ルネサンスより未来へ

ルネサンス以降の歴史に隠されている法則性

70年150年説ヨーロッパ発展の時代2(イギリス発展の時代第2段階)

2010-05-11 18:11:55 | 70年150年周期説
ヨーロッパ発展の時代2 《イギリス発展の時代第2段階(中期、あるいは転換期、新段階)》



元に戻って、名誉革命が成し遂げられた頃のイギリスの状態を見てみる。

l   インド産綿織物の需要が高まり、主要な輸入品となる。イギリスで綿織物工業が発展する。

l   イングランド銀行設立(1694年)、ロンドン株式取引所設立(1698年)などによりイギリスの経済活動は根底からの変革をとげる。

以下は河出書房新社 2004年5月20日 2刷発行「ふくろうの本」指 昭博著「図説 イギリスの歴史 P.79~80」より
【このファルツ継承戦争は、当然、莫大な軍事費を必要とした。従来のような課税に頼っていては破綻は確実であったため、国債という新しいシステムが導入された。一六九四年には国債を引き受けるために「イングランド銀行」が設立される。これは、戦費ばかりでなく、国家財政の在り方を根底から変革するものであった。】
*     *     *

オランダの凋落、対インド貿易の発展、綿織物工業の発展、経済環境の整備、対外発展、経済的発展、対立していたオランダとの同君連合ともいえる密接な連合、第二次百年戦争開始などにより、イギリス発展の時代は第2段階(中期、あるいは転換期、新段階)に入って行く。この頃からイギリスは最も優位に立つ国として世界的地位を築いていく事になる。これまではスペイン、オランダに対する挑戦者の立場にいたのである。イギリスにとって、この頃が劇的な転換点となっている。確かにイギリスが新しい段階に踏み込んだ事は疑問を抱く余地のない事だと考えている。この事をさらに強く象徴するのはイングランドとスコットランドが正式に合併し、グレート・ブリテン王国が成立した事である。(1707年)




70年150年説ヨーロッパ発展の時代2(イギリス発展の時代第2段階)

2010-05-10 20:36:19 | 70年150年周期説
ヨーロッパ発展の時代2 《イギリス発展の時代第2段階(中期、あるいは転換期、新段階)》



英仏第二次百年戦争
この頃からフランスとの長期に渡る本格的な攻防が幕を開ける。

l 英仏第二次百年戦争始まる(1689~1815年)

以下は、日本実業出版社、宮崎正勝著「早わかり世界史 P.199」より
【フランスは、1689年以降イギリスの覇権に対する挑戦を続けた。だが七年戦争(1756~63)に際して北アメリカとインドでの戦いに敗れて、ルイジアナ、カナダなどの北アメリカ植民地をすべてイギリスに譲り、インドにおける主導権も失い、ここにイギリスが覇権国となったのである。
イギリスとフランスの植民地をめぐる一連の対立は1815年までの126年間続いたので、イギリスの歴史家シーリーは『イギリスの膨張』の中で「第二次百年戦争」と呼んでいる。】
*     *     *

ここでまず、限定的に北米植民地戦争をみておく事にする。

出典「北米植民地戦争」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。最終更新 2008年8月16日 (土) 23:44 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org/
【北米植民地戦争(ほくべいしょくみんちせんそう)は、17世紀から18世紀にかけて植民地時代の北米大陸で行われた一連の抗争の総称。各植民地戦争は欧州における国家間の戦争に呼応している。一連の抗争はアメリカ合衆国でのみFrench and Indian Warsと総称されるが、後述のフレンチ・インディアン戦争と紛らわしいので、ここでは表記のタイトルとする。フランス植民地であったケベックでは、Intercolonial Warsとも呼ぶ。
北米でのこれら戦争は、スペインやオランダが参加することもあったが、基本的には「イギリス、その北米植民地、同盟するインディアン部族軍」対「フランス、その北米植民地、同盟するインディアン部族軍」という構図で戦われた。拡張する英仏の北米植民地は西部あるいは内陸地域の支配権をめぐって競合し、ヨーロッパで戦争が起きると必ず北米大陸に波及した。一連の北米植民地戦争は次の通り。
ウィリアム王戦争、アン女王戦争、ジョージ王戦争、フレンチ・インディアン戦争
中略
歴史的評価
戦争の進行につれて英国の優位が次第に明白となった。フランスのヌーベルフランス植民地(カナダ)に対して英国のアメリカ植民地が人口でも生産力でも優位にあり、フランスはインディアン同盟軍の効果的な使用によって補おうとしたが結局は英国に圧倒された。
皮肉にも英国の圧倒的勝利はニューイングランド植民地の喪失を招いた。フランスの脅威がなくなると、ニューイングランド植民地は英国の軍事的保護をほとんど必要としなくなり、むしろ新たに獲得したカナダがニューイングランドから分離支配されたことに不満を抱くようになった。これが結局はアメリカ独立戦争となって爆発することになる。
またウィリアム3世によって開始された英仏の抗争はナポレオン戦争終結まで続き、第2次百年戦争と呼ばれることもある。】
*     *     *

