さて、表題なんですけど、仮に鉄剣銘の辛亥年が471年という事になるとちょっと引っ掛かりませんか?「治天下大王」というのはつまり大王こそが天下の主宰者であるという主張であり、「安東大将軍倭王」とは天下の主宰者たる南宋皇帝より賜わる将軍号です。「治天下大王」としての矜恃は「安東大将軍倭王」に封じられる事を拒むのではなかろうか、と思えるのですが。これは「倭国王」であってもさほど変わらないだろうと思っています。
これ順序が逆ならどおってこと無いんですよ、つまり471年に宋に朝貢して安東大将軍を授かるも、477・478年には治天下大王を名乗り、これ以降中華帝国への朝貢が途絶える、というパターンなら「この間に冊封体制からの離脱を決意したんだな」とすんなり納得出来て不思議でも何でも無いのです。
ところが現実の有り様はというと471年に治天下を謳いながら、宋書には477・478年と倭国からの使者が朝貢した記録が残っているわけです。「治天下大王ワカタケルと安東大将軍倭王武はイコールで結べるのか?」という疑問を持つ人は少なからず存在しているんじゃないでしょうか。まぁ私自身は
辛亥年=471年
治天下大王ワカタケル=安東大将軍倭王武≒雄略
という図式で仮説を構築するつもりですが
辛亥年=531年
治天下大王ワカタケル=安東大将軍倭王武≒雄略
ですとか
辛亥年=531年
欽明≒治天下大王ワカタケル≠安東大将軍倭王武≒雄略
の図式でも「物は言いよう」とか「理屈と膏薬は何処へでも付く」ってやつでそれなりに形になりそうな気がしています。
とは言え
辛亥年=471年
治天下大王ワカタケル≠安東大将軍倭王武
雄略≒治天下大王ワカタケルor安東大将軍倭王武
は、無理が多いだろうと思っているのですが。
埼玉県行田市の埼玉古墳群は、出土品や榛名山の渋川噴火によるHr-FAのあり方から
稲荷山古墳→二子山古墳→(渋川噴火)→丸墓山古墳・・・
という順序で造営されたと考えられていまして、さらに二子山と丸墓山はほぼ同時期の造営とされています。渋川噴火が496年とすると二子山が490年前後くらい、稲荷山はそれより一世代古いようで470年前後といったところになるのでしょうか。
これだけ見てると「辛亥年は471年で良いんじゃねぇの?」とも思えるのですが、例の鉄剣が出土した礫槨は追葬されたものであり、その時期は6世紀前半と目されています。
厄介なのが534年に「武蔵国造の乱」という事件がありまして、中央からの関与があった可能性が非常に高いんですよ。状況によりますけど、礫槨の埋葬がこの時以降の可能性も有り得るんじゃないかと。
また銀象嵌鉄刀を排出した熊本県の江田船山古墳にしても造営こそ5世紀後半と目されていますが、副葬品の年代観から造営時以降6世紀初頭と6世紀前半の二度の追葬があったと考えられています。
うーん、面倒臭い、というかスパっといかないもんですねぇ。結局鉄剣・鉄刀の出土状況から辛亥年を471年と特定するのは無理っぽい、というのが現時点での判断です。
するとそれ以外の要素から判断しなければならないのですが471年説に有利と思えるのが
1・鉄剣銘の大王がワカタケルと読め、雄略と判断される。
2・鉄刀銘にはウヂ(氏)・カバネ(姓)共になく、鉄剣銘にはカバネは見えるがウヂがない。503年と思われる隅田八幡神社人物画像鏡には「開中費直」とあり「開中」がウヂ、「費直」はカバネと考えられる。辛亥年はこれ以前の471年の方が相応しい。
3・同鏡には「大王」とあり、この時点で大王号が成立していたのは確実。
一方531年説に有利かと思えるのが
