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アルファロメオと小倉唯

人間はなぜ悪いことをするようになるのか

数日前に読了しました。こちらの本。

 

 

原題は『NOT FOR PROFIT-Why Democracy Needs the Humanities』です。

 

米国の哲学者・倫理学者の、マーサ・クレイヴン・ヌスバウムが書いた本。

 

著者は、フェミニズム、リベラリズムの論客としても知られるため、そういう話の多い難解な本かなと…

 

多少は覚悟して、アマゾンで取り寄せたのですが、パラパラ読んでみるとすごく平易な文章と内容で…

 

論文ではなく、一般の読者向けに書かれた本でした。

 

そして内容的には主に「教育」(幼児教育から大学教育まで)はどうあるべきかについての本でした。

 

結論から先に言ってしまうと、この前に読んだ『ジェンダー・トラブル』のような…

 

新しい「知の地平」を開かれるようなことはほとんどなかったです。

 

私がいままで取り入れて来た知識を基に、内側に育んでいた個人的な考えをほぼなぞったような内容。

 

いまや「カネにならない学問」として打ち捨てられようとしている人文系の学知…

 

哲学・歴史・地理・文化人類学などこそが、経済や科学や政治など、社会で重視されている分野の基盤として…

 

絶対に欠かせないもので、これを欠いていることが現代のさまざまな深刻な問題、危機を招いている。

 

…ということ、このブログでも、もう聞き飽きたと皆さんが思っているぐらい書いてきたと思います。

 

ほぼ、それと同じような内容が書かれている書物でした。

 

なので「そうだよね」とは思いながら、特に感心するようなところはなくて。

 

ただ、主に米国の教育の現状の話を中心に、インドのタゴールの教育思想の話が組み合わされていて。

 

それに、欧州の教育者や思想家の話も、一部からめてあるのですけれど…

 

「米国の教育は(他の国・地域に比べれば)まだましだけれど」という前提に立ち過ぎていて…

 

ちょっと鼻白む部分があるのは、否めないところでした。なんだか米国中心主義。

 

しかも私が友人「F」の妻である「A」から学んで、ワークショップなどにも参加し…

 

一応それをマスターしたという「お免状」を頂いた、イタリア発の教育法…

 

「レッジョ・エミリア・アプローチ」については、ヌスバウムは知らないのか…

 

それとも意識的に無視しているのか分かりませんが、全く触れていません。

 

日本の幼稚園でもてはやされている「モンテッソーリ教育」には、注釈でだけ触れていますが…

 

現代の国際的な評価では「モンテッソーリ」は時代遅れで「レッジョ」の方がホットだと思うのに。

 

この人、もしかするとイタリアの事物全般に対する過小評価の傾向があるのでは?とちょっと疑ったり。

 

米国人にはよくあるパターンなので。

 

WASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)的な人種差別の基準では…

 

「イタリア系」は「白人」の中で、東欧からの移民の人たちと並んで最下層なのですよ。

 

アメリカの自動車ユーザーがイタリア車をやたらとくさすのにも、その蔑視が反映してます。

 

ちなみに私の友人のうち夫のほうの「F」も米国の大学で教えているとき…

 

(先日、彼がブラウン大学で教えていたと書いてしまいましたが、コロンビア大学の誤りでした)

 

米国人の、特にアングロサクソン系の教授たちから理由もなく見下されて、屈辱的な思いをして。

 

ニューヨークでのキャリアは彼にとっての「黒歴史」になってしまい…

 

いまや、記憶からも記録からも、消去したがっているほどです。

 

「F」がすっかりアメリカ嫌いになってしまったのも、仕方ないでしょう。

 

もっとも彼は冷静な人なので、アメリカ人すべてを悪者扱いすることなどはせず…

 

今でもビジネスパートナーに、アメリカ人を入れたりということを、ちゃんとしますが。

 

で、「レッジョ」の教育法に関して「A」が書いた本を私が日本語訳して、出版したという経緯もあって…

 

「これはちょっと許せんな」というのがあり、個人的評価は☆☆☆の星3つしかあげられないですね。

 

具体的な内容紹介については、本からの引用を挙げることで代えさせていただきます。

 

 

デモクラシーについて。

 

今日私たちはデモクラシーが好ましいと依然として主張し、言論の自由、差異の尊重、他者への理解も好ましい者であると考えています。私たちはこうした価値観を口先では賞賛していますが、それらを次の世代へ伝えて確実に存続させるためにすべきことについては、ほとんど何も考えていません。私たちは富の追求に気を取られ、思慮深い市民ではなくて、利益を生み出す有用な人間を育成することを、ますます学校に求めるようになっています。

 

人文学や芸術は、国の競争力を保つためには削減しても構わない無用の長物であるとますます見なされています。

 

学校教育について。

 

「テストのための教育」は、受け身的な学生と機械的に教える教師という雰囲気を生み出します。最良の人文的な教育と学習の特徴である、創造性と個性を伸ばす余地はほとんどありません。

 

想像力や批判的能力は無用の長物に思えてしまいますし(ヌスバウムはこれを民主主義国の国民を作る最低にして必須の条件としている)、人々はそうしたことをますます軽蔑するようになっています。

 

カリキュラムの中身は、想像力を活発化させ批判的能力を訓練する教材から、試験対策に直結するものに重点が移っています。こうした教育内容の変化に伴って、探求心と個人の責任感を伸ばそうとする教育から、良い点数のための詰め込み教育へと実践方法も変化しています。

 