以下はかんき出版刊、小松田直著「手にとるように世界史がわかる本P.266~267」より
【ルイ14世の時代、それまで活動を停止していたフランス東インド会社が再興されてインドに進出しフランスはイギリスと争うようになります。以後、約100年にわたって、英仏はヨーロッパのみならず、インドや北米の植民地でも戦いました。探検家として有名なキャプテン・クックも、一時イギリス海軍に在籍してフランスと戦っています。
この第二次百年戦争ともいうべき抗争は最終的にイギリスが勝利し、フランスはルイ14世にちなんで命名されたルイジアナをはじめ、カナダも含む北米植民地のすべてとインドの大部分を失いました。】
*     *     *

イギリスは名誉革命で即位したオランダ統領でもあるウィリアム三世の時代に世界強国への確かな一歩を踏み出す結果となった。



70年150年説ヨーロッパ発展の時代2(イギリス発展の時代第2段階)

2010-05-09 19:55:04 | 70年150年周期説
ヨーロッパ発展の時代2 《イギリス発展の時代第2段階(中期、あるいは転換期、新段階)》



名誉革命から第二次英仏百年戦争へ

イギリスがフランスより優位に立つ事ができたのは、オランダのオラニエ公ウィレム(ウィリアム三世)による所が大きい。
17世紀の終わり頃、覇権国オランダが凋落の傾向にあった時、ヨーロッパ諸国で大きな影響力を持ったのはイギリスではなくフランスであった。当時のフランスはルイ14世(太陽王)を君主に頂き、勢力を拡大していた。
1688年にフランスとアウグスブルク同盟(オランダ、スペイン、スウェーデン、神聖ローマ皇帝レオポルト1世、バイエルン選帝侯、ブランデンブルク選帝侯、ファルツ選帝侯など)との間で戦争が始まる。
この後、同じ年に名誉革命が勃発し、1689年、オランダ統領オラニエ公ウィレム3世がイングランド王ウィリアム3世としてイングランド王に推戴される。イギリスはアウグスブルク同盟に参加、反フランスの先頭に立っていたオランダと共にフランスに対抗、大同盟戦争を戦うことになる。
イギリス、フランス両国から見ればこれが第2次英仏百年戦争の始まりとなる。第2次英仏百年戦争初期は「絶対王政(絶対君主制)フランス」対民主的な「議会王政(立憲王政・立憲君主制)イギリス」の戦いとも考えられる。
名誉革命を境としてオランダと同君連合に近い強い結びつきを得たイギリスが、これまでのフランス優位の立場を逆転し、イギリス優位の立場を築いてゆくことになる。
では、英仏第二次百年戦争の開始となった大同盟戦争を見てみる。

大同盟戦争(1688~1697年、アウグスブルク同盟戦争とも九年戦争、ファルツ戦争、ファルツ継承戦争)ともいう。まず、大同盟戦争におけるイングランドとフランスとの戦いを主に眺めてみる。北米での戦い(ウィリアム王戦争)はフランス有利に進む。しかし、1690年、イングランド軍はボイン川の戦いでフランス・アイルランド連合軍を破った。1692年にはイングランド艦隊がラ・ホーク岬の海戦でフランス艦隊に対して大勝利を収めている。イングランド、スペイン、オランダ、オーストリアなどのアウグスブルク同盟はフランスのファルツ継承を阻止した。
イギリス発展の時代としてみれば名誉革命の頃に大転換期が訪れ、第2段階(新たなステージ)に入って行った。
 名誉革命以後、立憲王政(立憲君主制)が確立し、1715年、1745年に反革命勢力ジャコバイトの反乱が起きるが、鎮圧され、国内は長期安定化に向かう。対外的には、さらに拡大して行く事になる。
ここでイギリス発展の時代初期からの政治体制を大きく捉えておきたい。