4・鉄剣銘の大王は「シキ(斯鬼)」に宮を置いており、雄略が「ハセ」に宮を置いたことと矛盾。
5・531年には欽明が即位し、「シキ」を宮としていたと考えられる。
6・雄略の「オオハセノワカタケ」という呼称は「オオ+宮の所在地+諱」と考えられる。前後のアナホ(安康)やヲケ(顕宗)・オケ(仁賢)のように単にワカタケとしなかったのは他に同じ諱を持つ人物がいたためではなかったのか。
欽明の諱は伝わっておらず「ワカタケル」であった可能性を排除できない。
7・倭の五王は421年の讃から478年の武に至るまで一貫して宋に朝貢していたのは確実で、その冊封体制に組み込まれていたので471年の段階で治天下大王を名乗るとは考えづらい。
8・雄略と考えられる武の即位は477年以降である。
等々ですかね、で私はというと雄略が「治天下大王」を名乗り、かつそれ以降に宋に朝貢していたのではなかろうか、と考えているのです。というのは書記のとある記述によるもので、その記述とは雄略四年二月条と同七年七月三日条にあります。
どちらも神に関わる、実話と考える必要のない説話です。四年二月条は葛城山中において一言主と共に猟を楽しみ「有徳天皇」と呼ばれたというもの、そして七年七月三日条は「三諸岳の神の形をみたい」と鹵獲させ、対面するもその威を畏れ目を覆い見ることが出来ず、殿中に隠れてしまったという話。
「神」って、中華皇帝の暗喩じゃなかろうか、と思えるのですが。
ん~、もっと複雑そうなんですよね、とりあえず投稿します。
これ順序が逆ならどおってこと無いんですよ、つまり471年に宋に朝貢して安東大将軍を授かるも、477・478年には治天下大王を名乗り、これ以降中華帝国への朝貢が途絶える、というパターンなら「この間に冊封体制からの離脱を決意したんだな」とすんなり納得出来て不思議でも何でも無いのです。
ところが現実の有り様はというと471年に治天下を謳いながら、宋書には477・478年と倭国からの使者が朝貢した記録が残っているわけです。「治天下大王ワカタケルと安東大将軍倭王武はイコールで結べるのか?」という疑問を持つ人は少なからず存在しているんじゃないでしょうか。まぁ私自身は
辛亥年=471年
治天下大王ワカタケル=安東大将軍倭王武≒雄略
という図式で仮説を構築するつもりですが
辛亥年=531年
治天下大王ワカタケル=安東大将軍倭王武≒雄略
ですとか
辛亥年=531年
欽明≒治天下大王ワカタケル≠安東大将軍倭王武≒雄略
の図式でも「物は言いよう」とか「理屈と膏薬は何処へでも付く」ってやつでそれなりに形になりそうな気がしています。
とは言え
辛亥年=471年
治天下大王ワカタケル≠安東大将軍倭王武
雄略≒治天下大王ワカタケルor安東大将軍倭王武
は、無理が多いだろうと思っているのですが。
埼玉県行田市の埼玉古墳群は、出土品や榛名山の渋川噴火によるHr-FAのあり方から
稲荷山古墳→二子山古墳→(渋川噴火)→丸墓山古墳・・・
という順序で造営されたと考えられていまして、さらに二子山と丸墓山はほぼ同時期の造営とされています。渋川噴火が496年とすると二子山が490年前後くらい、稲荷山はそれより一世代古いようで470年前後といったところになるのでしょうか。
これだけ見てると「辛亥年は471年で良いんじゃねぇの?」とも思えるのですが、例の鉄剣が出土した礫槨は追葬されたものであり、その時期は6世紀前半と目されています。
厄介なのが534年に「武蔵国造の乱」という事件がありまして、中央からの関与があった可能性が非常に高いんですよ。状況によりますけど、礫槨の埋葬がこの時以降の可能性も有り得るんじゃないかと。
