一期一会

今日もいい日

優しいね

2019年07月23日 | 母の日記
優しい母

母の顔をみるなり私の一言は「あー、疲れた」
母は「何して疲れたって?」とか細い声で聞く
私は「起きてから準備して銀行に行ってそれから歯医者に行って
それから買い物して帰ってきてからここに来たからクタクタになってしまった」と答える
そして「ちょっと座ってから動くね」と腰を下ろした
それでも体を縦にしていられなくて母のベットに寄りかかって
「ちょっとここに寄りかからせて」そして「あー、このまま眠りたい」と目を閉じたら
母「ここさ一緒に入って横になれ」ってタオルケットをめくっている
歳を取ると子供に帰るというけれど、心の中はちゃんと私の母です
「一緒に寝ていたら、あい~この娘なにやってんだって思われてしまうべ
ちょっと頭をつけているだけで十分だよ」と言ったら
母「もう一つ小さなベット持ってこい、広げれば横になれるのなんかあるべさ」
私「うん、新屋のベランダに置いてあったようなサマーベットが売っているけど・・・
そんなの持ってくれば大げさでしょ、椅子に足上げて座って頭を母さんのベットに乗せればそれでいいよ」
母「んだかぁー、このベット狭めもんなぁー、もう少しひれがったらいいのにな」
母の顔を見るとほっとするのか私は疲れていなくても眠くなるのである
そしてこの会話を何度も繰り返して母の優しさを味わっているのです


いい顔で

2019年05月31日 | 母の日記
いい顔

ある百二歳のおばあさんが言った
「私はね、三つの事を心して生きているの
一つ、みんなと仲良くする
二つ、他人の悪口を言わない
三つ、なんでもありがたいと思う」と言ってニコッと笑った
それを聞いた私は「私もそのように生きたい」と言ったんだ
そしたら満面の笑みでくりくりした眼で私を見たんだよ

それを母に話したら「その通りだ、立派なおばあさんだこと、百二歳!」
年齢が立派?いや話の中身が立派と言ったのだよね
私は「母さんだってそうやって生きてきたでしょ、悪口を聞いたことが無かったよ
母さんはもう一つ「他人(ひと)には親切にするもんだ」ってよく言ってたよね」と言った
母は「んだよ、悪口言えば必ず聞こえるもんだから、そして自分も言われるから
言わないほうがいいんだ
親切にして怒られる事はないべ、いつ自分も助けてもらうかわからないから
意地悪しないでやってあげれることはやってあげればいいんだ」と言った
私「そうだね、そうやって生きていればいい顔になるのかもしれない」
母「人相は心を映しているから顔をみればわかるもんなんだ
 意地悪な人はそんな顔になっていくんだや」
私「母さんはいい顔しているよ、齢とって痩せてしまったけれどいいお顔です」
母はニコッとして「んだかぁ~、せばいがった」
私「母さんは可愛いお祖母ちゃんなんだってよ」
母「へー、誰が言うの?」
嫌われないで"可愛いお祖母ちゃん"と言ってもらえる母は自慢の母です
私もいい顔で人生を歩みたい