グローバル社会に必要な教育。

 

私たちの誰もが、一度も会ったことのない人々に依存し、彼らもまた私たちに依存しています。(…)消費者としての私たちのごく単純な決断が、私たちの使用する製品の生産に関わっている、遠い国の人々の生活水準に影響を及ぼしているのです(…)現実から逃避して知らないふりをするのは無責任です。

 

たとえば私たちの日常生活で使われている製品の出所を理解するには何が必要か考えて下さい。ソフトドリンク、衣類、コーヒー、食品。(…)今日ではこうした物語は、必然的に世界規模の物語になるのです。ごくありきたりのソフトドリンクでさえ、その出所を理解しようとすれば、他の国々の人々の生活を考えざるを得ませんし、その際にそうした人々の労働条件や、教育、労使関係などを問わなければ意味がありません。そしてそう問いながら、人々のそうした日々の生活環境を作り出している当事者として、当然私たちは、彼らに対する私たちの責任を考えるべきなのです。

 

これに関わって著者はインド独立前夜の、ネルーの演説を引用しています。

 

今日ではあらゆる国家と国民が互いに密接に結びついており、自分たちが独自に生きているなどとは誰にも想像できない。平和は(国ごとのものとして)分割できないと言われているが、自由も繁栄も分割できないし、もはや孤立した断片に引き裂かれることのできないこの一つの世界においては、災厄もまた、分割できないのだ。

 

では、なぜ見た目や国籍が離れた人々はいがみ合い、差別し合うのか。

 

ヌスバウムは精神分析の理論をもとに、人が赤ん坊のころ、自分のうんちを嫌悪し、それを排泄する自分をも穢れたものとして嫌悪する…

 

とされることを引き合いに出して説明します。

 

穢れという観念が人種差別やその他の集団の抑圧に普遍的にみられるのは、驚くべきことではありません。(自分への)嫌悪感の(他者への)投影は、自己否定と、否定した自己を、社会的に無力なだけで本当は投影を行っている側と何ら変わらない(別の)人間集団に転移させている(…)残念ながら、すべての人間社会は外集団を作り出し、彼らを恥ずべきもの、もしくは嫌悪すべきもの、そしてたいていはその両方であると位置づけていることを認めなくてはなりません。(…)他者に汚名を着せる行動は、自らの脆弱性をめぐる不安への反応です

 

そして、民主的な社会における人々の必須の条件として…

 

自己検証、議論の必要性、決断する能力を挙げて行きます。

 

自己検証できない人々にしばしば生じる問題として、あまりにも容易に他人に影響されてしまうということがあります。

 

そうしたことから生じること。

 

不決断というものはたいてい、権威への服従と仲間の圧力によってさらに悪化するものです(…)議論そのものが重視されない場合、人間というものは、話者の名声や文化的威光に、あるいは仲間文化の傾向にたやすく影響されてしまいます(…)重要なのは話者の地位ではなく、ひたすら議論の中身なのです。

 

さらなる問題は(…)討論がスポーツの試合さながらに、自陣営に得点をもたらすためのものだと考えられるようになること。「相手陣営」は敵とみなされ、これを打ち負かしたい、辱めたいとすら願うようになるのです。

 

スペースシャトル計画のいくつかの段階での失敗、エンロンやワールドコムのさらに破滅的な失敗の原因として、イエスマンの文化が挙げられます。イエスマンの文化においては、権威と仲間の圧力がはびこり、批判的なアイデアははっきり口にされないのです。

 

こうした考え方が「はびこっている」と著者が述べているのは、実はいずれも米国社会に関してのこと。

 

でも、私たち「日本人の特性」と言われるものを考えるとき、なんとも身につまされるものです。

 

というよりも、まさに日本人を名指しして、批判されているような気分にさえなって来ます。

 

さらに、人間が堕落し、悪いことをするようになる「条件」を著者は挙げます。

 

第一に、個人の責任を問われないときに人間は悪い行動をとります。匿名性を隠れ蓑にして顔なき大衆の一部となったときの人間は、個人としての責任を問われる時と比べるとはるかに悪質な行動を取ります。

 

第二に、批判の声が上がらないときに人間は悪い行動を取ります。

 

第三に、自分の影響力が及ぶ人々が個人として扱われないときに人間は悪い行動を取ります。(…)他人を統制したがる者は、女性を操作すべき単なるモノとして考えるようなり、女性をこのように「モノ化」する能力ー多くの点でメディアやインターネット文化が助長していますーが彼らの支配幻想をさらに強めています。

 

まあ、おっしゃることは「すべてごもっとも」という感じです。

 

本当は4つの星をあげたいところですが、先ほども書いたように「レッジョ」教育を無視しているので…

 

残念ながら☆☆☆です。

 

最後に私からの追加提議。

 

前出の「人はなぜ悪いことをするようになるのか」ということの、2番目の条件に関わって…

 

わが国の政権政党の人々が、ここまで堕落したのは、我々一般市民が「批判」をすっかり放棄して…

 

彼らにやりたい放題やらせて、甘やかしてきたことが一番の原因だと思います。

 

もういい加減に下野させないと、この国全体を巻き込んで、恥の極地まで堕落して行きますよ。

 

それに関して最後に、下の動画をご覧ください。

 

こんな恥ずかしい、というか倫理の底が抜けたような、ひどすぎる連中をのさばらせてきたのは…

 

ほかならぬ私たち有権者なのだということ。彼らの恥は我々自身の恥なのだということを知りましょう。

 


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