70年150年説ヨーロッパ発展の時代2(イギリス発展の時代第2段階)

2010-05-09 08:42:28 | 70年150年周期説
ヨーロッパ発展の時代2 《イギリス発展の時代第2段階(中期、あるいは転換期、新段階)》



名誉革命(イギリスとオランダ)その2

名誉革命がなされ権利の章典が発布される。これにより議会中心の立憲君主制が樹立されて国王に対する議会の優位が確立される。又、イギリス国王になったオランダのオラニエ公ウィレム(ウィリアム三世)の影響も大きかった。このオラニエ公ウィレムは第三次英蘭戦争でイギリス・フランスを相手にオランダ軍を指揮している。名誉革命以後イギリス・オランダの関係も全く新しい局面を迎えることになる。

以下は河出書房新社 2004年5月20日 2刷発行「ふくろうの本」指 昭博著「図説 イギリスの歴史 P.79」より
【ウィリアムの外交の基本はフランスが拡張することを抑えることにあり、そのために、積極的にヨーロッパの戦争に参加した。一六八九年に始まるファルツ継承戦争(ウィリアム王戦争)では、スペイン、オランダ、ドイツ諸侯と組んでフランスと戦い、講和条約で自らの王位をルイ一四世に承認させた。いわば、オランダという国際紛争の焦点で外交・戦争の荒波に揉まれてきたウィリアムによって、イギリスもまた国際政治の表舞台での経験を重ねていくこととなり、世界強国への確かな一歩を踏み出す結果となった。】
*     *     *

三十年戦争を起点として約70年経過した頃から英仏第二次百年戦争が始まった。この時にはこれまでの覇権国に対する挑戦者ではなく、むしろフランスの挑戦を受ける覇権国としての立場を築いていくことになる。イギリス発展の時代初期直前、イギリスはヨーロッパにおいて弱小国家にすぎなかった。英仏第二次百年戦争という大きな枠組みの中で動き出すことになったイギリスはヨーロッパにおける勢力争いで更に高いレベルに達し、世界の覇権において優位な状況を保つ強国になってゆくのである。これは明らかに新段階(本書では第2段階)に入っていった事を意味する。
ここで鍵となる人物に注目したい。

