Letter#

言葉を紡いで

一度ここで

2007年12月20日 23時11分41秒 | Weblog
一時的に更新を切ります。
すいません。
近頃何かを言葉にすることが怖いのです。
自分だけの表現とか言い回しで何かを伝えていくというのが、私にとって最大の武器であり長所ともいえるものでした。
しかしそれも錆付いてきたと感じるのです。
しばらく考えてみて、それからまたここに自分の思いを綴れるようにしたいと思うのです。
中途半端なこと、迷いとかためらいとかをもった言葉でほろ苦い思いはしたくないのです。
それではみなさん、よいお年を。

授業中

2007年12月07日 13時12分28秒 | Weblog
今、学校のPCからアクセスしてます。
ゆうべは早く寝たこともあって今日は体調がいいです。
むしろ夕方にあげたテンションがいまだに落ちないで舞い上がっています。
まぁたまには悪くないと思うわけなのです。

授業始まっちゃいました。
テスト期間なのでしばらく更新はできそうもありません。

呼吸

2007年12月06日 20時48分57秒 | Weblog
ゆうべお風呂で考えました。
なんで死ぬんだろうか。
いや正確にはなんで生きるんだろうか、です。
ただ対をなす生と死。
生きる意味とか生きることにばかりにだけ重点をおいてはいけないと思うんですね。
どちらにも同じように同じだけの価値がある。
そう考えた私は誰一人として経験したことのない死を考えてみることにしました。
死は誰にとっても経験することのできないこと。
中国の言葉にもあるように『生を知らないで死を理解する』ことは不可能と思われるでしょう。
でもなんで死ぬのか。
その命題にあえて首を突っ込んでいこうと思ったのです。
数学で言うところの積分で、裏を返せば死を理解することができれば生でさえ理解できるかのように思われます。
もちろん生と死は相対的です。
ここできちんと整理。あくまで命題として経験中の生と未経験の死では理解するのには未経験のほうが難しいというわけであって、生と死の重さは等しい、ということを前提に考えています。
そもそも死とは何か。
たとえば植物状態の人間が生きているのかといわれたら、生物としての意識は存在している。
しかし心はどうだ。
心がないことを死としてしまうのは容易だ。ただし理屈や科学だけで物事を考えてしまうことも同様に稚拙となってしまう。
もちろん肉体が生前よりも強固なものとなったとしても一度死んだものはよみがえらない。
まさにそこから魂や幽霊の概念が生まれているかのように思われる。
それでは命とは目にみえない非常に抽象的で一度肉体から抜けたら戻ることのできない存在なのか。
そしてそれが特定の肉体の中にいることを生、そしてそこから抜けることを死と呼ぶのだろうか。
しかし仮にもしそれが事実だとしてもその答えでは何も満足しないわけで、
もっと精神的なところに論点をおいてみようと思ったんですね。

で、思いついたのが、
ざぶんです。
風呂桶に思い切り。
死ぬギリギリまで息を止めてみたんです。
するとどうでしょう。

非常に苦しかったんです。














論理じゃありません。
あくまで精神的な生と死を感じようと思ったんです。
音もない、静かな水の中で感じたこと。
それは苦しい、ということだけです。
間違いなく身体は空気を求めていて、苦しいというのはこのままではまずいという危険信号で、
紛れもなくその瞬間に『生きたい』と感じたのです。

死ぬ時に、苦しくないと思うときが来るのだろうか。
もしかしたら生きている間に苦しいと感じることがあるやもしれない。
それはこれ以上生きることは危険だと知らせる危険信号なんだと思います。
だからこそ
生きていて、死を感じると怖くて、苦しくて逃げたくなる感情を感じる今は生きるべきなんだと思うんです。
精神的にですよ。
今は死ぬべきじゃないと思うんです。
生と死は相対的だから、
天秤みたいにバランスをキチンととっているんでしょう。
今は息を吸うのをやめたいと思いませんから。

