ルネサンスより未来へ

ルネサンス以降の歴史に隠されている法則性

未来へ

2010-05-29 09:12:21 | 70年150年周期説
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過去、現在から未来へ

2010-05-28 17:19:30 | 70年150年周期説
過去、現在から未来へ
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感謝

2010-05-22 10:19:22 | 70年150年周期説
70年150年周期説
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70年150年周期年説

2010-05-16 19:31:19 | 70年150年周期説
70年150年周期説
あの当時のこと

オリーブの栽培方法と歴史の大きな流れとの間に奇妙な一致がある事を見出した時の高揚感はすごいものだった。直前まで全く思っても見なかった類似性、相似性に気づいたのは自分にとっては驚天動地と言えるほどの衝撃だった。

ルネサンス時代の年表を見ていた時に、どういうわけか下記の記述が頭に浮かんできた。

ハロルド・N・モルデンケ、アルマ・L・モルデンケ共著『聖書の植物』奥本裕昭編訳、八坂書房刊、P.52~55
【オリーブを挿し木したまま放置すると野生化し、自由に伸びた枝が絡み合ってやぶのようになり、役に立たない小さな実しか結ばない。
野生のオリーブは栽培されたオリーブから派生したものだが、手入れされたものと違って、その葉は緑が濃くて小さく、細い。幹は堅くてとげが多く、一般に低木であるが、大きく成長して役に立たない小さな実をつけることもある。
そのような野生のオリーブの木の幹を切ってそこに栽培されたオリーブの木の枝を接木(つぎき)し丁寧に刈り込んで育てると、7年くらいで実をつけ始める。
しかし、たくさんの実をつけるようになるには、15年近くかかる。】
*     *     *

「野生のオリーブの木の幹を切って」を英仏百年戦争開始(開始年には異論があって1337年とする説、1338,1339、1340年とする説がある。)に当てはめたらどうなるのだろう。英仏百年戦争は「野生のオリーブの木の幹を切って」の表現にピッタリと当てはまるのではないか。

そして、大航海時代を見てみると、

バーソロミュー・ディアス喜望峰に到達     (1488年)

コロンブス、アメリカ発見            (1492年)

これは丁度、英仏百年戦争開始から150年ほど経過した時期に当たる。

「たくさんの実をつけるようになるには、15年近くかかる。」

バーソロミュー・ディアス喜望峰に到達(1488年)コロンブス、アメリカ発見(1492年)。この頃、西ヨーロッパ諸国において大きな展望が広がった。これまでより遥かに大きく視野が広がったのである。たくさんの実をつけるようになるのはこれ以後の事となる。「たくさんの実をつけるようになるには、」英仏百年戦争開始から150年近くかかっている。では、英仏百年戦争開始から70年ほど経過した時期(一四世紀のおわりか、たかだか一五世紀はじめまでのころ)はどのような状況にあったのだろうか。

「7年くらいで実をつけ始める。」

その時読んでいた高名な歴史学者の会田雄次氏が著した河出書房「世界の歴史 12ルネサンス 昭和48年8月30日 5版発行  P・111」 にはこう記述されている。
【社会に新興の精神があふれている時代はよい。それがいわゆる商人の英雄時代とよばれるものだ。ルネサンスでは、それはすでにふれたように一四世紀のおわりか、たかだか一五世紀はじめまでのころのことで、あとでは商人よりも政治家、利子生活者を望む傾向が強まってくる。それが、洗練された文化に高まるルネサンスの第2段階である。一六世紀には衰えが目立ってくる。だから一六世紀前半のいわゆる盛期ルネサンスは、ルネサンスの完成であるとともに、栄華の残照だといえよう。総じてルネサンス文化が短命なのは、商業が優越しすぎた理由によるのであろう。】
*     *     *

ヨーロッパ発展の時代1で詳しく記述したように、英仏百年戦争開始から70年ほど経過した時期(1507~1510年頃)に確かに、ルネサンス美術やルネサンス建築などの分野において新しい段階に高まりすばらしい実がなり始めている。ルネサンスの第2段階(新段階)に入っていったのだ。私が説明するまでも無く、オリーブの成長状況とヨーロッパ発展の時代1の進展状況との間には大きな類似性、相似性がある。この事だけでも私にとっては非常な驚きであった。