ウィリアム3世
出典「ウィリアム3世 (イングランド王)」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。最終更新 2009年3月30日 (月) 00:30 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org/より
【ウィリアム3世(William III (of Orange) 、1650年11月14日 - 1702年3月8日)は、オラニエ公・ナッサウ伯(在位:1650年11月14日 - 1702年3月8日)、ネーデルラント連邦共和国統領(在職:1672年6月28日 - 1702年3月8日)、イングランド王・スコットランド王・アイルランド王(在位:1689年2月13日 - 1702年3月8日)。スコットランド王としてはウィリアム2世。イングランド女王・スコットランド女王・アイルランド女王メアリー2世は妻。オランダ名はヴィレム3世(Willem III van Oranje-Nassau)。オラニエ=ナッサウ家の出身であるが、ステュアート朝の王の1人に数えられている。
中略
イングランド王位
1688年、イングランド議会の要請を受け、ヴィレム3世はオランダ軍を率いてイングランドに上陸。義理の父ジェームズ2世をフランスに追放した。イングランドでは1人の死者も出すことなく体制変革に成功したため、名誉革命と呼ばれている。
1689年2月にヴィレムはウィリアム3世として国王に即位し、女王となった妻メアリー2世とともにイングランドの共同統治者となった。当初、イングランド議会の意向はメアリーの単独統治であり、ヴィレムは女王の夫(王配)としてのみ遇されるはずであった。しかしヴィレムはそれに反発し、オランダ軍の撤収もちらつかせながら、チャールズ1世の外孫である自らも王位に就くことを望んだため、イングランドはウィリアム3世とメアリー2世を同格の君主として戴くことになった。
ここにおいて、これまで3度の英蘭戦争を戦ってきた両国は同君連合に近い形となった(オランダ統領は元首ではあっても君主とはいえないが、事実上オランダの君主と言える)。ウィリアム3世の治世中、イングランド軍の司令官にオランダ人が任命されたり、オランダ人がイギリス貴族に叙任されることもあった。
ウィリアム3世のイングランドは直ちにアウクスブルク同盟に参加した(この同盟は大同盟と呼ばれ、アウクスブルク同盟戦争は大同盟戦争とも呼ばれることになる)。これに対しルイ14世は、フランスに亡命したジェームズ2世を援助し、フランス軍を率いてアイルランドを制圧すると、ウィリアム3世は自ら軍を率いてアイルランドに渡り、ボインの戦いでジェームズ2世を破った。またスコットランドの反乱も鎮圧されると、今度は本国オランダに帰ってルイ14世と戦った。英仏の抗争は北アメリカにも拡大し、英領アメリカの植民地とフランス領カナダで戦争が行なわれた。これはウィリアム王戦争と呼ばれる。ウィリアム3世の生涯は、オランダに対するフランスの侵略と戦うことに費やされた。
中略
歴史的評価
王政復古したチャールズ2世やジェームズ2世時代のイングランドは、太陽王ルイ14世が支配するフランスの衛星国のような存在だった。ところがウィリアム3世はオランダをフランスの侵略から守るために、大同盟戦争でイングランドを反フランス路線に引き込んだ。そもそも名誉革命自体が、この目的のためにイングランドの政治的混乱に乗じた、ウィリアム3世の軍事侵攻による政変劇に過ぎないとする見方さえある。18世紀になるとイギリス(グレートブリテン王国)は常にフランスに対抗し、スペイン継承戦争からオーストリア継承戦争を経て七年戦争でイギリスはカナダ、インドなどフランスの海外植民地をすべて奪い、19世紀のナポレオン戦争で世界的な覇権を樹立する。この一連の戦争は第二次英仏百年戦争と総称されることもある。イギリス帝国の前半期はフランスとの抗争に打ち勝った時代だといってよい。このようなイギリスの反フランス路線をセットしたのがウィリアム3世だった。国内的に権利の章典がイギリス議会政治の一里塚だった以上に、国際関係においてイギリス史の転換点を構築した。
一方、オランダにとって、統領ウィレム3世のイングランド王即位によるイングランドとの連合は、長期的には不利益をもたらした。イングランドとの条約でオランダ海軍はイングランドを上回らないよう制限が設けられ、共同作戦の指揮権も握られた。以後オランダ海軍はイングランド海軍の下風に甘んじることになった。さらに貿易や海運でもイングランドに掣肘されることになり、オランダは次第に凋落へと向かっていった。】
*     *     *

イギリスがフランスより優位に立つ事ができたのは、オランダのオラニエ公ウィレム(ウィリアム三世)による所が大きい。


70年150年説ヨーロッパ発展の時代2(イギリス発展の時代第2段階)

2010-05-08 17:07:53 | 70年150年周期説
ヨーロッパ発展の時代2 《イギリス発展の時代第2段階(中期、あるいは転換期、新段階)》



名誉革命(イギリスとオランダ)その1

まず、なぜ名誉革命の後に(イギリスとオランダ)と付け加えたのか?
イギリス発展の時代であれば、見出しは(名誉革命)だけになるのが普通だと考えられる。しかし、この革命は実にヨーロッパらしいとも考えられる(特に日本では殆ど考えられない。)現象を引き起こしている。それまでは共に敵対的色合いの濃厚だった関係が、オランダの統領オラニエ公ウィレム(ウィリアム三世)を軸にして同君連合ともいえる関係に変化したからだ。オラニエ公ウィレム(ウィリアム三世)は英蘭戦争でイギリス軍と戦っていたのである。そのオランダの統領をイギリスは国王として頂く事になったのだ。
イギリスとオランダは名誉革命を境にして新しい結びつきを得たのである。イギリス、オランダは確かに大きな転換期を迎えた。イギリス、オランダの大きな転換期はヨーロッパ全体にも大きな影響を与える。

l   名誉革命        (1688年)

l   権利の章典       (1689年)