いのち

2007年12月02日 17時25分42秒 | Weblog
たとえば今日私が祖父と一緒にお墓参りにいったこと。
夕飯が大好きなもんじゃ焼きに決まったこと。
守屋氏が逮捕されたこと。
仕事で自分の企画がうまくいったこと。
石油の値段がまた上がったこと。
サッカーで鹿島アントラーズが優勝したこと。
アジアの小さな国の小さな街に新しい命が生まれたこと。
10歳以下の子供も戦争に参加させられていること。
初めてテストで100点をとったこと。
お母さんに褒められたこと。
ふと見上げた空が、
青く澄んでいたこと。
今、という時間の間にどれくらいの出来事がこの星の上で起きているのでしょう。
気難しい物理学的な空間理論はとりあいずおいておくとして『今』この瞬間には数え切れないほど様々な『出来事』があります。
特別な意味なんてなくて、そこに深い理由があるわけでもありません。
ただ今この瞬間だってこうして生きているということが既に意味で理由で、素晴らしいのです。
私達は生まれてきた。
よくも悪くもそれだけです。
やがては死にゆく命として、人間は歩み続けていくものです。
蝉が7年の幼虫としての期間を地中で眠り続け、目覚めて空に舞うことのできる期間はわずか7日。そしてまた地に還る。
輝く時はたったの7日。
死を前にして、7日の間をいかにして生きるかだと思うんです。
繰り返すことなんてもう二度とない命だからこそ今を頑張れる。
もう二度と返ってこない今だからこそ今生きていることがたいせつなんですね。
さてどんな人生を生きてみようかと想像するだけで楽しくなってくるようです。

いつの時代も変わらないもの

2007年11月20日 20時06分59秒 | Weblog
すみません暫くパソコンの使えない状態が続きました。

こないだALWAYSを見ました。
ALWAYSは日本語でいつもとかそういう意味ですね。
サブタイトルが三丁目の夕日ということで多分これはかけているんだと思います。
ALWAYSといういつの時代も変わらないものとはこの映画の中にあるような人と人の思いやりの形であり、生きる希望、明日に望む未来なんかをもった人たちが頑張るということだと思うんですね。
それと3丁目の夕日、あの日街角で見た綺麗な夕日とそういう人の心の美しさは同じように変わらないもの『ALWAYS』なんだということを感じました。
最近の世の中ではどうでしょうか。
政治家は汚職をする。選挙にも行かない若者が何でも国家のせいにする。人々は矛盾を孕んだまま突き進みついに心をほっぽりだし金儲けを人生と考える見方まででてきました。
そして今まさに、私達は私達だけの幸福のために自分達以外を排除して生きる悲劇的な時代に入ろうとしているのです。
冷蔵庫やテレビ、エアコンにパソコンという痒いところに手が届く大変便利な道具を手に入れたことの代償が人の心だとするのなら、
つきつめていってしまえば
私達は便利になるべきではなかったとさえ思うときがあるのです。
いつの時代だって変わらないで美しいもの。
それは戦争に敗れ、貧しかった頃の日本にあったのです。
これからの時代は日進月歩、大きく変わっていくものだと思います。
よくなるにせよ悪くなるにせよ、肝心なのは自分がどう動くかです。
私はこの便利さと引き換えに失ってしまったものの大切さを忘れないようにしていこうと思っています。
いつの時代でも変わらないもの。
それは今こそ必要とされるべきものだと思うのです。

ネオン

2007年11月16日 20時54分04秒 | Weblog
熱帯魚の水槽を大改造しました。
まずアルビノモーリーを2匹加えたことと水槽内を3つに区分けしました。
水は共有していますがそれぞれの世界には入り込めないようになっています。
一番狭いところにはベタを冬の間だけいれています。夏になったらグラスにいれておくのでそれまでヒーターの入った水槽にいれることにしました。
中くらいのところではグッピーを繁殖させようと考えて完全に隔離させました。
それでグッピーを継ぎ足したのですが、買ってきた分と今までいた分を足しても若干多いんですね。
熱帯魚屋のちょっと見た目はイカツイおっちゃんにホントに感謝です。
グッピーって一匹250円もするんですよ。
それで残った部分には今までどおり、エンゼルフィッシュやネオンテトラを共存させることにしました。
今まではしまっていた土管をいれて大きな巻貝にアルビナスを植える形をとりまして、なかなかバランスがいい感じです。
こうなると誰かにみせたくてたまらなくなるのです。

