従軍慰安婦の深層

みんなに知って貰いたいことを書こうと思います。

元慰安婦:黄錦周さんの証言(元慰安婦たちはこう言っている)

2007-09-08 18:14:40 | 歴史

元慰安婦たちはこう言っている(その1)

最近読いくつかんだ本から元慰安婦の体験を紹介します。

(1)黄錦周さん=弱った慰安婦は埋められ殺された

『この恨みを日本にぶつけたい-黄錦周さん

1922年忠道南道扶余県で生まれました。生家は貧しく12才の時100円で売られソウルの金持ちの家で小間使いをして以来、ずっといろいろな家で子守・女中をしてきました。数えで17才の時、女中をしていた咸鏡北道ハムン郡の金持ちの家に、工場供出の員数割り当てが来て、その家には19才と15才の娘がいたのですが、私が工場に行くことになったのです。

 ハムンの家には10代の娘が40人位集められていました。乗せられた列車の窓は全部黒紙がはられ、どこを走っているのかまったくわからなくしており、軍人達が車内を見張っていました。次の日の夕方、満州のどこかでおろされ、15人ほどでトラックにつまれて、数時間行ったところで降ろされました。吉林省のどこかでした。

 そこで「ナガキハルコ」と呼ばれ、20畳ほどの畳を敷いた部屋に通され、軍の命令で「服を脱げ」と言われたのです。私はパジを脱がないよう必死で押さえていたら、刀で下着を切られました。慰安所といった建物は特になく、毎日いろんな兵舎に連れて行かれ、兵隊の寝台で相手をさせられました。ドアの外には兵隊達が並んでいました。最初の10日間は「新品」ということで将校達の相手をさせられました。洗濯、食堂の手伝い、針仕事、土掘りの仕事までさせられ、休みはまったくありませんでした。なのにお金も軍票も何も貰っていません。十字のマークの軍人が私たちを管理していました。

 1日何人の相手をさせられたのか判りません。気絶してしまうこともありました。生理の時許してくれと言ってもダメでした。私は何とか休みたいと体中にわざと生理の血を塗りまくって、兵隊の気をそごうとしました。兵士達は気に入らないと殴る・蹴るの暴力をはたらきました。私も数百回、数千回殴られたかしれません。病気で弱った慰安婦は掘った穴に入れられ手榴弾で殺され、埋められたと聞きます。

1945年の7月末期、部隊内が騒がしくなったんです。私は危険を感じ荷物をまとめて様子を窺っていましたが、8月15日突然「早く出ろ」と言われ、数名で逃げたのですが、途中で一人になってしまいました。汽車で清津という所へ行き、さらに船で羅津に行き、そこから2ヶ月歩いて12月の始めやっとソウルにつきました。』
出典:『従軍慰安婦と戦後補償』高木健一、三一書房、1992年(p47~p48全文)