フォロワーの皆さまお元気ですか?
今日は二つ記事を上げます。
まずは歴史、社会、思想、哲学、心理学などの勉強の経過報告です。
ブログアップのペースを落とします、と言ったときに上げていた参考図書はほとんど読みました。
これから、こちらを読んでみようと思っています。
ハンナ・アーレント著『全体主義の起源』。実は、今まで一度も読んだことのない著者です。
本当の左翼の方には「ハンナ・アーレントなんて『反共』の思想家じゃないか!」…
と憤慨される方もいらっしゃることでしょう。
そうでない方も、少し詳しい方には「シオニズム」に肯定的な言動をした人間という認識があって…
パレスチナでの虐殺が進行中の今「ユダヤ系シオニストの本を読むなんて」と思われるかもしれません。
(彼女はイスラエル一国建設の形ではなくパレスチナとの「二国家並立」を想定していたわけですが)
でも、現在の日本で私が一番危惧しているのは「全体主義化」が進行して行くことであって。
全体主義の研究といえば、やっぱりハンナ・アーレントが第一人者というのは間違いないところなので。
この著者について集中的に勉強するのは、避けて通れない、避けてはいけないところだと思うのです。
『全体主義の起源』は日本語版でも三冊に分かれているのですけれど…
カール・ヤスパースが第一巻に書いていた、ドイツ語版序文での勧めに従って…
第三巻から読んでみることにします。
噂によるとアーレントは語彙の使い方が独特で、論の展開も複雑なので、読むのはかなり厄介だと。
なので、予習のためにまず、こちらの本を読んでみました。
仲正昌樹氏の『悪と全体主義ーハンナ・アーレントから考える』という新書。
大づかみにアーレントの用語や、考え方の枠組みと方向はわかりました。
そしてこの本自体がなかなか良い。
日本での問題を意識して書いてくれているのもよくわかりました。
なので、いくつか「ここは」という箇所を抜き出してみることにします。
十九世紀末から二十世紀にかけて、身分制度、階級社会が解体されて行く中で起きたことについて。
…人々が解放されることは、大勢の「どこにも所属しない」人々を生み出すことを意味したのです。
アーレントはこれを「大衆のアトム(原子の粒のこと)化」と表現しています。多くの人がてんでんバラバラに、自分のことだけを考えて存在しているような状態のことです(中略)
選挙権は得たものの、彼らは自分にとっての利益がどこにあるのか、どうすれば自分が幸福になることができるのか分からない。そもそも大衆の多くは、政治に関する関心が極めて希薄でした。
今の日本でいえば、過半を占めている「政治に無関心な層」がこれに当たりますね。
アーレントの文章の引用では、こうなっています。
「彼らは普通の時代には、政治的に中立の立場をとり、投票に参加せず政党に加入しない生活で満足しているのである」
現代日本の「無党派層」「特定の支持政党なし」の人々、つまり多数派の人たちのことですね。
こうした人々は「市民社会」を構成する「市民」(citizen)とは呼べない人たちで…
自由や平等、自らの権利について積極的に主張しない人々、ここではすなわち「大衆」と呼ばれています。
「大衆」は国家や政治家が何かいいものを与えてくれるのを待っているお客様です。自分自身の個性を際立たせようとする「市民」に対し、「大衆」は周りの人に合わせ、没個性的に漫然とした生き方をします。
しかし、安定した時代、経済や社会が発展している間はそれで済んでいるのですが…
ひとたび景気が悪化し、社会に不穏な空気(生活不安)が拡がり始めると状況は少しづつ変わって来ます。
大衆の一人一人が、誰かに何とかしてほしいという切迫した感情を抱くようになると危険です。(政治について)深く考えることをしない大衆が求めるのは、安直な安心材料や、分かりやすいイデオロギーのようなものです。それが全体主義的な運動へとにつながって行ったとアーレントは考察しています。
どうですか?今の日本には「全体主義」化を促進する要件が揃っていると思いませんか?