ため息色

2007年11月15日 23時01分53秒 | Weblog
今日は委員会があったのですが、いつもよりも長引いて残って仕事をすることにしました。
仕事が好きというのは確かにありますが、正直これ以上忙しくなったらそれだけではやっていけないなぁなんて思いました。
実際に今日は終わったあとのため息がえらく重たかったのですが、
家に帰ってただいまといった時、あぁ両親が今日まで頑張ってこられた理由がなんとなくわかった気がしました。
いや私の家庭だけでなく、戦後の日本の凄まじい発展を支えたのもひょっとしたら、なんて思ったのです。
それは誰もいない家に対するただいまであったにせよ、私の場合もそうでありましたし、疲れとかしんどさとかは関係なく思えるのです。

西ニ沈ム

2007年11月13日 18時21分23秒 | Weblog
世界の人間をいい人と悪い人にわけるとしたら俺は悪い人の類だ。
それはいい人を僻んだり妬んだり恨んだりするからだ。
いい人、悪い人にそれぞれいろんな定義はあると思う。
でも俺の中ではおよそそんなところ。
いい人でない人は悪い人であって、いい人とは全部自分の問題として捉えられる人のこと。
たとえば勉強ができなくたってそれを周りの点数がいいことにしないで自分の勉強のせいにできる。
そんな素晴らしくいい人になれたらと思うことが俺にはある。
そして既にその時点で俺は悪い人枠に自らゲットインしているんだ。
まるで悪循環。
そんなに自分を悪く評価したいわけじゃない。
でもふと顔を上げたとき、人と比べて本当によくできていると、これだけが自分と呼べるものだと思えるものなんてありはしない。
というよりも思いたくない。
世界は広いから自分の知らないところに自分より勝っているものがいるんだって決め付けている。
ほらね。
また悪い人枠にゲットイン。

世の中そんなにいいもんじゃないと思う。
いいことと悪いことにわけたらやっぱり悪いことのほうが多い。
らしい。
現実を知ってそうな顔した人は大抵そう言う。
だからいい人と悪い人なんてのも概して悪い人の方が多いものなんだろう。
あぁ俺には仲間がたくさんいるんだなんて思うからもっと悪い人枠にゲットイン。

冗談っぽく書いているけど俺は物事をなんでも相対的に捉えてしまう。
その結果、自分というものを伸ばせないでいる。
このままじゃいけない、このままじゃいけないと思いつつ毎日が同じことの繰り返しでまた堕ちていく。
あぁいい人にならなきゃっていう足かせも一向に取れる気配はない。
だからこそ何より自分が憎いんだ。
こんなに俯瞰で見てしまう自分が恨めしい。
でもそんないい人であったりもするんだと思ったりもする悪い人枠にゲットイン。

一番長い日

2007年11月08日 18時50分19秒 | Weblog
ゆうべ奇妙な夢を見ました。
私が今まで出会ってきた人々が仲良く話しているのです。
でもその中に自分はいなくて天井の辺りからふわふわとその光景を見ているのです。
それで何か行動を起こす前に目覚めたのですが、どんよりした今朝の曇り空にはどうにも溶けづらくどことなく今日は憂鬱な一日でした。

私は大勢の中にいると自分というのがどこにいるかわからなくなる錯覚を起こすことがしばしばあるのです。
なんだか今自分が笑っているのは自分だから笑っているのは集団の行動として笑っているのかわからなくなって、怖くなります。
自分の弱いところをみるのは正直なところ嫌です。
できることなら目を瞑って避けたいものです。
ただそれでは本質的に問題を解決することはできず、その秘密を隠し通していけるほど強い人間ではありたくないのです。
たった一人どこかに消えていってしまうことに怯えていることは事実であり私の弱さです。
ですから自らの弱さを拒絶するのではなく自分から愛していきたいと思うのです。
覚束無い夢がまだ胸に滞っているのも悪くないのです。