たわいもない会話

2019年05月29日 | 母の日記
母との会話

私「友達がね、えきまえのマンションにいるんだ」
母「へー、安い事」
 んっ、安い?・・・えきまえの、私「あっ、いちまんえんのマンションって聞こえた?」
母「うん、うん、いちまんえんのマンションってそんなに安くてどんな所っ?て思った」
私「違うよ、駅前のマンションって言ったの」
母「そうか、はっきり え・き・ま・え って言え」
 言ったつもりだけれどなぁー
あっ、今私の前歯が折れて一本歯が無いから空気が漏れて言えなかったのかも
私「歯が一本無いというのは不便なものだね、食べ物が隙間から出ていくし
 それを気にすると舌をかじってしまうし、さしすせそ は空気が抜けて上手くしゃべれないし
 母さんは入れ歯だからもっと不便なんだろうな」
母「んだなあー、食べたいものもかじれないし、だんだん食べたくなくなっていく」
私「何食べたい?」
母「寝てばっかりいるから食欲ねっ」
私「そう言わないで、何食べたい?」
母「・・・りんご」
今は時期じゃないからなぁー
そんなことを話しながら母の記録ノートを書いていたら
黒がつかなくなった
「あれっ、黒がつかなくなったよ」と言ったら
母「インクが無くなったんでねエーの」
回して開けてみたらインクがゼロ、「その通り、インクがゼロでした」
母「んだべぇー、新しく買ってこい」
私「もったいないよ、これは四色ペンで他の三色はつくから黒だけだもの
 替え芯買ってあるから取り替えまーす」と言ったら
母「へえー、辛抱だ事」って笑っていた
そういう母だって実家を片付けていたら替え芯がありましたよ(* ̄▽ ̄)

母と過ごす

2019年05月27日 | 母の日記
何にでも砂糖

今日のトマトが未熟だったので酸っぱそうだから砂糖をかけた
母に「トマトに砂糖をかけてきたから美味しいよ」と言って食べさせた
「うん、甘くて美味しいよ」と母
私「我が家ってトマトに砂糖をかけていたよね、納豆にも砂糖を少し入れていたし
 卵巻きは凄く甘かった、ポテトサラダも甘かったよね」
母「んだな、全部甘くしていたのは父さんが甘口だったからだ
 甘ければ「うめ、うめ」って食べるからだんだんと砂糖が多くなったんだべ」
私「そういえば、父さんってご飯に砂糖かけていたときがあった
 おはぎの残ったあんこもかけていたよね」
母「そういえばそうだ、あんこもなますも砂糖いっぱい入れて作っていたもんだ」
私「父さんのせいで母さんが糖尿病になったんだかもね、一緒に砂糖食べてさっ」
母、目をきりっとさせて「んだ、糖尿病はみんな父さんのせいだ、砂糖とストレスと」
私「でもさっ、53歳から糖尿病になってインシュリン注射もやって、よくこの歳まで
 生きたよね、父さんも89歳まで生きたから私もそれくらいまでは生きたいよ」
母「生きれるべ、もっと長生きできるべさ」と言ってくれた
私「そう願いたいよ、糖尿病にはなりたくないから気を付けよーっと」
母「あんまり砂糖使うな」
私「そうする、でも母さんはもう気にせずこのトマト食べてね」と口へ持って行く
口の前に持ってこられると自然に口を開けてしまう母
そして「あといらないってー、また口に入れたぁー、もうお終い、腹いっぱいだってー」
しかめっ面をしながらもぐもぐしている
小食になってしまった母、なんとかおしゃべりしながらごまかしながら食べさせようとする私
そして「最後の一口だから」って口に運ぶ
母「最期の一口、何回あるんだ!」
はっはっはっ、笑ってごまかして終わりにする
「あー、ご飯を食べさせるのも一苦労だ」と言ったら
母「お前も小さいときゲタゲタ笑って逃げ回ってご飯食べさせるのに一苦労だったよ」
とお返しのお言葉
小さい時の世話になったお礼をしているんだなぁと思った

「寝る前に顔を拭いてあげるね」と言って暖かいタオルを顔にあててしばらく蒸して
「ばぁー」って言い拭きながらタオルを下へ
そしたら母がケタケタ笑って「こら、からかって~」
私「そうだよ、子供の頃のお返しをしているんだもん、気持ちよかったべ?」
母「うん、」キョロキョロしているから
私「どうしたの?」
母「顔に何か塗る」
私「はいはい、クリーム塗ってあげる」
母「チョンチョンってつけて」
チョンチョンとつけて塗っていたら
母「ヒャー、冷たい、あまり強くこするな! 顔の皮痛てべ」
私「ごめんごめん、顔の皮も歳とったから薄くなりましたねぇー
  あー、ちっちゃな顔だこと、塗るところ狭いよ」
母「昔っから顔はちぃちゃいんだ」
全部終わって「はい美人さん一丁上がり」と言ったらニヤッと笑った


