和宏のひとりごと

宇野さんからメールが届きました

おはようございます。

 今朝は少し冷え込みましたが、日中は晴れて過ごしやすい陽気になるとのことです。
明日はさらに気温が上がり5月上旬の気温になる様子です。
日々、楽しいこと、辛いこと、繰り返しですが、気持ちだけは前向きに今日も一日、元気に明るく過ごしましょう!

さて、先日この「ひとりごと」で紹介した「宇野繁博」さんから、お礼メールをいただきました。
そして、今日紹介する「希望」という宇野さんご自身の生い立ちをもとにしたお話が添付されていましたので、ご紹介させていただきます。

テーマ 希望
題名 悲しみの涙が喜びの涙に
執筆者 宇野繁博(ウノシゲヒロ)

 
 ☆耐え難い試練☆
 意識のなくなった母を診察した主治医は、母の死を静かに伝えてくださいました。
私が32歳の時でした。それまでも多くの方の死に接してきましたが、母の死は私にと
って最も悲しい別れでした。というのは、母は命をかけて私を愛し、守ってくれたか
らです。
 私は、高校の時、すばらしい英語教師松田通彦氏と出会いました。私も松田先生の
ような英語の教師となり、大好きな野球の指導もしたいと自分なりの夢を持って大学
は教育学部へと進学しました。大学卒業後、最初の赴任校は、福井県若狭町の小学校
でしたが、将来は中学校で働きたいと考えていました。
 しかし、25歳の時、網膜色素変性症という目の病気により、視覚に障害を持つ身
となりました。そのため、無邪気な子供たちと勉強ができなくなりました。胸が張り
裂けそうでした。
 当時、ある女性と交際していました。彼女とは、新採用研修で知り合い、お互いに
理解し、励まし支え合う仲でした。私達の関係は徐々に親密となり、互いに結婚を意
識するようになっていきました。しかし、彼女との関係も絶たれてしまいました。私
もつらかったですが、彼女の方がもっとつらかったかもしれません。
 人前で涙することはありませんでしたが、毎晩、布団の中に入ると、涙が滝のよう
に流れました。目の中にこれだけ多くの涙があるのだろうかと思うほど泣きました。
まさか、目が見えなくなるとは夢にも思いませんでした。
 過去12年間の年平均自殺者は、3万人以上と聞きますが、自殺をする人の気持ち
が少し分かったような気がしました。目が見えず、人に迷惑をかけることしかできな
い人生など、生きていて意味があるのだろうかと感じました。ナメクジが塩をかけら
れて消えてしまうように、私も自分自身に塩をかけて、消えてしまいたいと思いまし
た。
 そのような私の様子を見ていた母も涙を流してくれました。共に涙を流してくれる
人がいるということは大きな慰めでした。
「親として、代わってやれるものなら、代わってやりたい。」
母は、いつも涙を流しながらこのように語ってくれました。そして、親としてできる
ことは、1円でも多くのお金を息子の私に残してやることだけだと考え、母は朝早く
から夜遅くまで働きました。早く休むようにと私が話しかけても、母はこうつぶやき
ました。
「繁博。かあちゃんは、疲れて体をくたくたにしないと、お前の将来が気になって眠
ることもできないんや。」
 そのような状況の中で、ある日
「繁博、おまえが目が見えないためにどうしても生きていくことがつらいと思うなら
、かあちゃんと一緒に死のうね。かあちゃんは、いつもどんな時もおまえと一緒だよ
。」
と涙声で話してくれたことがありました。私はこの母の言葉を聞いた時、体が震えま
した。母は、目が見えなくなり何もできなくなった私に対し、命さえ投げ出してもよ
いとまで言ってくれました。心打たれました。その時、これからの人生を、母のため
にもしっかり生きていこうと決意しました。
 そして、私は視覚障害者の職業の一つである鍼灸マッサージの資格を取得するため
に大阪府立盲学校理療科(鍼灸マッサージ師養成課程)に1989年4月に入学しま
した。25歳の春でした。新たな決意を持って入学したものの、基礎医学である解剖
学や生理学は難しく、またマッサージ実技では指が痛くてつらい毎日が続きました。
目が見えていれば、こんな苦労はしなくてもよいのにという思いが強く、盲学校の1
年生の時はほとんど勉強に手がつきませんでした。1日の授業が終わると盲学校の近
くの飲食店に出かけ、多くのアルコールを飲み、そのお店の方につらい気持ちをよく
聞いてもらいました。ほとんどアルコール依存の状態でした。心が苦しく、その苦し
さを紛らすためにアルコールに依存する人の気持ちがよく理解できたような気がしま
す。
 そのような生活の中、生涯の恩師となる新川実氏に出会いました。私の担任となっ
てくださった新川先生も私と同様に人生の半ばで視覚障害者となり、苦労された先生
でした。新川先生には私も心を開くことができ、今までのことをすべて話しました。
先生はそんな私を心温かく励ましてくださいました。
「宇野さん、つらい中を今までよくがんばってきたね。私は宇野さんの気持ちが痛い
ほどよくわかる。小学校の教師をしていたのなら、もう1度、今度は盲学校の教師を
目指しませんか。私も精一杯応援するよ。気持ちが乱れて勉強に集中できなかった時
は仕方ないけど、残された時間を精一杯、勉強すれば盲学校の理療科教師の道がある
よ。」
 この心温かい言葉を胸に、私は必死に勉強しました。進学するため、3年生の夏休
みには予備校へも行きました。その夏、私は過労で倒れ、救急車で病院に搬送された
こともありました。新川先生に励まされて、私は盲学校理療科の教員免許を取得する
ため、筑波大学理療科教員養成施設に入学することができました。今も新川先生に、
とても感謝しています。私も先生のような生徒の心の痛みのわかる教師になりたいと
強く思いました。