私が見られる180度の景色

2007年11月06日 20時11分41秒 | Weblog
時間というものは誰にとっても等しく過ぎていくものです。
今自分が見ているおよそ180度の景色のほかに見えないところでも時間は過ぎてゆき、いろんな人がその中で人生という長い旅路を歩んでいます。
だから道行く人にはみなそれぞれ違った感情があるんですね。
悲しみ、怒り、憎しみ、憂い、喜び、驚き、温もり、ときめき。
言葉にできない中間層を考えるとそれこそたくさんの感情をみな胸のうちに潜めて過ごしているんですね。
そしてその感情は一人の人間が体験したたくさんの出来事から生まれます。
ですからたくさんの人たちにそれぞれにとってのたくさんの出来事とは半端ではない数の出来事が世の中で渦巻いているというわけです。
今、私達が見られるおよそ180度の景色だけでは世界の広さはどんな言葉に代えても測ることができないのです。

すなわち自分の知らないところでいろんなことが起きていて、自分の知らないところで人は傷ついていくのです。
突然来た一通のメールを見て衝撃が走りました。
私の友人の親が亡くなったそうです。
小さい頃から面識があっただけにその突然の出来事には驚きが隠し切れませんでした。
きけば今年の夏から調子が悪かったそうです。
あぁ知らないところでそんなことがあったのか、とその次には言葉にならない想いが込み上げてくるのです。

私達がこの目で見ることのできる世界はおよそたったの180度。
あと他の世界の全部が知らない世界。
今もいろんなところでいろんなことが起きています。
全部知ることなんてやっぱりできません。
私達人間は本当に小さな存在なんだと思います。
だからこそみんなで手を取り合って支えあって誰も一人にしてはいけないと思うんです。
少しでも多くの悲しみに気づけるように。

ミート

2007年11月05日 19時14分57秒 | Weblog
最近ブログさぼりがちですね。
本当はすごいたくさん書きたいことがあったんですね。
でもまぁ諸事情によりPCの電源すらつけることができずにお預けを食らってたのです。
そうこうしている間に書きたいことなんてすっかり忘れてしまったんですね。
仕方がないので今日は最近の自分のことに関して書きたいと思います。


秋も深まる季節のせいか近頃一人でいるといろいろと考え事をしてしまうんです。
古代ギリシャ人が閑暇によって哲学や弁論術を発達させたのと同じですね。
それで考えることってのは大抵ロクでもないことで考えたらすぐに忘れてしまうなんていうことばかりではっきりいって時間の無駄です。
とはいえそんな中でも私が考えていることは自分とは何かの延長線上にあるものなのです。
もちろん自分のエゴをある程度自覚はしているんですね。
好きとか嫌いとか、理屈どうこうでない自分の感じ方もわかっているつもりではあります。
ただそれがどう他人に映って見えるのかが気になるんですね。
つまり『自分』だけでなく『他人から見た自分』が気になるわけです。
たとえば私は嫌だ嫌だばかりで何もしない人が嫌いです。
『嫌だ』をじゃあどうしたら『嫌じゃない』『好き』に変えられるか。
そうやって考えてよりよくしていかなきゃいけないと思うんですね。
もちろんずっとそれをし続けるほど人間は強くないですし、時に嫌だ嫌だで逃げることも人間にとって必要だと思います。
そうではなくて『嫌だ』を根本的に自分の中にとどめてしまうことが不健全な発想だって思うんですよ。
嫌だって思うことさえいわばモチベーションにしてしまって弾き返す。
野球にたとえれば速球ほど軽く叩いただけで遠くに飛んでいくわけですから、
逆境にこそ強く生きられる人でありたいと思うんです。
つまり自分が速球にビビって打てない…なんていうようになりたくないんですね。
あまり自分の考えは押し付けるべきではないとは思いますが、私は他人でも時々ダメ要素ばかり連ねてバットを振ろうともしない人をみるとイラっとくるんですね。
よくいえば熱いんです。
目を瞑ったっていい。力任せでもいい。
思い切り振ってみてまずあててみるんだ!!っていいたくなっちゃうんです。
悪くいえばお節介だしいちいちうっさいおじさんのようでもあります。
はい、ここなんです。
よくもわるくも、それでさえ自分でしか考えようにないじゃないです。
この心情はいいのか悪いのか・・・。
まぁとりあいず人それぞれだと思います。
だからそれは結局悩んでいるうちは客観的にしかみられないんですよ。
主観的な意見をたくさんききたいんですよね。
特にきいてみたい人だっているわけですからその辺りを考えているわけです。
それが自分の描いている自分と異なっていたとして性格を変える必要はあるのかな?って思うんです。
まぁ本音を言ってしまえば一人の人にさえわかってもらえたらいいという気持ちもあるのですが、それだけじゃいけないこともありますからね。
それは極論であり、つまるところ孤独ですから。
一人にさえわかってくれればいい、それは限りなく妥協です。
自分の全部が全部そんなのはバットを振らないのと同じです。
コアになればそれはそれでいいと思います。
こういう自分でありたい。でも自分が思っているこういう自分を演じるとそれは他人からしてみると自分が描いているものとは違うというなら他人にとって自分が描いているものを感じられる自分を演じるべきなのか。
いやはや悩むわけです。



