キリスト教の悪を書いているけど、今回も聖書の間違いを語りたい。
大概のキリスト教信者は闇雲に聖書の言葉を全て神の言葉と捉えている。
しかし、
中には悪魔が書き加えた箇所もある事を正しく知る必要性がある。
福音書について話しをしてみたい。
現在の聖書の福音書は4つ、
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、の4つである。
マタイと、ルカはマルコの福音書を基準に制作され、ヨハネはその後から宗派により制作されている。
福音書はおよそ200~2??位あるとされ、他の福音書は何故か正典に加えられていない。
多分キリスト教各宗派の違いで振り落とされたのであろう。
それとも好意に悪魔が振り落した可能性もある。
福音書はある程度、似通って書かれているけど余りにも違いが多すぎる。
ヨハネの福音書は3つの福音書とは別物である。
そこから見える事は、聖書は神の言葉と悪魔の言葉が入り混じっている事。
もし、、
聖書が全て神の言葉なら、
福音書は全て同じ内容で、正確に刻まれている筈である。
他えば4人の人間が、神の姿を見たと証言して、神はどんな姿でしたかと4人に聞いた場合。
1人はライオンの姿で、もう1人はトラの姿で、もう一人はゾウのようで、後の一人はワニの姿をしていたと証言したなら、
誰の言葉が真実で、誰の言葉が嘘なのか?分からない?
お互いが自分の方が正しいと議論する。それでも答えが出ない場合4人ともバラバラになる。
そして、
その事によりお互い喧嘩になる。大きく捉えれば戦争に発展する。
宗教戦争の根幹はそこにある。
自分らが正しい正しいと数々ある疑問さえ押し殺し、
大人の男女、老人子供わけなく目を鬼のごとく吊り上げ、
旗を振りかざし、銃を振り回し、時代が変わっても今も続いている争いでもある。
人は将来に対してや色々な事に漠然と不安を抱く。
その事で心のバランスが崩し色々な犯罪を犯す。
信じる神を正しく見つめると、そこから正しい信仰心が生まれ、
その事により不安や悩みが小さく見えてくる。
そこから正しい個人の判断ができ、愚かな争いには至らない。
色々な教えを学ぶ前に心の安定が必要である。
邪心を捨てる事である。邪心を捨てるには大変な作業が必要である。
座禅はキリスト教や数々の宗教にも出てくる。
例えば、
イエス・キリストにしても色々な場面で座禅をしている。
神との語り、悪魔との語りを座禅と瞑想で苦難を切り開いている。
偉大な偉人が取り入れている行動を、
我々凡人が行わないで平和や幸せを望む願いに無理がある。
座禅や瞑想は難しく捉えるけれど簡単に出来る。
邪心が取り払えないなら、下記を唱えれば邪心が振り払えて暫くは瞑想に導かれる。
ごうしんぞうこう けんしんとうたつ、
そうごうぜんけん、みょうしんこうやく、
こうやくてんしん、おうこうぜんりょう。
邪心が襲っても上記を何度も唱える事により、
邪心が振り払える。