出典「名誉革命」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。最終更新 2007年10月19日 (金) 16:14。 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org/
名誉革命(めいよかくめい、Glorious Revolution)は、1688年から1689年にかけて、ステュアート朝のイングランド王ジェームズ2世(スコットランド王としてはジェームズ7世)を王位から追放し、ジェームズ2世の娘メアリーとその夫でオランダ統領のウィリアム3世をイングランド王位に即位させたクーデター。イングランドではほぼ無血革命だった為「名誉革命」と呼ばれるが、スコットランドやアイルランドでは無血ではなかった。清教徒革命と併せて、イギリスにおける近代市民社会の前提を整えたという観点から「イギリス革命」と呼ぶ場合もある。】
*     *     *

出典「権利の章典」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。最終更新 2007年10月6日 (土) 17:41。UTC、URL: http://ja.wikipedia.org/
【権利の章典(けんりのしょうてん、英: Bill of Rights)は、イギリスの不文憲法の法典である。正式名称は「臣民の権利と自由を宣言し,王位の継承を定めるための法」。 権利章典と表記される場合もある。
1688年、名誉革命によりジェームズ2世が追放、廃位されると、オランダよりウィリアム3世とメアリー2世が迎えられ即位。1689年、上下両院の奏上のもと国王の理解により権利請願をもとに成文化した。法典は現在も有効であり、イギリスでは憲法同等の根本法となっている(これゆえイギリスには成文憲法はない)。これ以降、イギリス国王は「君臨すれども統治せず」の原則に従う立憲君主であることが確定した。】
*     *     *

名誉革命がなされ権利の章典が発布される。これにより議会中心の立憲君主制が樹立されて国王に対する議会の優位が確立される。又、イギリス国王になったオランダのオラニエ公ウィレム(ウィリアム三世)の影響も大きかった。このオラニエ公ウィレムは第三次英蘭戦争でイギリス・フランスを相手にオランダ軍を指揮している。名誉革命以後イギリス・オランダの関係も全く新しい局面を迎えることになる。




70年150年説ヨーロッパ発展の時代2(イギリス発展の時代第2段階)

2010-05-08 09:15:09 | 70年150年周期説
ヨーロッパ発展の時代2 《イギリス発展の時代第2段階(中期、あるいは転換期、新段階)》



ここからは、三〇年戦争が勃発した1618年より70年経過した1688年頃の出来事を見てみよう。この頃の大きな出来事として、

l   ニュートン 自然科学史上最高の古典とされる「プリンキピア」(1687年)出版

l   名誉革命        (1688年)
l   権利の章典       (1689年)

l   英仏第二次百年戦争始まる(1689~1815年)

l   インド産綿織物の需要が高まり、主要な輸入品となる。イギリスで綿織物工業が発展する。

l   イングランド銀行設立(1694年)、ロンドン株式取引所設立(1698年)などによりイギリスの経済活動は根底からの変革をとげる。

l   グレート・ブリテン王国の成立

などが揚げられる。

l   ニュートン 自然科学史上最高の古典とされる「プリンキピア」(1687年)出版
ニュートン力学は科学的思考の基礎となり、産業革命と工業化技術の基礎となった。

出典「アイザック・ニュートン」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。最終更新 2007年10月21日 (日) 06:21。  UTC、URL: http://ja.wikipedia.org/
【サー・アイザック・ニュートン(英:Sir Isaac Newton, ユリウス暦:1642年12月25日 - 1727年3月20日、グレゴリオ暦:1643年1月4日 - 1727年3月31日)はイングランドの科学者。古典物理学および数学において極めて大きな業績を残した。
人物
主著"Philosophiae Naturalis Principia Mathematica"「自然哲学の数学的諸原理(プリンキピア)」(1687年7月5日刊)のなかで万有引力の法則と、運動方程式について述べ、古典数学を完成させ、古典力学(ニュートン力学)を創始。これによって天体の運動を解明した。またゴットフリート・ライプニッツとは独立に微積分法(流率法)を発明した。光学において光のスペクトル分析などの業績も残した。ニュートン式反射望遠鏡の製作でも有名である。(なお、反射望遠鏡の発明者だとする伝記は誤りである。)
ニュートンは、地球と天体の運動を初めて実験的に示し、太陽系の構造について言及した。また、ケプラーの惑星運動法則を力学的に解明した一人であり、天体の軌道が楕円、双曲線、放物線に分かれることを示した。また、光の粒子説を唱えたことでも知られている。また、白色光がプリズム混合色であるとして色とスペクトルの関係について唱えた。虹の色数を7色だとしたのも彼である。
他にも、ニュートンの冷却の法則、二項定理の証明、運動量および角運動量の保存の法則の端緒をつけ、空気中での音速や恒星の起源などについて言及した。(なお現在の視座では多くが不正確なものであり、正しく完成させたのは後世の学者たちである。)
後略】
*     *     *