ところで話は変わりますが私は子供の頃あんまりにも球が速かったので力任せに振ったところハデに自打球になり大怪我をしたことがあるんですね。
今では馬鹿みたいに笑えるんですよ。
傷つくことが怖くてバットが振れない人は一度自分の頬を思い切り叩いてみるといいと思うんです。
自分で叩いて痛いとなかなか笑えてくるんです。
なんでこんな思い切り叩いたんだろって。
人はたいていみんなそうやって加減を覚えてきて速球をうまくバッドに与える術を手に入れるんですね。

いつでも微笑みを

2007年10月30日 21時19分27秒 | Weblog
今日はミスチルのニューシングル発売ってなわけで買いにいってきましたよ。
恋空の主題歌、旅立ちの唄の発売ってなわけでしたが、まぁとりあいず聴いた感想としては落ち着きがあり、音楽としての演奏がかもし出している雰囲気はHeavenry Kissのような感じでした。
歌詞はかなりこだわったなって感じでしたね。
旅立ちの唄というのはもちろん旅立つ人に向けた唄なわけですが、旅立ちというのはつまり『別れ』なんですね。
この歌の中には一度も別れという言葉は使われてはいません。
しかし遠いところへいく、または今は違う場所にいるあなたにむけた想い。
それは『終わりなき旅』や『Any』のような応援ソングとは少し違うのです。
あの歌は辛い人や頑張る人、誰にとっても優しい何かの励みになる歌でした。
今回の歌は聴いていても励みになったり元気がでてくるわけではないのです。
それは質が落ちたようにも感じられますが、違うのです。
『Tomorrow Never Knows』や『Everything』、『終わりなき旅』に『es』『名もなき歌』や『抱きしめたい』などの全盛時代を築いたミスチルはそれらをベストにまとめ、次のアルバム『It's a wonderful world』の一曲目『overture』(日本語で序曲)から新しい一歩を歩んだのです。
その証が今までとは明らかに異なった、あたかも運命の人に向けたような歌を書いているのです。
その代表が『しるし』や私の一番大好きな『and I love you』なのです。
そういった点からみるとミスチルは今まで漠然とした愛や、恋愛という素晴らしいものを賛美するような形の曲をつくってきていたのを、『overture』によって『蘇生』し、巡り合ったその運命の人にだけの想いをこめた歌をつくったのです。
ですからこの旅立ちの唄はきっと純粋にはいい曲だと感じられないでしょう。
なぜならこの曲は共感を覚える歌ではないからなのです。
この歌は櫻井さんだけの大切な人に贈った歌なのです。
その観点からみて、この歌に櫻井さんは自分のその強い気持ちをこめたのです。