 ☆希望は幸せへの光☆
 しかし、筑波大学に進学した頃から、拡大すればかすかに見えていた普通文字が見
えなくなり、本格的に点字で読み書きをしなければならなくなりました。点字を点字
盤や点字タイプライターを用いて書くことはそれほど難しくはないのですが、指で点
字を読むこと(以下触読と記します)が大変困難でした。小さい頃から点字を使用し
ていた友人が、すらすらと触読を行うのを横目に、私もその友人のように読める日が
来ることを願い、授業すべてを点字タイプライターでノートしました。更に、それを
時間をかけて何度も読み返しました。大阪府立盲学校の生徒の時も給食の献立を点字
でいただき、少し触読の練習もしていましたが、大きく拡大すれば普通文字が何とか
読めたこともあり、触読のスピードは、かなり遅いものでした。それで、点字に専念
し、普通文字を使わないようになれば、スムーズに触読が可能になるだろうと考えて
いました。ところが、私の思うように触読のスピードは上がりませんでした。スピー
ドを上げると誤って読むことが多く、文章の意味がわからなくなってしまうのです。
就職するまでにうまく読めるようになるだろうかと、不安と焦りが胸を圧迫しました

 そんなある日、点字がスムーズに読めないことで深く落ち込み、気が付くと涙がこ
ぼれていました。情けないやらつらいやらで、どうして触読のスピードが上がらない
のだろうかと真剣に悩みました。私は指の感覚が鈍いのだろうか、指の動かし方がま
ずいのだろうかなどと思いつく要因をあれこれ考えました。
 しかし、触読を本格的に始めて、約2年後、スピードも徐々にアップしてきました
。長いトンネルの出口がやっと見えてきたように感じました。明けない夜はない。ど
んな深い闇夜にも必ず明るい朝がくるという言葉を聞いたことがあります。
 触読のスピードがアップしなくて、つらく挫折しそうな時もありましたが、いつも
私は明確な希望を持っていました。盲学校の教壇に立ち、点字をすらすらと読みなが
ら授業をしている自分の様子を頭の中に思い浮かべながら、そのような時が必ずくる
と信じて触読のスピードアップに取り組みました。
 そして、1994年の春に、私は晴れて滋賀県立盲学校に就職することができまし
た。30歳の春でした。感無量でした。母や新川先生の温かい言葉が思い出され涙が
流れました。寒さの厳しい冬を耐え、私の人生にも暖かい春がやってきました。
 盲学校において、私の担当は、鍼灸マッサージの指導ですが、点字の指導もするこ
とがあります。私と同様に人生の半ばで視力を失った中途視覚障害者の生徒の多くが
苦しい胸の内を私に話してくれます。
「どうしても触読のスピードがアップしません。何か良い方法がありませんか。」
「私は、その気持ちが痛いほどよくわかります。というのも、私も同じ道を歩んでき
たからです。点字がなかなか読めなくて、私は涙を流したこともありました。実際に
は行いませんでしたが、紙ヤスリで指をこすれば触読が速くなるだろうかと考えたこ
ともありました。私はある程度触読できるようになるまで約2年の歳月を要しました