以下は平凡社「国民百科事典」より

【プリンキピアPrincipia原題はPrincipia Mathematica Philosophiae Natura1is (自然哲学の数学的原理)という。ニュートンの主著。

運動法則、重力理論、それらによる天体力学その他の成果など、力学の基礎と応用に関する彼の業績が完全に論理的に記述されている。ギリシア幾何学の形式を用いて書かれ微積分学は背後に隠れているので今日ではかえって難解であるが自然科学史上最高の古典としての地位は変わらない。1687年初版。】
*     *      *

ニュートンの数学、力学など広範な科学的業績は産業革命にも多大の影響を与えた。



70年150年説ヨーロッパ発展の時代2(イギリス発展の時代初期)

2010-05-07 20:47:32 | 70年150年周期説
70年150年周期説・ヨーロッパ発展の時代2(イギリス発展の時代初期)

起点とする戦争

3 清教徒革命       (1642~1649年)
 時の国王チャールズ1世の暴政に議会が対立。内戦が始まる。最初は国王側が優勢だったが、クロムウェルがピューリタン(清教徒)を組織し、最終的に議会派が勝利する。国王は処刑され、イギリスは共和制に移行する。しかし、この革命はあくまでも内戦であり、ヨーロッパ文化圏全体を眺めた時には三〇年戦争の重要度の方が遥かに高いと判断せざるを得ない。前述したように、この頃のイギリスはその影響力において単にヨーロッパ諸国の中の一員にすぎないのである。この頃(17世紀)はオランダの世紀と言われ、世界においてオランダが優位な力を持った時代であった。

4 第一次英蘭戦争    (1652~1654年)
 当時随一の海運国であったオランダとの戦いであり、オランダにイギリスが挑戦。決定的な勝利はなく最終的にイギリス優位の形で講和が結ばれる。しかし、その後も、1665年には第二次英蘭戦争。この時はむしろオランダ優勢。1672年には第三次英蘭戦争が引き起こされる。この時はイギリス・フランス対オランダ・スペイン・神聖ローマ皇帝との戦いとなる。結果は双方共に決定的勝利を得る事は無かったが、オランダの損失は大きく凋落の要因となる。こうして戦われた一連の戦争において第一次英蘭戦争だけが最も重要とは考えられない。

以上の記述から導き出されるのは、ヨーロッパ発展の時代2(イギリス発展の時代初期)のヨーロッパ諸国において最も重要な位置を占める大規模戦争は三〇年戦争であり、起点として最も適当であるという結論である。

出典「三十年戦争」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。最終更新 2007年9月23日 (日) 16:59。  UTC、URL: http://ja.wikipedia.org/ より
【三十年戦争(さんじゅうねんせんそう, dreißigjähriger Krieg)は、ボヘミア(ベーメン)におけるプロテスタントの反乱をきっかけに勃発し、神聖ローマ帝国を舞台として、1618年から1648年に戦われた国際戦争。「最後の宗教戦争」、「最初の国際戦争」などと形容されるが、スウェーデンが参戦した1630年以降は、ハプスブルク家、ブルボン家、ヴァーサ家による大国間のパワーゲームと捉える向きもある。
「三十年戦争」という表現をしたのは17世紀のプーフェンドルフとされる。
中略
概要
三十年戦争は三十年間絶えることなく続いたわけではなく、数ヶ月から2年の小康状態を挟んで継続された。その理由として、当時は近代的な軍隊組織が未発達で、国王直属の常設軍隊は稀であったことが挙げられる。軍の圧倒的多数が傭兵によって賄われていたため、長期間にわたる軍隊の統制が困難だったのである。また、長期にわたって戦争を継続することは国家財政に多大な負担がかかるため、息切れするかのように戦争が中断されることになった。しかし、戦争が泥沼化していくに連れ、戦闘の無い期間は少なくなり、最終段階に至っては13年間の長期にわたる闘争が繰り広げられることになった。
この戦争はおおよそ四つの段階を経て展開され、先へ進むにつれて破壊と殺戮の規模が増大していった。この四段階にわたる戦争はそれぞれハプスブルク帝国に対抗する勢力ないしは国家の名前をとって下記のように呼ばれている。