次にアメリカ発展の時代、現代から未来、イギリス発展の時代においてもオリーブの成長状況との大きな類似性、相似性を発見できた。

特に現代から未来にかけては、よりハッキリとした類似性がある。第一次世界大戦開始(1914年)、死者が4000万人~5000万人と言われるスペイン風邪の流行、世界恐慌、第2次世界大戦(野生のオリーブの木の幹を切って)から70年(7年)ほど経過した1980~90年の頃にそれまでの歴史を大きく縛り形作って来た冷戦体制が崩壊する。米ソ冷戦終結宣言は (1989年)。この頃に第2段階(新段階、一つの転換期・節目)が到来した。



まとめると、

オリーブの木の幹を切って、7年(転換期、節目)   15年(大転換期、飛躍期)

英仏百年戦争開始から   70年(転換期、節目)  150年(大転換期、飛躍期)

三十年戦争開始から    70年(転換期、節目)  150年(大転換期、飛躍期)

アメリカ独立戦争開始から 70年(転換期、節目)  150年(大転換期、飛躍期)

第一次世界大戦開始から  70年(転換期、節目)  150年(大転換期、飛躍期)

となる。

この70年150年周期説を見出した時の劇的とも言える高揚感はもうない。しかし、現在もなお、ルネサンス以降の歴史の流れには完全なる一致ではないが、非常に大きな類似性、相似性があると考えている。

70年150年説ヨーロッパ発展の時代2(イギリス発展の時代飛躍期)

2010-05-16 08:30:32 | 70年150年周期説
ヨーロッパ発展の時代2 (イギリス発展の時代完成期・飛躍期)



l    準大航海時代の幕開け。

フルトンがセーヌ川で蒸気船の実験に成功(1803年)。ニューヨーク、オルバニー間の定期蒸気船クラーモント号の完成(1807年)。

出典「ロバート・フルトン」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。最終更新 2007年7月4日 (水) 20:56。 21:42。UTC、URL: http://ja.wikipedia.org/
【ロバート・フルトン(Robert Fulton、1765年11月14日 - 1815年2月24日)は、アメリカの技術者で発明家である。
ロバート・フルトンは、ペンシルバニア州ランカスタで生まれた。ナポレオンの依頼により、世界初の実用的な潜水艦であるノーチラス号を設計した。
また、彼が1810年頃作成した機雷は最初の係維式触角機雷で、最初の近代的機雷といわれている。
彼は1807年ハドソン川で蒸気船の実験をして成功し、実用化にこぎつけたことでも有名である。】
*     *     *

ちなみに、イギリスの世界覇権確立への最大の挑戦はナポレオンによってなされる。ナポレオンはヨーロッパの大半を制覇するが、ロシア遠征で大敗北を喫し没落する。
イギリスの覇権が決定的に揺らぐようなことはなかった。

ナポレオン

イタリア遠征       (1796~97年)

エジプト遠征       (1798~99年)

マレンゴの戦い      (1800年)

トラファルガー海戦    (1805年)

アウステルリッツの戦い (1805年)

イエナの戦い       (1806年)

ヴァグラムの戦い     (1809年)

ロシア遠征        (1812年)

以上の事から、イギリス発展の時代においても、三十年戦争を起点として70年経過した頃から第2段階に入って行き、約150年後に七年戦争で大植民地帝国を築き、産業革命が始まって世界中で最も優位な立場にたった。これは非常に明確である。これまで述べてきた事柄により、明らかに「70年150年説」が適用される。

パックス・ブリタニカの定義は様々なようだが、七年戦争、パリ条約、産業革命の頃がイギリスのみならず、世界的な大転換期となった。また、イギリスにとって非常に大きな飛躍期となった。
これまで述べてきた事を図表として簡潔にまとめてみた。




70年150年説ヨーロッパ発展の時代2(イギリス発展の時代飛躍期)

2010-05-15 20:54:42 | 70年150年周期説
ヨーロッパ発展の時代2 (イギリス発展の時代完成期・飛躍期)



七年戦争

l   1763年、七年戦争終結、パリ条約。イギリスが世界の覇権国となる。

以下は日本実業出版社、宮崎正勝著「早わかり世界史 P.199」より
【内陸国家であったフランスも、蔵相コルベールのもとで1664年に東インド会社を再建して北アメリカやインドに進出し、毛織物を輸出する外国貿易に積極的に参入することになった。
フランスは、1689年以降イギリスの覇権に対する挑戦を続けた。だが七年戦争(1756~63)に際して北アメリカとインドでの戦いに敗れて、ルイジアナ、カナダなどの北アメリカ植民地をすべてイギリスに譲り、インドにおける主導権も失い、ここにイギリスが覇権国となったのである。】
*     *     *