 今、触読がうまくできなくてストレスを感じていることと思いますが、継続は力で
す。読めなくてもよいですから続けてください。最初から読めるようになると思わな
いで、最初は、読めないのが当然だと思って取り組んでください。私のような不器用
な者でも読めるようになったのですから、必ず読めるようになりますよ。もし、私の
ように涙を流したことがあるなら、その悲しみの涙は必ず、いつの日か喜びの涙とな
ります。希望を持ってください。希望は決して失望に終わることがありませんから。

 昨今、リストラや金融危機などのニュースを頻繁に聞くことの多い不安定な社会で
すが、如何なる状況に立たされても決して希望を失わないことの大切さを点字の触読
の体験から学ぶことができました。現代の格差社会は賃金格差ばかりでなく、より具
体的な希望をしっかり持つことができるかどうかの希望格差がとても大きいように感
じます。どんな厳しい試練に出会っても、しっかりと明確な希望を持つことがその人
の人生を決めるように思います。希望は幸せへの光です。
 思い起こせば、私も失明し、失業し、縁談も破棄されるなど、つらい中を歩みまし
た。しかし、母や新川先生の励ましにより盲学校教師になることの明確な希望を、持
ち続けることができた故に、現在の私があります。

 ☆人は皆かけがえのない尊い存在☆
 毎年、滋賀県立盲学校の理療科に数名が入学されます。理療科への入学者は私と同
様、人生の半ばで視覚障害の身となり、仕事を続けることができなくなり失意と落胆
の中、入学される方々が大半です。生徒の中には、私よりも年上の方もいらっしゃい
ます。盲学校理療科への入学資格は、18歳以上の視覚障害者です。そのような中途
視覚障害の生徒は、自分自身に対する認識(セルフイメージ)が低いように思います
。というのは、失明すれば多くのことができなくなり、自己嫌悪に陥ってしまうから
です。私もそうでした。
 しかし、人間の価値はできるできないといった能力の価値の他に、何ができてもで
きなくても、人は誰もがかけがえのない高価で尊い存在であるという存在の価値につ
いて、ある書物で読んだことがあります。私は何かに失敗して自信を失うと、いつも
この言葉を思い出します。
 私は、目が見えなくなり自信をなくして入学してくる生徒にこのように訴えます。
「みなさんは、世界でたった一人のかけがえのない尊い存在です。できるできないと
いった能力だけにポイントを置くのではなく、かけがえのない尊い存在であることを
しっかりと自覚してください。そして、盲学校で学ぶ3年間で、鍼灸マッサージの知
識と技術、そして豊かな人間性を身につけ、再び社会で活躍され、また試練や困難で
悩んでいる人のよき助け手として活躍されることを私は信じて祈っています。」
 私は、毎年数回、滋賀県下の諸学校で講演の機会をいただきます。年ごとにテーマ
を決めていて、今年のテーマは、困難に出会った時どう生きるかというものです。内
容を年ごとに徐々に変えていますが、毎年必ず語る内容があります。それは、例え勉
強ができなくても、例えスポーツができなくても、生徒の皆さんはかけがえのない尊
い存在であるというメッセージです。講演後、各学校から生徒の感想が送られてきま
す。滋賀県下のある高校で講演した際、送られてきた感想を二つ紹介いたします。
「今までに、多くの講演を聴いてきましたが、なぜか今回の講演はいつもより心に残
っています。特に自分は世界にたった一人の尊いかけがえのない存在であるという言
葉が頭から離れません。講演をしてくださった宇野先生は目が見えなくなって本当に
つらかったのだと思います。今回の講演を通して、僕は勇気をもらいました。」
「私が一番心に残ったことは、私は世界に一人だけのかけがえのない尊い大切な存在
であるということです。どんなに苦しいことがあっても逃げてはいけないと思いまし
た。私は宇野さんのたくさんの言葉に心を打たれました。これから先どんなことがあ
るかわかりませんが試練を通して成長していきたいなと感じました。」
 人はどのような状態であっても、そのままをしっかり受け入れてもらいその存在を
認めてもらうことがどれほど大きな励ましになることでしょうか。故に私は生徒に、
がんばるようにとは言わないようにしています。いつも、よくがんばっているねと、
今の生徒の状態を肯定的に認めることを心がけています。