第1段階:ボヘミア・ファルツ戦争(1618-23)
第2段階:デンマーク・ニーダーザクセン戦争(1625-29)
第3段階:スウェーデン戦争(1630-35)
第4段階:スウェーデン・フランス戦争(1635-48)
三十年戦争は新教派(プロテスタント)と旧教派(カトリック)との間で展開された宗教戦争と見られがちであるが、それはこの戦争のほんの一面を示しているに過ぎない。当初は宗教闘争に名を借りた民族対立の様相を呈していたが、戦争の第2段階から徐々に権力闘争としての側面があらわになり、ヨーロッパにおける覇権を確立しようとするハプスブルク家と、それを阻止しようとする勢力の間の権力闘争として展開されていく。
後略】
*     *     *

詳しくは「三十年戦争」
http://sky.geocities.jp/anatawayoudesu/igirisu.html#section4
を御覧ください。




70年150年説ヨーロッパ発展の時代2(イギリス発展の時代初期)

2010-05-05 20:10:53 | 70年150年周期説
覇権国の推移概要、その4

無敵艦隊撃破によりイギリスが世界の覇権国として躍り出たのではない、そこからまだまだ遠い道のりが待っていたのである。しかし、無敵艦隊撃破はイギリスにとって海外発展の大きな端緒になったといえる。
スペインに代わって世界に覇を唱えたのはオランダだったのだ。
しかし、オランダは第3次英蘭戦争(1672年開戦。オランダは戦争初期にイギリス・フランス両国と戦わねばならなかった。1673年になってスペインや神聖ローマ皇帝がオランダに味方する。)で打撃を被る。又、17世紀のうちにヨーロッパで胡椒や香料の人気が低下し、茶、インド産綿織物などに重心が移って経済的、軍事的に徐々に衰えてゆく。
イギリスは世界進出に遅れをとり、香料諸島には入れず、インドに貿易拠点を置くしかなかった。ところが、これが幸いして綿織物の生産地インドで勢力を伸ばし、同じくインドに拠点を置いたフランスと覇権争いを繰り返す事になる。17世紀後半以降は茶、インド産綿織物などが主要な輸入品となっていくのである。その後、7年戦争、産業革命を経てイギリスが世界の盟主の座を勝ち取る事になる。
世界の覇権争いには戦争が大きな影響を与えている。しかし、戦争以外の経済的状態、経済的環境も非常に大きな影響を与えている。これらの事柄に関しては、国民一人一人の潜在能力の活性化以外にも何か大きな力が働いている事を感じざるをえない。
オランダが退潮傾向に陥った時に勢力を伸ばしたのは、フランスだった。当時のフランスは、太陽王と呼ばれたルイ14世 (在位:1643年~1715年)の時代であり、ブルボン朝の最盛期を築いた。第三次英蘭戦争、オランダ戦争などはヨーロッパ諸国が複雑に絡み合った戦争となる。
オランダ、フランス、イギリス、その他ヨーロッパ諸国による利害戦争とも取れるのだが、下の図は概要図なので省略してある。
以上で覇権国の推移概要終わり。》


70年150年説ヨーロッパ発展の時代2(イギリス発展の時代初期)

