従軍慰安婦の深層

みんなに知って貰いたいことを書こうと思います。

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元慰安婦、鄭書云さんの証言

2007-09-16 14:06:32 | 歴史

(5)「国民基金」は私たちを二度殺す=鄭書云

出典:私は「慰安婦」ではない(アジアの声 第11集)、「アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む集会」実行委員会、東方出版、1997年(全文)

(供出を拒んで投獄された父)
私は1924年、韓国の田舎の地主のひとり娘として生まれました。私の父はとても頑固な人で、「創氏改名」を拒否したほどでした。「創氏改名」を拒否しても、父が地主であったため、捕まえることは出来ませんでした。植民地時代(1910年~1945年)ではあったものの、特に最初の頃は日本人は地主とはいつも妥協していました。

ある日、町の区長から、その当時韓国では銅で作られた食器を使っていたのですが、その食器をみんな供出しろという命令が下されました。父はかんかんに怒りました。何から何まで朝鮮人から全部奪っていって、それでも足りずに今度は御飯を食べる食器まで供出させるのか、と。それは出来ないと父は怒りました。その命令があった夜、父は家にあったたくさんの食器をすべて父の土地に埋めたのです。けれども、そのことが密告により日本人にばれてしまい、父は逮捕されました。それで私は何回も警察署に行き、父に面会できるよう頼みましたが、ことごとく断られました。

そしてある日、食器供出の話をした区長がまた家にやって来ました。自分といっしょに行けば父との面会が許されるから明日いっしょに行こう、と。私は喜んで、「はい、そうします」と答えました。父は拷問のために、ほとんど気を失っていました。意識を取り戻した父は、私を見るなりかんかんに怒りました。「若い娘が警察署に来るなんて。早く帰りなさい。そしてもう二度とこういう所には来てはいけない」と言いました。家に帰ると母に父の様子を尋ねられたのですが、拷問で失神していたとはとても言えませんでした。

(工場で働けば父親を釈放してやる)
数日して、区長がまた家に来ましたので、私は針の仕事がとても上手でしたので、区長は今度は、「お嬢さんは針の仕事がとても上手だから、日本の千人針工場に行って働かないか」と言うのです。「お嬢さんがその工場に行って働けば、お父さんはすぐ自由の身になりますよ」。そう言われました。
 母は猛反対しました。当時の朝鮮はとても保守的でしたから、若い娘が町に出て仕事をすることなど想像も出来ない時代でした。母はほんとうに、すごく反対したのです。でも私は母を説得しました。父が早く釈放されるためには仕方がないことだからと。そしてとうとう母の承諾を得ました。私は区長に会い、「工場に行って働きます」と言い、工場に行くとその日で父が自由になるということをもう一度確かめますと、区長は「その通りだ」と答えました。

区長について、港町釜山に着きました。釜山から私は船に乗せられ、そして日本の下関に着いたのです。下関に着くと大きな倉庫に入れられましたが、中に入って、私はびっくりしました。数え切れないくらい大勢の少女たちがいたのです。中にはなんと十二歳の少女までいました。日本人の監視員が二人、ずっと見張っていました。食事のたびに、配給されるのは海苔巻きのおむすびが一個だけです。でも、私はとても怖かったために、、三日間何も喉を通りませんでした。三日経って、お腹が空いてやっとおむすびを食べることが出来ました。

毎日のように、次々とたくさんの若い娘が倉庫に運ばれてきました。そしてある日、私が住んでいた村の村長の娘までが連れて来られました。倉庫で一か月か一か月半くらい待たされたと思います。倉庫の中では名前もなく、いつも番号で呼ばれました。私はある日呼び出され、そして、他の少女たちとともにとても大きな船に乗せられました。

(アヘン注射を打たれ続け)
アジアのあちこちの港町を通り、船が最後に着いたところは、ジャカルタからそれほど離れていないスマランというところでした。そこに降りた若い娘は、全部で23人でした。そして降りるとすぐ、私たちは病院に連れて行かれました。そこで私は強姦されました。3日間、下腹部からずうっと血が出ました。