そして、第二次世界大戦に向かう時代、ドイツではナチズム。ソ連ではボルシェヴィズムという…
大量の「粛清者」を出した「全体主義」が台頭していきました。
この二国、そしてファシズムを生み出したイタリアには、共通して…
全体主義へと発展しやすい民族的ナショナリズムも広がっていきました。
「この先自分たちの生活はどうなるのか」という不安と、徐々に進む治安の悪化の感覚…
さらに、迫りくる自然災害への心配や、新たなよくわからない感染症の流行などが原因で…
意識的・無意識的な「緊張」が拡がった社会では…
厳しい現実を忘れさせ、安心してすがることのできる、分かりやすい「世界観」「物語」が…
大衆に好まれ、受け入れられて行きます。そうなるとどうなるか、アーレントの言葉の引用です。
為す術もなく偶然に身をゆだねたまま没落するか、あるいは一つのイデオロギーに身を捧げるかという二者択一の前に立たされたときには、常に論理的一貫性の死を選び、そのためには肉体の死をすら甘受するだろう。
米国との無謀な戦争に向かって行った時代の日本人も、まさしく同じ、この状態だったのでしょう。
20世紀前半には世界恐慌、スペイン風邪の流行といったものに加えて、日本では関東大震災がありました。
その時代、大衆的熱狂を支えたのは、ドイツではナチズム、日本では天皇を中心とした『神国』日本…
という「物語」「神話」だったのです。アーレントの言葉はこう続きます。
全般的崩壊のカオスの状態にあっては、こうした虚構の世界への逃避こそが、とにかく最低限の自尊と人間としての尊厳を保証してくれるからなのである。
今現在の私たちの多くが持っている「日本はまだまだすごい」「日本は大丈夫!」と思いたくなる心情。
それは、今後、過去の経済政策の間違いや、科学技術の立ち遅れ、社会の混乱から…
もはやどうやっても目を背けられなくなったとしても、なおさら頑なに信じ込まれるのかもしれません。
人間は、自尊心なくしては自己を支えることが難しいものですから。
そんな現代の状況に鑑みて、仲正氏はこう述べています。
ナチスが台頭したころと同様、現代は個人がバラバラになっています。
ブログなど見ていると、それぞれの人が社会からは目を背けて、個人的な趣味・楽しみや仕事に…
没入し、ある意味そこに「逃げ込んでいる」ようにさえ見えます。仲正氏はこうも続けます。
人間同士のリアルなつながりが薄れる一方、人々が逃げ込むインターネット上ではプロパガンダが跋扈しています。
こうした状況から、デマや陰謀論が拡がって、人々に信じられています。
昭和から平成初期にかけての、安定していた世の中を懐かしむ傾向も強いです。
人間は、明快な世界観や陰謀論に弱いものです。
強い不安や緊張状態にさらされるようになったとき、人は救済の物語を渇望するようになります。それまでの安定と、現在のギャップが大きければ大きいほど、分かりやすい物語的世界観の誘惑は強くなります。
経済的格差が拡大し、雇用や福祉制度などの社会政策が崩壊しかけている今の日本は、物語的世界観が浸透しやすい状況と言えるかもしれません。
政治に関してまったく無関心、無責任だった人たちが、危機感の中で急に政治に過大な期待を寄せるようになると(中略)特に安全保障や経済に関して、多くの人が飛びつくのは単純明快な政策です。
人間、何かを知り始めて、下手に「わかったつもり」になると、陰謀論じみた世界観にとらわれ、その深みにはまりやすくなります。全体主義は、単に妄信的な人の集まりではなく、実は、「自分はわかっている」と信じている(思い込んでいる)人の集まりなのです。
いかがでしょうか?
今現在と、これからの私たちの社会が、全体主義へと急速に落ち込んで行く可能性について…
簡単に否定できる人、どれくらいいらっしゃるでしょうか。
ファシズム、ナチズム、ボルシェヴィズム、そして神国・日本イズム……これらの全体主義は、数百万…
いや数千万人という、おびただしい数の、無辜の民の無残極まる死をもたらしました。
日本人の場合それは、地震や台風のように、避けようがなかった「天災」のようなもの…
と、何となく考えているようなふしがあります。
でも、アーレントが全体主義を「避けられた悲劇」と捉えているのは確かです。
そのために必要なのは、おそらく、人を「敵」と「味方」に分けて考えるクセや…
「善いもの」「悪いもの」に分けて考えるクセなど、二項対立的な考え方を排すること。
ものごとを「味方」「善」の側からだけ見たり、自分の「損得」だけから考えるのではなく…
俯瞰的・客観的な視点を持って、人や事物を見て、何が正しいかを考えることが必要なのだと思います。
そして状況についての「分かりやすい説明」を軽信することや「均一化」された世界の見方をやめる。
この世の中は、良くも悪くも複雑で、多様で、流動的で「分かりにくい」ものなんです。
そして人間も、タイルやレンガやコンクリートブロックみたいな、均一な規格品ではありません。
精細でしかも巨大なジグソーパズルのピースのように、形も色も大きさも、一つとして同じではない。
複雑さと多様さがこの世界の本質であるうえに、このパズルは、固定したものでなく…
常にグニャグニャと形を変え続けるという、ある意味おそろしく厄介なものなんです。
だから、常に他者と対話を続け、頭の中を更新し続けないと駄目なんです。
自分が昨日まで正しいと信じていたものが、今日は間違いになってしまうことだって十分にあり得る。
考えを改めること、修正することは、辛いことではありますけれど。
だから、コミュニケーションと止まらない学習が必要なんです。
日本人に限らないかもしれませんが、今は正常なコミュニケーションが成立せず…
「論破王」みたいなネット芸人がもてはやされていますけれど…
本当の議論、コミュニケーションは、勝ち負けをつける喧嘩ではないんですから。
論破王がもてはやされる状況は、社会でコミュニケーションがブレイクダウンしている影響でしょう。
ともあれ、全体主義が完全にこの社会を覆いつくしてしまうまで、みんなに無視されても嫌われても…
「均質な考え」の空間にならないよう、へそ曲がりでマイナー志向の意見を私は出して行きたいです。
そのために、まだまだ勉強です。