2010-05-05 09:05:25 | 70年150年周期説
覇権国の推移概要、その3

覇権国はオランダへ

以下は平凡社「国民百科事典」1966年3月10日初版第34刷発行より。
【オランダ
前略  〔独立以降〕17世紀はオランダの黄金時代であった。政治上は共和政体のもとオランイェ家が独立時のウィレム1世以降総督として支配的な位置に立ち、経済上では1602年オランダ東インド会社が設立され、ポルトガルの勢力を追い払ってバタビア(ジャワ)を中心に活発な東インド植民活動、東洋貿易を展開して大きな繁栄を示し、また文化の面では国際法の祖といわれる法学者グロチウス、哲学者スピノザ、自然科学者ホイヘンス、画家レンブラント、ロイスダール、ライデン大学などを生み出して当時の欧州文化の一中心を形成した。】
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以下は日本文芸社、鈴木晟監修、鈴木旭/石川理夫著「面白いほどよくわかる世界史P.224より」
【独立の展望が見えたオランダがアジアに進出してきたのは、ジャワ島を皮切りに一世紀遅れた一六世紀末。しかし東インド会社を設立して、民間活力溢れるオランダは、王室直轄事業のポルトガル人を香料諸島から駆逐し、香料貿易だけでなく、バタヴィア(現ジャカルタ)を基地にしてアジアでの通商の主導権を握るようになる。
中略
これを機に、オランダは香料諸島やジャワ島一帯を押さえて、植民地化への足がかりとし、日本との貿易も独占する。アジア市場から一歩退いたかに見えたイギリスは、重点をインドに移した。】
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以下は、日本実業出版社、宮崎正勝著「早わかり世界史 P.191」より
【◆「オランダの世紀」の現出
この時代、オランダ人は、アジア・ヨーロッパを結ぶ海上貿易で活躍した。大型の船を使ったため、他国の半分くらいの運賃でも利益を上げることができたので、「世界の運搬人」といわれるほどであった。
中略
17世紀初頭にオランダが日本から輸入した銀は年20万キロにも達したが、それは当時ヨーロッパが新大陸から輸入した銀の総量に匹敵するほどだった。しかも、ご存じのようにオランダ人は、長崎の出島での対日貿易を独占し、ポルトガルからマラッカ、インドの拠点を奪い、南アフリカでケープ植民地を経営した。この東インド貿易の全盛期は1660年ごろのことである。】
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以下は、日本実業出版社、宮崎正勝著「早わかり世界史 P.200」より
【17世紀末、その造船コストはイギリスに比べて40~50%も安かったといわれる。そうした安価な船が、オランダ人がヨーロッパの中継貿易を一手に取り仕切り、たくさんの貿易船をアジアに送り、世界を制覇する基盤となった。1670年にオランダは、イギリスの3倍の船舶を所有し、イギリス、フランス、スペイン、ポルトガル、ドイツ諸邦を合わせたより、船の数は多かったといわれる。】
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70年150年説ヨーロッパ発展の時代2(イギリス発展の時代初期)

2010-05-04 20:42:23 | 70年150年周期説
覇権国の推移概要、その2

スペインの衰退に関する以上の事柄を箇条書きにしてまとめると

一・オランダ独立戦争敗北

一・アルマダ海戦敗北

一・旧態依然のカトリック的非寛容な体制を改革できなかった

一・銀のスペインへの流入減

一・ポルトガル独立

一・三十年戦争敗退

等が挙げられる。

スペインの没落には様々な要因があり、無敵艦隊の敗北はそのうちの一つである。

オランダ独立戦争敗北、アルマダ海戦敗北は共にプロテスタント国であるオランダ、イギリスに対する敗北であった。三十年戦争はプロテスタント弾圧に端を発している。国内においても新しい考え方、より進歩的な行動規範などを受け入れる事ができずに、国民一人一人の活性化、ひいては産業・経済の活性化ができなかった。
筆者は「国民一人一人の意識や考え方の変化、潜在能力の活性化こそが国や地域における最も大きな発展要因」だと考えている。それが新教勢力に比べて低い次元でしか達成できなかったスペインの没落は当然の事と思われる。大きく眺めて、それをかなりの段階まで持続的に達成できたヨーロッパ全体(これには宗教改革に対する反宗教改革によって、それまでの宗教的堕落をかなり克服する事ができた旧教勢力、カトリック勢力をも含む。宗教改革による危機感からカトリック勢力もそれまでの堕落から脱け出した部分がかなりあったと考えられる。)、次に当時としては世界中で最も大きく国民活力を引き出す事のできたイギリス、そしてアメリカが大きな発展をしたのも当然と言えそうである。
現在の格差社会日本を考えてみると、むしろ国民活力を弱めつつあるとしか思えない。この格差社会を打破し、一人一人がもっと活力を発揮できる社会にしなければ日本の将来はさらに暗いものになっていくだろう。一人一人は実に弱い存在である。しかし、その国の実力は一人ひとりの力の総和である。偏り過ぎ、いびつになった社会は没落してゆくに違いない。