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Antique White

出来たよ



こにゃんこちゃん達、朝は池(水無)の方で遊ぶ日課らしい。
今朝はするすると柿の木に登って行きました。

つづく

つづきでーす

久々にパソコンを起動させたら、写真の向きがダメですね。
iPhone便利なんですよ。
写真を撮って、ブログに送信。
便利といっても、長い文章はやはり全体を見ることができるパソコンで打ったほうが使いやすいですが。
そういうわけで、この日に考えた事を。
この写真を撮ってから、身支度をしながらテレビを観ていました。
話題は、滋賀でのいじめを苦にした中学生の自殺。
いじめていた生徒たちは、いじめられていた生徒が自殺した後でさえ、死んであたりまえだという心ない事をいっているというのです。
いったい、何が起こっていたのでしょう?

新聞やニュース番組でもその後放送されていますのでその内容に誰もがいじめはひどい;悪い事だと思ったに違いありません。
それが、第3者の感想として普通の人間の感情だと思います。

「いじめ」は悪い事。と誰もが言うでしょう。
でも、どこへいっても「いじめ」はありますし、どんな時代にも世代にも存在することを誰もが知っているでしょう。
「いじめ」は無くなる訳がない。
「いじめ」は悪いことだから止めましょう。なんて教育、ばっかみたい。

完璧な人間はひとりもいない。
何らかの欠点は誰にでもあるし、そりが合わないという人間関係だってあるわけです。
「あの人は、○○だから嫌い」
嫌われる人間、いじめられる人間にも○○という理由がある。
が、しかし、○○という理由を嫌いな人もいれば気にならない人もいるだろう。
○○が嫌なら、それをどう解決するかは、嫌いな側の人間の問題なのだ。
嫌いな側の人間が仲間を作って○○という欠点を持っている人間を除外しようとすることが「いじめ」というものになっていく。
多数派対一人の闘いになるわけだ。
一人が闘い破れ自殺を選んでしまって初めて世の中に明るみに出る。
滋賀の事で言えば、それをみていた人がいるでしょう。
側にいた人がいるでしょう。
その子をいじめていたリーダーと仲間だけが加害者ではない。見て見ぬふりをした第三者のつもりのクラスメイトや先生も加害者だし、親もいじめを苦に自殺したこにも責任は大いにあると思うのね。

仲間って何?
仲良しもいいけど、「マイナスの言葉」を口にしなければいけない関係はマイナスなことしか生まない。
子供も大人も男も女も一人では生きていけない。
ただ、他人の存在を否定するような言葉ばかりを聞いて育った子供もまたそうなってゆく可能性は大きいのかもしれません。
が、なぜか人間は育った環境に関係なく人格を自分自身で作ってゆくこともできるようですけど。

理由があれば人を大勢でいじめていいのか?
いつもそう思う状況(人の悪口を大勢で言っている)に出くわすたびに、私は、だまる。
見て見ぬふりをするためではなく、違うアプローチでその人(悪口を言われている人)がいじめに耐えることができるようにとなんとか考える。
大勢だから自分たちが主だと思っている人たちには、言葉は通用しないから。
思うのは、集団で異分子をたたくという行動も、弱った人を助けるとう行動もどちらも動物的な本能的な行動なんだなと思うのです。
仲間はずれをするという行動は自然淘汰現象なのでしょうか?。
弱ったものを助けるというのは、母性本能?
感情が受け入れない人や生理的にダメな人さえもその人の尊厳を認め共存するということは、大変な高度であるのかもしれません。が、本当はシンプルな心で可能なことなのかもしれない。
人間の平和は脳みその中にあるんだわと思う今日この頃。

そして、脳みその話しになるのです。
ちびにゃんが、ちゃっちゃと柿の木に登り、おかあにゃんねこが直ぐに後をおって登っていったのを見た時に「これなんだ」と私の脳みそが刺激されました。
こんな小さなこにゃんこが浮ェらずに木に登る。なんなく登っていけました。
猫だから当たり前だと思うでしょう?
ロンくんは、この柿の木に登ることができません。
なぜなら、パチンコ店の事務所の床下から拉致してきて2年間は家の中で育ち、木登り経験がないのです。
でぶでぶマロンは、1才前に庭でミントと遊びながら木登り三昧した経験があるのででぶでぶでも全速力で走ったり木登りもできるのです。
家から全速力でかけだして柿の木に登るマロンを追いかけてロン君も全速力で走っていったのを見たことがあります。ロン君は柿の木に登って行くことはできませんでした。
(と、書いて、ロンとハリーの成長記録で木登り中の写真をアップしたことあったかな?とおもいだしているのですが・・・・・。もし、かつて登ってたらごめんなさいだわ。)
ロン君、屋根や塀には登っても木登りできないのに、ちっこいちびにゃんはいとも簡単にできる。
「できるできない」は、体験すること経験することそれを脳みそに記憶させることによるということをこにゃんこの木登りで一瞬のうちに感じた私の脳みそ。
もしかしてこういうことを「クオリア」というのかしらん?

人間ってどんなに文明が発達しようが社会や時代が変わろうが「こころ」といわれる部分は何もかわっていないのではないかと思うのです。
身体で感じ体験し五感をフル活動させたり、知識を蓄え、心を制御することも学び、動物としても人間としても脳みそを活用していくのがいいのだわね。

そして、こにゃんこが木に登って行った時、直ぐに後をおったははにゃんの行動は、母の愛と称される母性本能なのね。こういうのも生命維持にはとっても大切なことなのね。と感心しちゃったわけです。
野良にゃんだからこその母性本能で、飼いならされすぎちゃうと育児放棄なんてのもあるのよね。
人間もそうね。
なんだかね。
何をどうすればいいかなんて判らないことだらけよね。
それを考えてゆくのが人生。
答えなんかないけど探してゆくのが生きるということね。
泣いて叫んで笑って怒って。
苦しんでもがいて色んなことを経験していくのが人生。
自分の命も他人の命も天秤にかけたらつりあうものですよね。

子供の自殺を食いとめる為に、大人が一回だけでいいから口にする人の悪口を止めて笑顔をつくったら何かが変わる気がする。


あら、また菅直人さん、叩かれてる。んんん。原発反対している人って叩かれるのね。
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