 ☆試練がもたらす宝☆
 今から11年前、滋賀県立盲学校理療科に病気により失明された佐藤幹雄さん(仮
名)が入学されました。佐藤さんは、私よりも少し年上の男性です。入学されて約1
ヶ月後の5月のゴールデンウイークを過ぎた頃でした。担任でありました私に話した
いことがあるというので、二人きりで話し合いを持ちました。佐藤さんは涙ながらに
話されました。
「今とてもつらく苦しいです。私は会社に勤めながら農業(稲作)をして生活してき
ました。自動車とカメラが好きで、休みになるとドライブに出かけ、景色のよい写真
を撮るのが好きでした。しかし、このように失明し、仕事も、車の運転も、大好きな
写真を撮ることもできない体になりました。何とかマッサージの資格を取るために入
学しましたが、これからの人生にもう何の楽しみもないのではないかと思うと、生き
ていく気持ちがわいてきません。できれば、このまま死んでしまいたいです。毎日、
自殺することばかりを考えています。」
 当時、私は35歳で、障害を持ってから10年が経過していました。私は、佐藤さ
んの話を聞きながら、私自身も失明した頃、毎晩布団の中で声を出して泣いていたこ
とがまるで昨日のことのように思い出され、気が付くと、私の目からも涙があふれて
いました。
「佐藤さんのお気持ちは、痛いほどよくわかります。死んでしまいたいと思われるの
も当然でしょう。私も、ほぼ同じ道を歩んできました。
 今が最もつらい時です。しかし、佐藤さんの悲しみの涙は、将来、必ず喜びの涙と
なります。しっかり希望を持っていただければうれしいです。というのは、佐藤さん
の将来にはこのつらい経験を通して、この悲しい経験があったが故に、実り豊かな人
生が用意されているからです。どうか短絡的な思いを持たないでください。どうか自
殺だけはしないでください。目が見えないことは大きな障害ではありますが、不幸に
なるわけではないのです。ヘレンケラーもあのように立派な生涯を送ったではありま
せんか。佐藤さんも必ずそのような人生を送ることができますよ。」
 その後、佐藤さんは徐々に元気になり、盲学校で3年間学び、マッサージの資格を
取得し、現在は老人施設で、利用者の方にマッサージとリハビリを行うなどのすばら
しい活躍をされています。
 その佐藤さんが2年前に、私を訪ねてくれ、楽しい語らいの時を持つことができま
した。
「佐藤さん。以前、共に涙を流しあって話をしたことが、なつかしいですね。今、こ
んなに佐藤さんが元気で、すばらしい活躍をされていることを、私はとてもうれしく
思います。本当によくがんばって生きてこられましたね。佐藤さんの前向きな生き方
に大変励まされますよ。」
「盲学校時代はお世話になりました。先生も私と同じ経験をされたということとその
ような中、しっかり生きていらっしゃる姿に、私は勇気づけられ、立ち直ることがで
きました。心から感謝しています。」
 この佐藤さんの言葉を聞いた時、私は目が見えなくなって、よかったなと思いまし
た。私がもし目の見える教師として、佐藤さんに接していたら、彼は私に心を開いて
くれただろうか。私ならそのような教師に心を開かなかったかもしれません。私も失
明の経験をしているが故に、佐藤さんの気持ちが理解でき、佐藤さんは私のような小
さき者に心を開いてくれたのではないかと思います。
 首の骨を折り、手も足も動かなくなった体で口に絵筆をくわえ絵画の創作活動をさ
れている星野富弘さんの言葉を思い出します。
「苦しみに会ったことは私にとって幸せでした。」
という言葉を・・・。
 現在、46歳の私の人生を振り返ってみても、つらく悲しかったことはいくつもあ
ります。しかし、今では、それらの経験は私の人生の大きな宝となっています。これ
からも色々なことがあると思いますが、どんな時も希望を持ち、1度限りの人生を心
豊かに生きていきたいと思います。というのは悲しみの涙は、いつの日か喜びの涙と
なるのですから。
 
 執筆年月 2010年7月
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