私たちはすぐ日本の軍人の性の相手をさせられました。朝7時から夜の8時まで軍人がやってきました。1日数十人の兵士の相手をさせられました。あまりの痛みで座ることも立つことも出来ませんでした。気絶する時さえありました。あまりの苦痛に私は軍医に痛いと訴えました。そうしたら注射を打たれました。その注射は不思議なくらいよく効いたのです。土曜や日曜、兵士が大勢押しかける日には、1日5本も打たれて、私はほとんど昏睡状態で軍人達の相手をさせられました。それはアヘンの注射だったのです。

昼間は兵士がやってきて、夜は将校が来ました。次々に相手をさせられ気絶したりすると、水をかけられ、意識が戻ると又相手をさせられました。そして将校はとても乱暴でした。彼らはいつも軍刀を抜いて私たちを脅し半分にからかい、そして軍刀の先で私たちの体をあちこち刺しました。私の体は今でもそのときの傷跡だらけです。私の顔にも傷跡がたくさんあります。そして私の首には日本刀の先で刺された大きな傷跡があります。50年たった今も生々しく残っています。
 それだけではなく、彼らは煙草の火を私の体に押しつけました。その火傷跡もあちこちにあります。何よりひどかったのは彼らは私を眠らせませんでした。過酷な生活で疲れ果てていつも睡眠不足でしたが、彼らは私が眠り込みそうになると刀の先で刺したり、眠ることを絶対許してくれませんでした。

耐えられなくなり、私は自殺を決心しました。熱帯地方ですから蚊が多くマラリアが流行していました。高熱によく効く薬を私は軍医に嘘をついて毎日1粒ずつもらいました。そして40粒がたまった時、私はそれを一気に飲み下しました。3日間気を失ったままでしたが、死にきれませんでした。後で他の少女から聞いた話では私は口からたくさん血を吐いたそうです。

(皆殺しにしようとした日本軍)
スマランには朝鮮から徴兵されてきた同胞の軍人もたくさんいました。彼らの言葉だけが唯一の慰めでした。「日本はもうすぐ負ける。死ぬなら朝鮮に帰り着いてそれから死のう。もうちょっと待て」苦しみながら私はそう思いました。あなた達日本の軍人は私の体は犯すことは出来ても、私の精神は絶対に犯すことは出来ない。と、そして日本は本当に負けたのです。

日本の軍人の中にもいい人はいました。その方のことは福岡からきた「伊藤」という人としか知りませんが、彼は日本が負けたとき、生き残っていた私たち「慰安婦」を防空壕に閉じこめてそのまま生き埋めにしてしまおうという日本軍の計画を、朝鮮人の兵士にこっそりうち明けたのです。それを知った朝鮮人兵士たちは手紙を書いて、2日に1度やってくるインドネシア人洗濯婦にそれを託し、早く連合軍に伝えるよう頼みました。そのおかげで私たちは帰ってくることができました。けれど同じ船で連れてこられた23人のうち、14人が死んでしまい9人しか帰ることは出来ませんでした。

シンガポールの収容所に着きました。でもその収容所には下関から船に乗ったとき、あれほどたくさんの少女達が乗っていたのに、それに比べるとほんのわずかな数しかいませんでした。みんな慰安所で死んだのでしょう。そして私たちは船がなかった為、収容所で1年くらい待たされました。それからやっと船が来て韓国に帰ることが出来たのです。

(他国の軍人のために身を売る娘はいない)
やっと故郷に帰ってきました。家は廃墟になっていました。自由になれるはずだった父は牢獄で亡くなり、母は自ら命を絶ったのです。そして日本人が勝手に私の家を使って、戦争が終わるとそのまま放って日本に帰ったのです。近所の人達は戻ってきた私に優しくしてくれました。でも私はアヘン中毒になっていました、私は苦しみながら考えました。日本人が私の体を犯し続けるために使った薬のために、なぜ振り回されなければならないのか?私は決心しました、アヘンを絶とうと。しかし7ヶ月という長い期間がかかりました、しばらくはその人がどういう人であろうが、男の人を見るだけで、たまりませんでした。(後略)

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