以下は河出書房新社 2004年5月20日 2刷発行ふくろうの本、指 昭博著、図説「イギリスの歴史 P.90~91」より
【一七六三年、パリで講和条約が結ばれた。このパリ条約は、いわばイギリス「帝国」の一人勝ちであった。西インドのグアドループは返還したものの、カナダ、ミシシッピ以東のルイジアナをフランスから獲得し、フロリダをスペインから割譲されるとともに、インドからフランスの勢力を、ポンディシェリやシャンデルナゴルなど一部の都市を除いて、ほぼ一掃することができた。大西洋を挟んだ植民地帝国を確立し、さらに東方には後の帝国の核となるインドが控えていたのである。この帝国の完成はこの後のイギリスの発展に決定的な意味を持つことになる。】
*     *     *

70年150年説ヨーロッパ発展の時代2(イギリス発展の時代飛躍期)

2010-05-15 10:41:55 | 70年150年周期説
ヨーロッパ発展の時代2 (イギリス発展の時代完成期・飛躍期)



産業革命がイギリスで始まり、フランスではなかった主な相違が広大な植民地だけにあるとするような考え方もある。しかし、 織機・紡績機の改良、製鉄技術の改良、 動力源の開発、蒸気機関の改良、蒸気機関車の発明、技術力、移動手段の発達など、ニュートンに代表されるような科学的思考、知的、精神的先進性・科学革命などの要因が非常に大きく働いている。イギリスはそれらの要因において当時のフランスを凌駕していた。さらに政治体制の違いも大きな要因の一つとなる。当時のイギリスは立憲君主制、フランスは絶対王政であった。筆者はより民主的な立憲君主制と絶対王政との違いも非常に大きな要因だと考えられる。

出典「フランス革命」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。最終更新 2009年10月18日 (日) 01:13 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org/
【前略
革命前夜
時代背景
18世紀のヨーロッパ各国では、自然権や平等、社会契約説、人民主権論など理性による人間の解放を唱える啓蒙思想が広まっていた。責任内閣制を成立させ産業革命が起こりつつあったイギリス、自由平等を掲げ独立を達成したアメリカ合衆国は、他国に先駆けて近代国家への道を歩んでいた。プロイセンやロシアでも、絶対君主制の枠を超えるものではなかったものの、政治に啓蒙思想を実践しようとした啓蒙専制君主が現れた。
しかしフランスでは18世紀後半に至っても、君主主権が唱えられブルボン朝による絶対君主制の支配(アンシャン・レジーム)が続いていた。アンシャン・レジーム下では、国民は三つの身分に分けられており、第一身分である聖職者が14万人、第二身分である貴族が40万人、第三身分である平民が2600万人いた。第一身分と第二身分には年金支給と免税特権が認められていた。
一方でアンシャン・レジームに対する批判も、ヴォルテールやルソーといった啓蒙思想家を中心に高まっていた。自由と平等を謳ったアメリカ独立宣言もアンシャン・レジーム批判に大きな影響を与えた。
後略】
*     *     *

余談になるが、次に大きな発展を成し遂げるのはアメリカ合衆国である。アメリカ合衆国成立により初めて国民主権国家が生まれ、民主主義が発展して行く。如何にして国民一人ひとりが活性化し、その才能をどこまで伸ばす事ができるかが国の繁栄の重要な要素になる。現在の政治体制では、様々な問題を抱えながらも、民主主義が最良の方法だと思われる。


70年150年説ヨーロッパ発展の時代2(イギリス発展の時代飛躍期)

2010-05-14 19:58:22 | 70年150年周期説
ヨーロッパ発展の時代2 (イギリス発展の時代完成期・飛躍期)

産業革命がイギリスで始まった理由

資本・   毛織物工業、綿工業など、工場制手工業の発達による資本の蓄積、三角貿易による大きな利益

資源・   鉄鉱石や石炭などの地下資源に恵まれていた

労働力・  農業革命による人口の増加、囲い込みで土地を失った農民の増加

知的、精神的先進性・ プロテスタント信仰や科学革命

技術力・  蒸気機関の改良、蒸気機関車の発明など

市場・   広大な植民地の獲得

おもに以上のような条件が関連しあってイギリスで産業革命が引き起こされたと考えられる。それぞれが重要な役割を果たしているのだが、ここでは科学技術の進歩と市場の拡大に関する記事だけを少し引用しておきたい。