また銀象嵌鉄刀を排出した熊本県の江田船山古墳にしても造営こそ5世紀後半と目されていますが、副葬品の年代観から造営時以降6世紀初頭と6世紀前半の二度の追葬があったと考えられています。
うーん、面倒臭い、というかスパっといかないもんですねぇ。結局鉄剣・鉄刀の出土状況から辛亥年を471年と特定するのは無理っぽい、というのが現時点での判断です。
するとそれ以外の要素から判断しなければならないのですが471年説に有利と思えるのが
1・鉄剣銘の大王がワカタケルと読め、雄略と判断される。
2・鉄刀銘にはウヂ(氏)・カバネ(姓)共になく、鉄剣銘にはカバネは見えるがウヂがない。503年と思われる隅田八幡神社人物画像鏡には「開中費直」とあり「開中」がウヂ、「費直」はカバネと考えられる。辛亥年はこれ以前の471年の方が相応しい。
3・同鏡には「大王」とあり、この時点で大王号が成立していたのは確実。
一方531年説に有利かと思えるのが
4・鉄剣銘の大王は「シキ(斯鬼)」に宮を置いており、雄略が「ハセ」に宮を置いたことと矛盾。
5・531年には欽明が即位し、「シキ」を宮としていたと考えられる。
6・雄略の「オオハセノワカタケ」という呼称は「オオ+宮の所在地+諱」と考えられる。前後のアナホ(安康)やヲケ(顕宗)・オケ(仁賢)のように単にワカタケとしなかったのは他に同じ諱を持つ人物がいたためではなかったのか。
欽明の諱は伝わっておらず「ワカタケル」であった可能性を排除できない。
7・倭の五王は421年の讃から478年の武に至るまで一貫して宋に朝貢していたのは確実で、その冊封体制に組み込まれていたので471年の段階で治天下大王を名乗るとは考えづらい。
8・雄略と考えられる武の即位は477年以降である。
等々ですかね、で私はというと雄略が「治天下大王」を名乗り、かつそれ以降に宋に朝貢していたのではなかろうか、と考えているのです。というのは書記のとある記述によるもので、その記述とは雄略四年二月条と同七年七月三日条にあります。
どちらも神に関わる、実話と考える必要のない説話です。四年二月条は葛城山中において一言主と共に猟を楽しみ「有徳天皇」と呼ばれたというもの、そして七年七月三日条は「三諸岳の神の形をみたい」と鹵獲させ、対面するもその威を畏れ目を覆い見ることが出来ず、殿中に隠れてしまったという話。
「神」って、中華皇帝の暗喩じゃなかろうか、と思えるのですが。
ん~、もっと複雑そうなんですよね、とりあえず投稿します。
しばらくは急ぐつもりもありませんので、のんびりお付き合い下さい。
あまりプライベートを晒すつもりはないのですが、私には娘がおりまして、その娘が怪しげなブログをやっているオッサンとメールのやり取りをしているなんて考えたら心配で仕方ありません。
私の容貌が (*´ェ`*)ポッ ではなく il||li (つω-`。)il||li ということもありますし。
初コメントに気がついたのが10日の夜で、それからしばらく「釣り針の前で考えこむクマー」状態になっていました。
なんせ私の想定するこのブログの読者層にめぐみさんのような方は存在しなかったものですから。
それだけにめぐみさんの存在は興味津々ではあるのですね。
どうでしょうか、しばらくはこのコメント欄でお話しませんか?
と信じています。ぜひ 以下の文 感想聞かせてください。。
『大和民族大移動』
*日本書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治*
失礼無礼きわまりない話ですが、あなたが家系図を作成するとして、
実は、あなたのおじいさんが泥棒だったら、あなたはどうしますか?
