。ちひろの童話・絵本との付合いが宮沢賢治への傾倒と関連がありそうなのは、面白い発見である。1951年生まれの一人息子松本猛は東京芸大卒業後、大学教授などを歴任し、現安曇野ちひろ美術館の館長を務めている。
<大王わさび園>
豊富な湧水に着目し、当時砂利ばかりの荒れ地だったわさび畑の開墾に着手したのは1917年(大正6年)、六年後の1923年古畑完成、九年後の1926年大王畑完成、1936年東畑完成し、ほぼ現在のわさび園の姿となる。初代深澤勇市が開拓を初めてから2017年で百年を経過している。わさび畑は西から東へと古い方から新しい方へと広大である。駐車場は無料、到着後にまず黒澤明作品「夢」の舞台となった三基の水車小屋を確かめる。よく絵に描かれる風景なので見ておきたかったからである。水車小屋の前をタグボートの観光客が全員櫂を使って上流側へ向かい懸命に漕いでいるのを目撃。三基目の水車小屋からすぐ下流で、この湧水の流れは川に合流している。高低差のない同レベルで合流する湧水と川は“珍百景”(テレビ番組のこと?)であるらしく、登録されているとの案内板への記載があった。
場内への犬の連れ込みは許されているが、糞尿の始末とか弁当持込みは禁止されている。昼食は大王麺(わさび葉の天ぷら付き)とわさびカツカレーを注文し、わさびの風味を適当に味わった。場内は広く、散策を始めるとかなりの距離が歩ける。またわさびソフトクリームも食したが、なるほどという味で、わさびの辛さが口残りするというほどではなかった。団体が来ていてソフトクリームコーナーはかなりの行列が出来ていた。お土産を幾つか購入し松本方面への帰路につく。松本からは高速を利用せずに、一般道で安曇野方面のギャラリー巡りができ、時間もさほど要しないため、松本を拠点にして美ヶ原や白駒池などを巡ることが可能である。安曇野と松本は隣町であった。
<感想と考察>
松本や安曇野出身の芸術家たち、碌山・ちひろ・彌生のことを詳しく知っていくと、この地域の裕福な商家・素封家の生き様が浮かび上がってくる。キリスト教者内村鑑三の影響を受けた井口喜源治とか、柳宗悦の影響を受けた池田三四郎とか、人生における人間的成長を掲げた先人達の存在が、素朴で忍耐強いこの地域の若者たちへ、文化・芸術的な面で大きな刺激を与えていたことが分かる。これはこの時代の特徴で、西欧のロマン主義の影響を多分に被った、「パンの会」とかの文学者・画家達の流れを受け継いだ、大正ロマンの雰囲気を体現していそうな人々の存在の効用と診ることができる。この時代的特徴は、宮沢賢治の例を挙げるまでもなく、あまねく全国的な傾向として存在していたと思われる。しかし、池田三四郎が見立てたように、戦後の経済成長・東京一極集中・教育制度の画一化と共に、哲学者・人格者・芸術家達は不要となって行った。芸術を媒介とする哲学・人生探求は、ほとんど失われてしまったのである。
現代は人間を全人格的に評価する必要が失われ、個人の教養などは求める必要のない、社会における一つの有用な部品としての存在しか個人に求めない(人間はそういう扱いを本質的には嫌悪しているはずなのだが…)、と云う空気の社会となってしまったようである。その中で、全ては個人の選択だとか個性だとか、一見個人を尊重したかのような個人を忙しくさせる問いを背負わされ、生じた結果に対しては全てを自己責任で切り捨ててしまう、そういう世の中になっているように想われる。そして、時代の主流派からはみ出た少数派としての社会活動家たちや芸術家たちの居場所は益々狭くなってきている。結果として個人として人生における人格の成長とか人間としての尊厳を突き詰めようとする人々が著しく少なくなり、かつてのように松本や安曇野に存在していた長老達や人間求道家たちはますます雲散霧消してしまい、残ったのは孤立した(特に人格陶冶という側面での)孤独な個人の存在となってしまった。
つまり封建制からの解放という、近代に始まった個人の呪縛の解放というドラマは、個人の負担の増大・増加につれ、また近年の貧富差拡大に伴う余裕のある中間層の減少と共に、人間性確立システムが破綻状態になってしまった。長老不在・先輩不在により個人は孤立化が進み、この時代状況に気が付いている一部の人々の個人的努力だけへのへの依存という、社会全体としてのあるべきバランスの崩れが、ポピュリズムの台頭などを招くと云う、現代になってきているようだ。では、個人としてどう対処すべきだろうか、と考えてみてもすぐに解が見つかる訳でもなさそうで、まずは今の社会への現状認識を深めていくことに尽きるのではなかろうか。私はこういう現代の状況を、近代人の自我からの疎外というような、社会学的な見方などをとおして、もうしばらく観察してみようと思っている。何らかの機会に、雑文にまとめられれば、少なくとも個々人における現代社会の現状認識には役立つのではなかろうか、などと思っている。今回の松本・安曇野への旅の出会いを通じて、そんなことを考えた次第である。
