神社縁起や地域伝承から歴史の謎に迫る。九州から発信しています。
古代妄想。油獏の歴史異聞
弓の神祇。田川(鷹羽)の弓削大神
九州北半において、英彦山などに由来する高木神(高皇産霊神、高御産巣日神)の信仰があった。英彦山山頂域が高木神祭祀の旧地とされ、英彦山神領の48の大行事社は高木神社とされた。
そして、高木神に纏わる「鷹羽」の神紋を掲げる神社群が豊前域に密集し、鷹の巣や鷹取など「鷹」地名を散在させて、「鷹」の神祇が九州北半域を縦断する。
九州北半において、高木神祭祀と重なる「鷹」の神祇とは、古く、根源的な信仰ともみえる。鷹とは猛禽とされ、忌避された神の象徴。
「戦(いくさ)」の字が戦士の象形に由来するという。三本の鷹羽を頭に飾った人物をあらわす「単」が、左手に「戈(ほこ)」を持った象形とされる。
奈良の清水風遺跡出土の弥生中期の土器片には、頭に羽根飾りをつけた戦士が線刻され、右手に戈(ほこ)、左手に楯を持っていた。また、九州でも東脊振の瀬ノ尾遺跡などから、頭に羽根飾りをつけた戦士像のある土器片が出土している。
古代中国において、武人は冠に鷹の羽を挿す慣わしであったという。「鷹羽」は戦士の証(あかし)。「鷹」とは、たけだけしい戦闘集団を象徴したものであろうか。
また、古く、鷹の羽は矢羽根(やばね)の素材であった。そして、鷹狩りが武術とされ、それも「鷹羽」が勇猛の証とされる由縁であった。矢羽根を意匠とした鷹羽紋で有名なのは阿蘇神社である。阿蘇大宮司家や氏子である菊池氏などが鷹羽紋を用い、のちの時代、鷹羽紋を勇猛の象徴として、多くの武家が尚武的に用いている。
田川(たがわ)が古く、「鷹羽(たかは)」が転じたものとされ、彦山縁起などに田川は鷹羽郡と記される。その田川の中枢、後藤寺に春日神社が鎮座する。この社は豊前国、一国一社弓矢神とも称され、後藤寺の氏神として弓削太神、「豊櫛弓削遠祖高魂産霊命」を称する高木神(高魂産霊命)を祀る。
縁起には弓削連左京天神は高魂産霊命3世孫にて、地域の西、船尾山に天降った「天日鷲翔矢命(あめひわしかけや)」と御子の「長白羽命(ながしらは)」の子孫であるとされる。宝亀6年(775)に天日鷲翔矢命より31世孫の弓削連豊麿は、因縁のあった奈良、春日大社の分霊を勧請し、弓削太神の高木神と合わせ祀ったとされる。ゆえに春日神社を称したという。
「弓削氏(ゆげ)」はその名の通り、弓を製作する弓削部を統率した氏族で物部氏と関係が深い。物部守屋が弓削大連を称して以降、その子孫が弓削氏を称したともいわれ、その物部氏族や高木神(高魂産霊命)の後裔、天日鷲翔矢命の子孫を称した弓削氏族などがあるという。
後藤寺は古く、弓削田の庄とも呼ばれ、現在も後藤寺の西に「弓削田」地名を残す。また、春日神社縁起にある天日鷲翔矢命31世孫の「弓削連豊麿」とは豊前守であったという。古く、この地に高木神を弓削遠祖として祀ったのはその弓削氏であった。
前記の弓削大連を称した物部守屋の裔で、弓削氏を称した氏人の内に弓削道鏡とその弟、弓削浄人が在った。奈良期、道鏡が宇佐八幡宮神託事件を起こした時、弟の弓削浄人は大宰帥であったという。この時代、弓削氏は九州北半において大きな力をもっていたようだ。
遠賀川流域や英彦山の高木神祭祀とは、高木神を祖ともするこの弓削氏あたりに由来するのであろうか。
田川の北に伊方(いかた)の里がある。この域の伝承では、仲哀天皇の熊襲征伐において、天皇はこの里の民が弓矢に長じているのを知り、天皇軍の先鋒としたという。その活躍により、毎年、射手五人が国役に従がったという。ゆえに「射方(伊方、いかた)」の地と呼ばれたという。当に、田川は弓矢に纏わる地であった。(了)
九州北半、遠賀川水系において、鷹に纏わる神社群や鷹の地名を散在させる「鷹」の神祇とは、高木神祭祀に由来する軍事(兵杖)氏族の痕跡。この域の古層には神武東征以前に大和に在ったとされる饒速日命の王権や、高天原神話に投影された太古の謎が秘められる。
« 阿蘇の蹴破り... | 剣(つるぎ)... » |