出典「産業革命」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。最終更新 2007年10月14日 (日) 21:42。UTC、URL: http://ja.wikipedia.org/
【産業革命の進展
織機・紡績機の改良
1733年ジョン・ケイが、織機の一部分である杼を改良した飛び杼を発明し織機が高速化された。綿布生産の速度が向上したために、旧来の糸車を使った紡績では綿糸生産能力が需要に追いつかなくなった。そのため、1764年ハーグリーヴズのジェニー紡績機、1769年リチャード・アークライトの水力紡績機、そしてこれらの特徴を併せ持ったクロンプトンのミュール紡績機が1779年に誕生し、綿糸供給が改良される。それを受けてエドモンド・カートライトが蒸気機関を動力とした力織機を1785年に発明し、さらに生産速度は上がった。
製鉄技術の改良
繊維業とならんでイギリス産業革命の推進役となったのが製鉄業である。イギリスでは既に16世紀頃から鉄製品に対する需要が高まっていたが、当時は製鉄には木炭を用いていたため、急速に成長する鉄需要に対応するうちに木材が深刻に不足し、17世紀にはロシアやスウェーデンから鉄を輸入する事態となっていた。しかし18世紀に入り、コークス製鉄法がエイブラハム・ダービーによって開発されたことで状況は一変する。コークスは石炭から作られ、イギリスには石炭が豊富に存在したからである。その後更に改良が加えられ、19世紀始めには良質の鋼鉄も作られるようになった。この様な鉄の需要は、はじめのうちは生活革命によって使用されるようになった軽工業製品によって牽引されたが、やがて産業革命が進むにつれて、工業機械や鉄道のためにさらなる鉄が必要となっていった。イギリスで作られた工業機械は、海外へ輸出され、ドイツなどの工業化を進めることとなった。
動力源の開発
石炭の採掘が盛んになると、炭坑に溜まる地下水の処理が問題となった。こうした中、1712年にニューコメンによって蒸気機関を用いた排水ポンプが実用化された。1785年、ワットが蒸気機関のエネルギーをピストン運動から円運動へ転換させることに成功、この蒸気機関の改良によって、様々な機械に蒸気機関が応用されるようになった。それまで工場は水力を利用するために川沿いに建設するほかなかったが、ワットが蒸気機関を改良したことによって、川を離れ都市近郊に工場を建設することが可能となった。これにより新興商工業都市は更なる成長を遂げるが、一方で過密による住環境の悪化を招くこととなる。
移動手段の発達
1807年のフルトンによる蒸気船の発明、1804年のトレビシックによる蒸気機関車の発明とスティーブンソンによるその改良によって人間・貨物の移動がより容易になった。】
*     *      *

以上の記述の中に出てくる人物はフルトン(アメリカ人)以外全てイギリス人である。(ジョン・ケイ、ハーグリーヴズ、リチャード・アークライト、クロンプトン、エドモンド・カートライト。エイブラハム・ダービー、ニュー・コメン、トレビシック、ワット、スティーブンソン。)

産業革命がイギリスで始まり、フランスではなかった主な相違が広大な植民地だけにあるとするような考え方もある。しかし、 織機・紡績機の改良、製鉄技術の改良、 動力源の開発、蒸気機関の改良、蒸気機関車の発明、技術力、移動手段の発達など、ニュートンに代表されるような科学的思考、知的、精神的先進性・科学革命などの要因が非常に大きく働いている。イギリスはそれらの要因において当時のフランスを凌駕していた。さらに政治体制の違いも大きな要因の一つとなる。当時のイギリスは立憲君主制、フランスは絶対王政であった。筆者はより民主的な立憲君主制と絶対王政との違いも非常に大きな要因だと考えている。

70年150年説ヨーロッパ発展の時代2(イギリス発展の時代飛躍期)

2010-05-14 09:16:28 | 70年150年周期説
ヨーロッパ発展の時代2 (イギリス発展の時代完成期・飛躍期)



1618年より150年経過した1768年頃に産業革命がおきる。辞典などで調べていただければすぐ解かるように産業革命は1760年代に始まっている。産業革命は技術革命、動力革命、交通革命が組み合わさったものであり、これによってイギリスは「世界の工場」として大発展をとげる。人類全体に対しても大変革をもたらす事になる。イギリス発展の時代の完成期・飛躍期に入っていくのはこの時期をおいて他にない。この時代に関しては非常に明白に理解できると思われる。

産業革命
l    1760年代、産業革命が起きる。技術革命、動力革命、交通革命

産業革命は、これまでの農業中心の社会から工業化社会への大転換点となった。

以下は日本文芸社、鈴木晟監修、鈴木旭/石川理夫著「面白いほどよくわかる世界史P.230~231より」

【●産業革命

近代市民社会の政治的側面を「主権在民」とするなら、経済的側面は産業革命とそれにともなう資本主義の成立である。

一八世紀後半にまずイギリスが産業革命に突入し、やがて一九世紀前半にいたって欧米各国に波及した。それは生産の観点からすれば人力から動力ヘの変化であり、マニュファクチュアから工場制機械工業の変化であった。」