私の母

2019年05月14日 | 母の日記
私の気持ちが弱くて母の日記を書けなかったけれど

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好きなことしてのんびりと

母が骨折して寝たきりになって一年と40日になりました
一年前を思い出すと辛かった
今はとても楽になり、ゆっくりお風呂も入れるし、買い物にも行ける、そして眠れています
検査入院時、ベットから降りる時に骨折してそれから毎日母のいろんな事を
ノートに書いています
痛いと言ってたこと、飲んだ薬、食べたもの、血糖値などなど
カルテの如く記しています
見返す時はあるのだろうか、私と母がその時一緒にいたという記録のようなものですが
大切な記録です

家事が出来なくなり、認知症もみられインシュリン注射の管理が出来なくて一緒に暮らして七年目です
その間、私は旅行もせず好きなことが出来なかった
限られた時間と空間の中で我慢して過ごしたと思っていました
でも最近違う考えになりました
これからどのような生活をして生きていきたいか?と考えたときに
好きなことをして穏やかに健康でのんびり暮らしたいと思いました
好きなことの中には旅行も入りますが
今までも穏やかにのんびり好きなことをして暮らしていたんだと思いました
母と泊りがけでお祭りや催し物を見に行ったり、道の駅巡りお買い物ツアーは
一か月に二回は行っていたし、お花が咲いている場所へも時々出かけていた
それより母とずーっと一緒に居れたことが一番好きなことだったと思う
こんな話を母にしたらニコッと笑ってくれた
「だから母さん、もっと長く生きていてね」と言ったら「うん」と答えた
「点滴が出来なくなったから、変わりに水をたくさん飲んでね」と言ったら
また「うん」と答えてカップに手を伸べた
私より体重が多かった母は、半分の大きさになってしまいました
その手を見て「あー、痩せてしまったなぁー」と思っている母がいます
愚痴や困ったことやマイナス思考を口に出さない母、立派で誇らしい母です

母の日記より

からすが帰る

2019年03月30日 | 母の日記
からすが帰る

夕暮れ時になるとカラスが窓から見えるこんもりした秋田城の跡の林に帰っていく
それを見ながら
私「今日もカラスが帰っていくよ、ほらほら、今日は大群だね」
母「んだな、ちゃんと時間わかって帰っていくんたべな
  みんなで連絡して列組んで並んで行ってるんだやな、きっと」
私「さあー、帰るぞーってね」
母「隊長っこ居て号令かけていると思うよ」
私「あっ、大きいカラスが一羽帰って行った、これで最後かな」
母「きっとそれが隊長だ、最後にみんな帰ったか点検して飛んで行ったんだべ
  鳥の世界の方がまとまりあるなっ」
私「そうだね、さっきのが隊長だきっと、ぐるぐる大回りしながら飛んで行ったもの」
昨日より一分遅くなり、また明日は一分遅くなる
私「夕日が綺麗だよ、見えるか?」
母「見える見える、空が赤くなってきたのが見えるよ、明日は天気がいいな」
私「前が護国神社の小山で左が新屋ね、右が土崎の港だから右に夕日が落ちているんだよ」
母「わかるって、右側が赤いもの西だってわかるよ」
私「あっそう」
少し間をあけてから
私「弟が中学生の頃、毎日大森山に帰っていくカラスの数を家の窓から数えて記録していたよね
  そして理科研究なんとかに発表して賞をもらったんだよね」と言ったら
母が笑みを浮かべて「んだ、あの子は根気があるからな、新聞にも載ったよな」
私はカラスが帰るのを見るといつもそのことを思い出す
母が一番好きな話題、弟の自慢話で日が暮れた

