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「何か」のせいにする責任逃れの歴史【動画紹介】ヒトコトリのコトノハ vol.41

2024年02月02日 | 動画紹介
☆本記事は、Youtubeチャンネル『本の林 honnohayashi』に投稿された動画を紹介するものです。
 ご興味を持たれた方は是非、動画の方もチェックしてみて下さいね!

 ●本日のコトノハ●
  ともかく、ローレライも中世のメルヘンの世界では可愛らしく、いたいけない妖精の一人だったものが、
  キリスト教に基づく近代社会の形成の過程で❝魔女❞化されていった被差別者だったのではないかと思われるのである。

 『民族音楽・出会いの旅』江波戸昭(1987)音楽之友社


 現在から1世紀ほどを振り返ってみると、世界的にも日本国内でもまあまあ大変な出来事が起こっています。
 地震や津波、火山の噴火などの自然災害や、新型コロナウイルスの感染、そして人間が引き起こす紛争やテロ行為などです。

 困難な問題が起こる度に、人はそれらを解決するために知恵を絞り、快適な暮らしを取り戻すために尽力します。
 科学技術の発達は、そういった人間の努力を大いに助け、私たちの生活の質を向上させることに貢献しています。
 そのおかげで私たちは、どんな悪天候の時でも安全に交通機関を利用することができますし、何よりも人命を第一に考えると同時に、起こった災害を特定の何か(誰か)のせいにしないような社会になりました。
 災害や大事故を避けるために、かつての日本で行われていた人身御供や人柱といった風習を止めさせたのは、科学の一番の功績だと思います。

 ローレライは水辺の妖精ではありましたが、決して船乗りを誘惑したり、舟を転覆させるような存在ではありませんでした。
 その当時の人間の知恵や力が及ばない不幸、不運の責任を勝手に負わされた可哀想な精霊なのです。
 同様のことは、日本でも古代から行われていました。
 洪水や竜巻、異常気象による農作物の不作、疫病の蔓延などの責めは、出雲神話の荒ぶる神スサノオが負わされましたし、平安時代の天然痘の流行、不可解な自然現象は、「当時の権力者から見れば」不遇な人生を送った人たちが怨霊と化したためと考えられました。

 何かのせいにすることで物事を解決しようとする姿勢では、何事も解決しないばかりか、さらなる怨恨を生み出すことになる可能性があることを忘れてはいけないと思います。
 科学を過信してはいけないとも思いますが、少なくとも不祥事や惨事が起きてしまった際、私たち人間は冷静にその原因について考え、再発防止に取り組まなければなりません。
 科学が現在のように社会生活を豊かにしてくれているのは、先人たちのそうした努力の成果が積み重なったおかげだと私は思います。

 日本三大怨霊に数えられている菅原道真は、今では学問の神様として祀られていますが、右大臣まで上り詰めた人物としては確かに不幸な晩年を送ったと言えるでしょう。
 しかし、彼が死後、怨霊になったとする考えはまさに、屍に鞭打つも同然だと思うのです。
 生前の道真がいかに優秀で、有能で善良な人物であったか、周囲の人々は分かっていたはずです。(コンプレックスを抱えてしまうほどに)
 だからこそ、半ば陥れるように政治の中央から彼を追放して、邪魔者がいなくなって安堵すると同時に、心の奥底に消えない後ろめたさを感じていたのかもしれません。
 もし、怨霊というものが本当に存在するのであれば、それは道真に酷いことをした人々の腹黒さや罪悪感、後悔の念といったやり場のない負の感情の捌け口として産み出された虚像なのだと思います。

 「人を呪わば穴二つ」と言いますが、なんでもかんでも人のせいにして必要のない恨みを持たないように、持たれないように、日々精進していこうと思います。
 (ちなみに、道真自身は、太宰府での生活も悪くないと思っていた節もあるとかないとか…)


ヒトコトリのコトノハ vol.41


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