さて旅立ちの唄はこんなもんでいいでしょう。
本当は三曲目の『いつでも微笑みを』のが書きたいんですね。
というのもこの歌は先ほど書いた『It's a wonderful world』のアルバムの中に収められている曲なんですね。
その時に聴いた時から、「わ、すげぇ歌詞が深いな」って思ってたんですね。
口笛の音なんかが軽快で、でも悲しみと真正面から向き合っている、そんな歌なんです。
それがツアーバージョンで収録されているときけばファンとしてはそっちの方が気になってしょうがないのです。
まぁライブだけあって楽器が違いますね。普通の方はわりとちゃちい音を出してるんですね。
赤ちゃんの声なんかも混じってますし。
この歌はapでも歌われる『平和ソング』でもあるんですよ。
命の重さとか、生きること、死ぬことの意味とか。
私達人間はとてもちっぽけで、日常の中で喜び悲しみ憎しみ無造作に切り替えて暮らしています。
特に悲しみなんてものは深く深く人の心に残るものです。
大切な人を失った悲しみはそれは深いものです。
しかし子供であっても年老いた人でも若い人でさえいつかは死んでいくもの。
生と死は常に表裏一体で、死があるからこそ人は生きているのです。
そして生きることは儚く辛い。
だけど生きるということが死ぬということ。
また誰かの中で生き続けるということなら、笑っていよう。
いつも、いつでも微笑んでいよう。
悲しい、だからこそ笑っていようよ。
その言葉が意味をなくさないように。
と、考えさせられる歌詞なのです。
すごいいい感じに仕上がっているのをみて、こりゃもう来月の中旬に発売のDVDが楽しみでしょうがありません。
第二次貯金がスタートです。

優しい、その在り方

2007年10月29日 19時53分24秒 | Weblog
ギリシャ人にペイシストラトスって人がいらっしゃいますね。
ギリシャが民主制を築く途中で独裁者となり農民を保護した男です。
彼は大変素晴らしい人だったと思うんです。
僭主と呼ばれるいわゆるクーデターで独裁者となった人です。
彼の夢はありとあらゆる人に優しい社会。
助け合い、とか人々が支えあう世の中だそうです。
当時農民はただ働き、上位の人間に搾取されるだけの、使い捨てのもののような扱いだったそうです。
そういった人を救い、みんなのものはみんなで作ろう。
困ってる人がいたらみんなで助け合おう。
そして素晴らしい社会の中で優れた文化を生み出していこう。
彼は理想を持っていました。
そして荒む世の中と対峙した彼は時に絶望することもあったでしょう。
何故、こんなに人は同じ人に対して優しくなれないのか。
ちょっと秤にかけて考えれば簡単なことです。
どんな贅沢を得ることはそのために犠牲にされる一つの命の重さのほうがずっと尊いということは誰もがわかることで、
そんなことさえないがしろにして虚栄を歩み続ける世の中とは一体なんなのか。
そして彼は思いました。
誰かがやらなきゃいけないじゃない。
自分がやらなきゃいけないんだ。
そうして彼は力ずくで権力を奪い彼の政治は成功したのです。
そうして人々は気づいたのです。
優しくなることの大切さや、人の命の尊さ、今まで自分達がどれだけの心をほっぽってきたかを。
こうしてギリシャ世界は平和になったと。

そういうわけでないのが世の常なのです。
彼のやったことはあくまで僭主。
彼がしたことは自分がやらなければいけない、その考えが正しいという証明。
悪であっても自分が正しいと思えばやらなければいけないを原動力に独裁となることの許可なのです。
結局能無しといわれた彼の息子をクーデターで潰し、民主制は発達したという流れが歴史でした。

この歴史が教えてくれることは一体なんでしょう。
人の命の尊さ、どんな理不尽でも力で解決してはいけないということ。
結局のところ対峙する相手をもっと思いやる優しさなんじゃいないでしょうか。
集団の中で自分と一番離れてる人も手を繋いだその円の向かい側に立っている人。
その人がはぐれないようにまず自分が右の人、左の人の手をしっかり握ってあげることが集団の中で繋がりを強くするのです。
私達人間は連鎖していて、どんな人間ともきってはきれない関係にあるわけですから、その気持ち、すなわち優しさがなくては誰も生きていけないと思うのです。