柿をたべた

2018年09月28日 | 母の日記
果物は大好き

骨折してから食欲が無い
お腹が減ったという信号が脳から出ていないのか?と思ってしまう
口に運んでなんとか食べさせているが以前に比べると半分以下なのでどんどん痩せていく
今日は筋子が食べたいというので、海老の佃煮と筋子と里芋と鶏肉のそぼろ煮
あれほど好きだった里芋が口の中で広がって落ちていかないから要らないと言う
あー、がっかり、手間がかかったのにぃー
食後に「柿食べる?」と聞いたら「うん」の返事
一口大に切って「自分でゆっくりテレビ見ながら食べて」と置いたら
全部食べた
「母さんは柿好きなの?」と聞いたら「んだな、美味しいもの」と答えた
そして「果物だば何でも大好き」と言った
「じゃあ一番好きは?」
「んだなぁー、林檎」
「次は?」
「梨だべな」
私は「へー、なんで梨なの?」
「爺が土崎に越してきたときに300本も梨の木のある土地を買って梨作っていたからだべな」
私は「300本もあったのかぁー、じゃあ広かったんだね」というと
「んだよ、田六枚分もあったべさっ、その他に風よけの松林もあったから
あそこらへん全部よ」
あー、今あったら凄いお金持ちだったのに
実家を継いだ姉が次々に売ってしまって今は家が建っているのみ
話を戻して「あと好きなのは?苺も好きだよね」と言ったら
「んだ、梨の木の下に苺いっぱい植えていたからなっ、でも家族に食べさせないで
みんなどこかへ持って行ってしまって、売ったのか、配ったのかわからないけど
爺の好きなようにしていた、なして家族に腹いっぱい食べさせなかったんだべなぁ」と
昔々を思い出していた
それから矢継ぎ早にその当時の話をした
昔の事はちゃんと頭の中の引き出しに入っているようだ
「あまり頭を使うと眠れなくなるよ」ほどほどで布団をかけて眠るように促した
そしたら「あと、寝れってかっ」と言った
「・・・・・そろそろね」返す言葉がない
母に一本!

明日りんごを買ってきましょうね
おやすみ

写真をもらってきました

2018年08月29日 | 母の日記
二人が写っている写真をもらえた

昨日門間さんに写真をもらいに行って来ました
写真を見つけた時。撮った人が門間という人だと母に言ったら
「門間だばきっと飯田川の人だや」と言ってた
私は「秋田市泉って書いてあるから泉だってぇー、門間だば全部飯田川ということもないべさ」と否定していました
それでも母は納得せず「聞いてみれ、きっと生まれは飯田川って言うから」と言ってました
今日会って「門間さんはもしかして飯田川の生まれですか?」と聞いたら
「はい、どうしてわかりましたか?」
「母がきっとそうだといってまして」
「えっ、お母様の生まれは?」
「渡邊で、飯田川下虻川です」
「あらー、そうですかぁ」
ここから話が盛り上がり町対抗の大運動会をやった公園、そこには大きな大きな桜の樹があった事
それが今は切られてなくなってしまい、公園も無くなってしまった事
大きな堤があったことなどなど、母とそっち方面一周の旅に出るといつも聞かされていた事を
裏付けてくれるように話が合いました
最後に「お母さんに会ってみたいなぁー飯田川の昔話をしてみたかったなぁー」
と言っていただきありがたく思いました
今は車いすにも乗れなくなってしまい、そんな時にこの写真を見て
確かに母とこんな時間もあったと裏付けてもらった気がします
私も写真が好きで、でも応募するまでもなくただ好きで
写真を撮りにいって行き交う人は、どこかしら身近に思えてあいさつを交わしたりしています
他の写真も見せてもらい、本格的に写真を撮っている人に会えてとても嬉しい一日になりました
ご縁というのはあるものですね、この縁を大切にしたいと思いました