生産力は飛躍的に増大し、都市への人口集中が進んだ。環境悪化や劣悪な労働条件などの新たな問題が発生したが、欧米の市民が経済的発展という果実を手にしたことは疑いない。】

*     *      *

以下は、日本実業出版社、宮崎正勝著「早わかり世界史 P.202」より

【産業革命によって人類は大変貌をとげる

今から、二百数十年前、人類社会は「産業革命」によって再度の大変貌をとげた。この革命により人類社会は飛躍的に成長する。

1760年代、イギリスで始まった産業革命は、機械の発明から、動力としての蒸気機関の利用、鉄道と蒸気船の登場につながり、本格的な資本主義経済を出現させた。

都市には多くの工場がつくられ都市入口は急激に増え、それまでは数えるほどしかなかったような大都市が無人の地に次々と生まれた。

いち早く産業革命を開始したイギリスは「世界の工場」として世界経済をリードしたが、1830年代以降になると、大陸諸国も産業革命を開始した。】

*     *      *

以下はかんき出版刊、小松田直著「手にとるように世界史がわかる本P.284」より

【◆遅れていたヨーロッパは工業化で大転換

18世紀後半のイギリスで始まった「産業革命」は、ヨーロッパだけでなく、のちに世界を一変させる大転換でした。それまでは都市はあっても大部分が農村で、飢饉や貧困に苦しんでいましたし、科学技術の点でも、中世までのヨーロッパは中国やイスラム世界に後れを取っていたのです。

しかし、イギリスで工業化がはじまると、技術革新の波はあっという間にヨーロッパ各地へ広がり、人々の暮らしが激変したのです。

*     *     *


70年150年説ヨーロッパ発展の時代2(イギリス発展の時代第2段階)

2010-05-12 20:02:56 | 70年150年周期説
ヨーロッパ発展の時代2 《イギリス発展の時代第2段階(中期、あるいは転換期、新段階)》



オランダの凋落、対インド貿易の発展、綿織物工業の発展、経済環境の整備、対外発展、経済的発展、対立していたオランダとの同君連合ともいえる密接な連合、第二次百年戦争開始などにより、イギリス発展の時代は第2段階(中期、あるいは転換期、新段階)に入って行く。この頃からイギリスは最も優位に立つ国として世界的地位を築いていく事になる。これまではスペイン、オランダに対する挑戦者の立場にいたのである。イギリスにとって、この頃が劇的な転換点となっている。確かにイギリスが新しい段階に踏み込んだ事は疑問を抱く余地のない事だと考えている。この事をさらに強く象徴するのはイングランドとスコットランドが正式に合併し、グレート・ブリテン王国が成立した事である。(1707年)

l グレート・ブリテン王国の成立

出典「グレートブリテン王国」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。最終更新 2010年1月1日 (金) 21:17 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org/ 
【グレートブリテン王国(グレートブリテンおうこく、Kingdom of Great Britain、1707年 - 1800年)は、イングランド王国(ウェールズを含む)とスコットランド王国の合同により成立した王国。グレートブリテン島全体を支配した初めての国家。グレートブリテン連合王国(United Kingdom of Great Britain)とも呼ばれる。
概要
1603年にステュアート朝のジェームズ1世がイングランドとスコットランドの王を兼ねて以来、両国は同君連合の関係にあったが、アン女王の1707年の「1707年連合法」により、両国の議会は統一され、両国が一体となった。ただし、1999年にスコットランドの自治拡大政策によってスコットランド議会は復活する事になる。
1800年連合法の成立により、1801年にアイルランド王国と合同し、名称をグレートブリテンおよびアイルランド連合王国と改称した。】
*     *     *

出典「イギリスの歴史」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。最終更新 2009年12月22日 (火) 09:22。 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org/ 
【イギリスの歴史
前略
グレートブリテン王国の成立
アンの治世1707年にイングランドとスコットランドの合同法が成立し、両王国はこれまでの同君連合から連合王国としてのグレートブリテン王国として一体化した。このためアン女王が最後のイングランド王位とスコットランド王位の保持者となり、またグレートブリテン王国の最初の君主となった。なお、アイルランド王位は依然として分離されており、正式には大ブリテン及びアイルランド王国となる。
また、すでに清教徒革命と名誉革命の市民革命を経験していたイギリス史においては、この頃から近代史として扱うのが一般的である。
後略】
*     *     *