昭和18年に隣の酒屋から酒5升盗んだ人だと正直に書けないですね。
でも、良心の呵責から、なんとかして泥棒行為を書き残したいですよね。
簡単です。じいさんに弟があり その架空人物が、盗んだ事にしましょう。
おっと、じいさんの弟はお墓が無くばれますね。では干支60年古くして
明治16年に、ひいひいひいじいさんの妹の夫が盗んだ事にしましょう。
書紀は天皇様の見事な万世一系の家系図を書いた推理小説です。
太古から日本を統治していた事としたい。でも本当の事も書きたかった。
そのため、架空人物を多数創造した。時代も原則60年単位で古くした。
これが、真実を残すために書紀が取らざるを得なかった編集方針です。
もちろん、真実そのままの事も、どうしても書けない真実もありました。
では、架空実在人物が新旧入り混じった小説からの真実の救出法は?
①実在したご先祖のお墓や使用物の年代を正しく求めましょう。
②貴重な金石文を正確に読みましょう。
③地名や人名の語源を冷静に考えましょう。
この3つを追求整理したあとで 初めて日本書紀を読むべきですね。
石渡信一郎は、まず先に、上記①②③を 徹底的に、探究しました。
①古墳や須恵器・土師器・埴輪の絶対年を正しく定めました。
(過去の気象や磁気の変化を考古学の原則で追及した後に)
例えば、弥生後期(5期)は260年頃から350年頃までとしている事
及び 稲荷山古墳550年頃 で、鉄剣の辛亥年=531年
②七支刀・隅田八幡鏡・武寧王陵碑・稲荷山鉄剣を正確に解読した。
(すみません。解読結果詳細は石渡氏と林氏の本を読んで下さい。)
③地名人名の語源を音韻変化の基本原則にのっとり追求しました。
韓(カラ)⇒加夜(かや)・軽(かる)・茶屋(けや)・秦(はた)
大韓(カカラ)⇒大軽(おおかる)・各羅(かから)
南韓(ナムカラ)⇒難波(なには)・長柄(ながら)・中(なか)
東韓(スカラ) ⇒菅谷・早良(さわら)・日十(そか)・蘇我(そが)
大東韓(カスカラ)⇒飛鳥・春日・足柄・橿原・八幡(はちはた)
大東韓(キスカラ)⇒一須賀・石川・鬼前(きせ)・去来紗(いざさ)
大東韓(クスカラ)⇒樟葉・太秦・宇治(うじ)・太(ふつ)
昆支(コンキ) ⇒誉田(ほむた)
今では信者のむらかみからむですが、石渡論の理解に半年以上です。
通説の古墳年代の根拠を知らず、通説年代は当たり前の事でした。
即ち、誉田山も大仙古墳も5世紀初頭と 無意識に思っていました。
さらに、百済皇子余昆が書紀では昆支だという事を忘却してました。
その昆支が倭の5王の武で、誉田山古墳に眠る応神でもある。
その弟が継体であり仁徳でもあり仁徳から武列までは架空である。
獲加多支鹵は欽明であり継体の子ではなく昆支の子である。
その息子がアメノタリシヒコで用明で蘇我馬子で聖徳太子でもある。
とくれば、なんでもありの飛んでも説をよくもここまでまじめに書くなあ。
石渡信一郎も林順治も トンデル人だ。と思ってしまいますよね。
しかし、音韻変化の原則から『飛鳥の語源は大東韓(かすから)だ』
の説明を熱心に 語っている文章の迫力には心を打たれました。
で、稲荷山鉄剣の辛亥年=531年で古代史を語る人は誰もいない。
の文章を読んだ時、この理論が他説を圧倒する事に気づきました。
通説の古墳年代を無意識に受け入れていた私がトンでいたのです。
なんと、小6の私の息子の社会の参考書にも書いてありましたが、
通説は稲荷山鉄剣の獲加多支鹵大王を書紀の中の雄略大王として