個人を社会の一部品としてしか扱おうとしない現代社会の全般的傾向は、個人個人の中にも広く受け入れられてきており、社会生活の一場面ごとに受け入れざるを得ない状況にある。ある意味特殊な職業である先生・警察・弁護士・検事・医者・看護士・児童相談所職員・介護士などによく目にする典型的なサラリーマン的対応とか、メディアで遭遇するあらゆる機会に目にする、人間を一部の面だけでしか接触しようとしない評価しようとしない傾向は、もう避けがたいものとなったしまった。そういう社会の状況の中で、その道徳性の欠如のみ取り上げて、個人主義とか戦後日本憲法とか民主主義教育の汚点だなどとする観点から、その対処を国家主義的な道徳教育とか教育勅語回帰へと、まさに国家主義的な“正解(?)”を提示する教育に戻そうとする、安倍晋三と日本会議の人々が勢力を伸ばしている。森羅万象(安倍首相の大好きな言葉)のなんでも国家が解決できるというような、国家の云うことが正解などという考えの国家主義イデオロギーへの、安倍・日本会議らのもくろみを許してはならないと思う。国家の役割は、できるだけ最小限に限定し、情報公開だけは徹底された姿に留めるべきで、真に多様性を受け入れた社会を目指したい。
ただ、基本的にはそういう社会状況から学んだ少数派が現れ、やがて多数派に受け入れられる解決方法を見出していくというこれまでの歴史の蓄積から観て、ある面では楽観的に考えている。しかし、第一次世界大戦後のドイツの全体主義ファシズムとか、国家統制・情報制御・日本人の選民意識をくすぐる教育というような、戦前の日本への回帰とかになってしまっては、悲しい出来事へ向かってしまう恐れがある。とはいっても恐らく適切な解決策を見出していく人々が現れるに違いない。最初は少数派として、後に社会の空気を変え多数派に導く、そんな人々が現れると信じたい。何故なら、大多数の人間の心の奥底には、誇り高き人生とか人格陶冶とか社会貢献、とかへの欲求が、必ず潜んでいると思うからである。
※あとが記 昨年六月の奈良ホテルへの割安クーポンによる連泊の心地良い体験を再び味わおうと、今回の旅の松本宿泊は民芸フィロソフィーの宿という宣伝の「松本ホテル花月」の割安クーポンによる連泊を手配した。結果として今回も非日常の空間と、関連する出会いや体験を手にすることが出来たと思っている。女性はこういうフランス料理とか、量より質とか雰囲気への執着が強いことを改めて再認識した次第。でも、やっぱり日本酒は大きめの御猪口がよくて、ワイングラスでは日本酒の味を楽しめるものではない。
ペットを連れての旅は、その世話に毎日二時間以上を費やさざるを得ない時間的制約が強いられるとしても、様々なことへのペットの反応とか、その食生活や他人との交流などを通じてペットへの情愛が深まり、夫婦間の話題の種として、また家族としての関係性の深まりという面で大いに有用な気がしている。今回も休暇村乗鞍高原での牛留池周りの散策とか、大雨の中での合羽を着ての長時間散歩などでペットとの深まり行く愛を確認できたことは収穫とすべきであろう。長期旅行へのペットの相性を深めつつ、次の出会いを期待しようと思っている。
今年に入りロマン派の音楽家たちの楽曲のコンサートを意識的に聴いている。音楽におけるロマン派の登場と作曲家の人生にも様々な顛末があることが徐々に分かってきて、それは社会の変化、産業革命以降の英国・フランス・ドイツ・オーストリアなどの王国からブルジョアジー・重商主義者たちの台頭という歴史の展開と、大いにリンクしていると云う理解に繋がった。近々にはこれらのことを、部分的把握に過ぎないとしても、雑文にまとめようと思う。
柳宗悦という人物について、戦争中の“転向”について研究した鶴見俊輔の興味深い指摘がある。彼の主催した民芸運動は「仏教美学に基づく工人の尊重という考えを推し進め、戦争の集団的熱狂から自分たちを守り抜きました」と、彼の活動を評価している。また、内村鑑三の無教会派に属していた知識人は、戦争し対してして批判的な態度を守り続け、経済学者の矢内原忠雄と政治学者南原繁は二人とも戦後東京大学の総長を務めている。岩手県和賀村の“黒仏と”云うかくし念仏の流派は、“愛情の共同性“という信仰を通しての助け合い習慣があり、この信者たちは幾度もの飢餓を通り抜け、また戦争(飢餓よりももっとひどいものとしての)にも反対し通り抜けたと云う。かつて、隣組制度の導入をきっかけとして、流言と自由な思想表現が統制され画一化されていった歴史を忘れてはいけない。国家は強制力を行使し、結果として、個人や集団に思想の変化を引き起こそうとするのである。
※参考文献 臼井吉見「安曇野」、池田三四郎「松本民芸家具」、戦時期日本の精神史(鶴見俊輔)、他
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます