ゆうべお風呂で考えました。
なんで死ぬんだろうか。
いや正確にはなんで生きるんだろうか、です。
ただ対をなす生と死。
生きる意味とか生きることにばかりにだけ重点をおいてはいけないと思うんですね。
どちらにも同じように同じだけの価値がある。
そう考えた私は誰一人として経験したことのない死を考えてみることにしました。
死は誰にとっても経験することのできないこと。
中国の言葉にもあるように『生を知らないで死を理解する』ことは不可能と思われるでしょう。
でもなんで死ぬのか。
その命題にあえて首を突っ込んでいこうと思ったのです。
数学で言うところの積分で、裏を返せば死を理解することができれば生でさえ理解できるかのように思われます。
もちろん生と死は相対的です。
ここできちんと整理。あくまで命題として経験中の生と未経験の死では理解するのには未経験のほうが難しいというわけであって、生と死の重さは等しい、ということを前提に考えています。
そもそも死とは何か。
たとえば植物状態の人間が生きているのかといわれたら、生物としての意識は存在している。
しかし心はどうだ。
心がないことを死としてしまうのは容易だ。ただし理屈や科学だけで物事を考えてしまうことも同様に稚拙となってしまう。
もちろん肉体が生前よりも強固なものとなったとしても一度死んだものはよみがえらない。
まさにそこから魂や幽霊の概念が生まれているかのように思われる。
それでは命とは目にみえない非常に抽象的で一度肉体から抜けたら戻ることのできない存在なのか。
そしてそれが特定の肉体の中にいることを生、そしてそこから抜けることを死と呼ぶのだろうか。
しかし仮にもしそれが事実だとしてもその答えでは何も満足しないわけで、
もっと精神的なところに論点をおいてみようと思ったんですね。
で、思いついたのが、
ざぶんです。
風呂桶に思い切り。
死ぬギリギリまで息を止めてみたんです。
するとどうでしょう。
非常に苦しかったんです。
論理じゃありません。
あくまで精神的な生と死を感じようと思ったんです。
音もない、静かな水の中で感じたこと。
それは苦しい、ということだけです。
間違いなく身体は空気を求めていて、苦しいというのはこのままではまずいという危険信号で、
紛れもなくその瞬間に『生きたい』と感じたのです。
死ぬ時に、苦しくないと思うときが来るのだろうか。
もしかしたら生きている間に苦しいと感じることがあるやもしれない。
それはこれ以上生きることは危険だと知らせる危険信号なんだと思います。
だからこそ
生きていて、死を感じると怖くて、苦しくて逃げたくなる感情を感じる今は生きるべきなんだと思うんです。
精神的にですよ。
今は死ぬべきじゃないと思うんです。
生と死は相対的だから、
天秤みたいにバランスをキチンととっているんでしょう。
今は息を吸うのをやめたいと思いませんから。