家に戻り母に写真を見せて
「ほう、よく撮れているなぁ、んだ、おれたちだぁー」ってしばらく見ていました
私「母さんが門間だば飯田川って言ってたでしょ」
母「んだよ、聞いてみたか」
私「ピンポーン、大当たりぃ~、飯田川のご夫婦だった」
母「やっぱりなぁーーー、んだったべぇ」と勝ち誇った顔
私「母さんの苗字出身当ても正しいんだと分かったよ」
母「んだや、まだ菊地の地も妹川だし・・・・」
あー、長くなりそうだ
でも今日は聞いてあげる
私がこの写真を欲しがっていた時一生懸命考えてくれたものね(*^o^*)

食欲のない母

2018年08月28日 | 母の日記
骨折前の三分の一になってしまった食事量
どんどん痩せていて、ともすれば一日一回しか食べれない日もある
お粥にしようか尋ねるが、嫌だというので柔らかく炊いている
唾液量も減っているようで飲み込むまでよく噛んで時間がかかる
これが歳をとるということなのか・・・・
とても複雑な気持ちになってしまう
無理して食べさせなくても、母の良いようにしてあげる方がいいのか
なるべく健康的な体に近づけるようしてあげるのがいいのか
母は「もう歳なんだから食べれなくなって死ぬのさ」と言うけれど
ときどき腕に手を回して「あー、細くなったなぁー」と呟く
私が「ちゃんとご飯食べようよ、そしたらまた肉がついてくるからさ」と言うと
「寝てばかりいるし、運動も出来ないし、腹も減らないし、こうして痩せていくんだって」
と諦めた言葉を口にする
それを目の当たりにしながら見過ごす私は気持ちの整理が難しい
血糖値を管理するのは簡単だけれど
痩せて行くのを止めることが出来ない
介護の辛さは体力だけではなく精神的な方が大きいと最近思う
すべての人に親がいるのだから、すべての人が通る道
人類はこうして生と死を受け止め、代々生き繋いできたのだろうと思う
先人の限りない忍耐と努力は偉大だと感じる


新聞でみつけた

2018年08月17日 | 母の日記
日付が変わってから新聞を読んでいたら
「あれっ、これ私?あっ、車いすは母さん?」
秋田魁新聞の「女性だけの紙上写真展」の入選写真に写っているのは
私たち親子?
「母さん母さんこれ見てみて」と新聞紙を持って行ったら
「何?誰が?」「ここに私たちが写っているのよ」
「誰が写したのよ?」
「知らない人が写真を撮って、その写真を応募したら入選して新聞に載ったの」
と説明した
「へーーー、どれ、虫眼鏡持って来い、電気大きいの点けてけれ」ってじーっと見て
「ホントだ、間違いなくおれたちだなぁ、いつだ?」と聞くから
「2016年の角館に行った時に道路の反対側から撮ったんだべな
この写真欲しいよぉ、この人探してデーターもらえないか聞いてみる」と言うと
「電話帳で探せぃ」と母
今時電話帳(*^▽^*)、今は載せていない人が多いんだよって言っているのに
「旦那さんの名前が分からないと見つからないべなぁー」と
マイペースに母なりに探し方を模索している
「もういいから、私が探してみるから寝なさい」と言って電気を消した
なのに、ついには「門間は飯田川虻川や飯塚に多いからそっちの人だ」
などと頭を使っていてなかなか眠れないでいる
「明日魁に聞くから寝なさい」と言っても
「いい写真だもの欲しいんだべ、その人みつかればいいなっ」ってしばらく考えていたようだ
その写真は



この日、私が母を撮った写真はありますが、二人が写っているのは無いのです
ましてやこんな色合いの美しい写真は記念に欲しい~
偶然に撮って下さった門間さんに感謝です

誰か秋田市泉の門間栄子さんを知りませんか?
まず魁新聞に電話してみます