良い言葉

2007年10月28日 23時01分44秒 | Weblog
古くから夜の始まりのことを宵といいますね。
夜よりも大変美しい、日本語らしい言葉です。
それと同じ音で酔いという言葉もあります。
何かに酔ってとろーんとなったり分別がつかなくなったりすることですね。
宵と酔い。
音の響きはまるで同じ言葉ですけれども、この二つの言葉は意味にもどこか似た印象を感じられるんですね。
夜という時間の始まる頃は一日の中で一番とろーんとするというか、
それこそ何かに酔ったような感覚に支配されるものです。
だからこの宵という言葉には酔いという意味を込めて使われていることがしばしばあるのではないかと私は思います。
あえて夜といわない、宵をという時間。
それは普段とは違う特別な時間で悦に浸る感覚に夢心地な夜のことを無意識に日本人は宵という言葉に変換しているのでしょう。
それは良い日本語の美しさを魅せてくれる一節だと思うのです。

カケラ

2007年10月12日 22時27分20秒 | Weblog
社会的な弱者っているじゃないですか。
俺はその部類に入る人間だ。
俺が何をいったところで社会に影響なんてない。
だからといって黙っているわけでもなくこうして小さいながら声を出したりもしているが、そんなことはどうでもいい。
何がいいたいか、といえば俺一人の声があまりにも小さいから同じ声を出す人と共に叫ぶことで声を世界に届けたいと思うんだ。
すると俺の考えと共鳴するのはどこにいるんだろう。
いや難しい。
簡単にいっちゃえば俺は平和な世の中がいい。
それだけだ。
今もどこかで争いが命を奪っているとして、その裏に個人的な利益や思想のために動く人間がいるのはやはりおかしいと思う。
それは人々の行動や思想の自由は制限したくない、がしかし社会的に影響を与えられる人、すなわち核爆弾を発射させたり軍隊を動かせる人など、とただ今日を生きる為にゴミの山の上に生きる人との間には同じ命という重さがある。
それを忘れてはいけないんだ。

話は変わるが俺は宮沢賢治を尊敬している。
『雨ニモマケズ』『風ニモマケズ』
優しく強く無欲な男に憧れた。
人のために生きられる。それを実行するなら自分を犠牲にしてもだ。
『ソウイウモノ』を目指していたはずだった。小さい頃からヒーローの好きだった俺がなりたいものはそこにいた。
だけど今、ソウイウ生き方をすれば破滅する。
そんな現実がある。
いや或いは本当に自分を犠牲にできれば憧れの存在になれるのかもしれない。
もっと多くの人を助けることができるのかもしれない。
だけどそれができなかったのは俺の弱さだ。
俺は弱かった。
優しくない。強くない。欲だってある。
俺が目指していたものはなんだったのか。
そう、今だってなれることならなりたい。
でも俺のこの手にあるいくつかの幸せのカケラを投げ打っても人の為に生きられない。
それがすべてだった。
そのことはいいわけしようにない。
あるいは責める人もいるだろうけど、俺は思う。
俺だけじゃない。弱い人はこの世の中にたくさんいる。
誰もがみな自分を犠牲にしてまでも生きることはできない。
そうさ。
人は弱いから、生きるためには他人を犠牲にする。
醜い手を使ってまでも生きたいとすることだってあるはずだ。
俺にはある。
だけど本当に弱いということは罪なのか?
人間にはたくさんの矛盾がある。
俺は『雨ニモマケズ、風ニモマケズ』なんて生きられない。
でも同じように生きられない人に対して優しくなれるところがある。
人は強くない。
でもそれでもいいじゃないか。
その弱さを許せる人になれたらそれでいい。


およそ命なんてちょいとしたことで奪われるヨワイモノだ。
どんなお金持ちもホームレスだって打ち所が悪けりゃ転んだだけで死ぬもんだ。
じゃあその死んだ人に生きた意味はあったのか。
意味はきっとどちらにもある。
同じ重さをもった命だからだ。
お金に狂い、心をほっぽり、それでも生きる人もいる。
かたや宮沢賢治のような男だって人間だ。
誰もがもってる命。
心。
俺は強くない。
弱い。
人のために生きられない、何年か前の自分がいっていた『クズな人間』だ。
今自分の定めたルールを悉く犯した自分の罪と向き合っている。
きっと俺の人生なんてものはこんなものだ。
それが誰のためだとかそんな大義はない。
それでもそんな人生として俺は生きているんだ。
多分みんな誰にも同じように生き様があるからそれは否定できない。
つまり価値があるんだ。
命の重さがあるんだ。
それを忘れてはいけないと思うんだ。