辛亥年=471年としてた。これを絶対基準に古墳年代を決めていた。
ワカタケルは大泊瀬幼武じゃない可能性の追求が甘いままでした。
おかしな話ですよね。書紀の記述が真実かどうか検討しているのに
書紀の記述の大泊瀬幼武の実在は真実からスタートしていたなんて。
結果的に、通説での全古墳の絶対年は60年以上古すぎたのです。
4世紀前半は弥生時代で、古墳時代はAD350年からなのです。
これは寒かった弥生後期5期が260年~340年頃でも裏付けれます。
『通説の古墳年代を 60年以上新しくして古代史を見直すべき』
との提案が石渡説の基本で他説との相違点で最重要ポイントです。
これが理解できないと石渡論はトンでる空想物語になります。
では、531年の根拠は?『完本聖徳太子はいなかった760円』より
①草冠ぬきの獲の字は 中国でも6世紀に初めて使用した。
②発掘関係隊長の斎藤忠も副葬品(銅わん等)から 531年説。
③稲荷山古墳と同年代の野々上窯の熱残留磁気測定結果。
④少し新しい江田船山古墳履が武寧王の墓の履と文様が似る。
石渡論は辛亥年=531年で須恵器や土師器や埴輪の年代を求めます。
典型例は『須恵器大成(田辺昭三)』を60年新しくしている事です。
で、全国の主要古墳年代を通説より基本的に60年新しく求めます。
さらに古鏡&刀の金石文と中国の文献で実存した人物の中から
その生存&死亡時期と照らし、各々の古墳披葬者を選び出します。
これで書紀に全く頼っていない石渡論の基本年表が完成します。
古墳------年代----被葬者
①箸墓-----385年頃-倭王旨(七支刀)
②渋谷向山古墳-410年頃
③行燈山古墳--430年頃-倭王讃(宋書)
④五社神古墳--440年頃-倭国王珍(宋書)
⑤中ツ山古墳--450年頃-倭国王済(宋書)
⑥石津山古墳--475年頃-倭国王興(宋書)
⑦誉田山古墳--510年頃-倭王武・余昆(宋書)・日十(隅田鏡)
⑧大仙古墳---520年頃-男弟王(隅田鏡)
⑨見瀬丸山古墳-570年頃-獲加多支鹵(稲荷山鉄剣)
⑩太子西山古墳-585年頃
⑪石舞台古墳--620年頃-阿毎多利思比孤(隋書)
⑫天武陵(旧)-645年頃-ワカミタフリ(隋書)
⑬持統陵(旧)-645年頃
で、ここから初めてこの年表を書紀の記述と照らして検証していきます。
このとき、先述の音韻変化の原則から求めていた語源が役に立ちます。
コンキ⇒ホムタ や スカラ⇒ソガ や ウズ⇒フツは典型例でしょう。
こうして以下の本当の大王様の家系図の一覧表が探し出せました。
古墳---被葬年-本名-書紀の中の名前【家系図】
①箸墓---393-旨-ミマキイリヒコ【初代】
②渋谷向山-409-?-イクメイリヒコ【①の子】
③行燈山--438-讃-イニシキイリイコ【②の子】
④五社神--442-珍-ワカキニイリヒコ&ワカタラシヒコ【③の弟】
⑤中ツ山--462-済-ホムタノマワカ&尾張連草香【③の孫】
⑥石津山--477-興-カワマタナカツヒコ&凡連【⑤の子】
⑦誉田山--507-武・日十・余昆-昆支&ホムタワケ【⑤の子の婿】
⑧大仙---531-男弟-ヲホト&オホサザキ【⑤の子の婿。⑦の弟】
⑨見瀬丸山-571-ワカタケル-アメクニオシヒラキヒロニワ&蘇我稲目【⑦の子】
⑩太子西山-585-?-ヌナクラノフトタマシキ【⑨の子】
⑪石舞台--622-アメノタリシホコ-タチバナノトヨヒ&聖徳&馬子【⑨の子】
⑫旧天武陵-645-ワカミタリフ-善徳&蘇我蝦夷【⑪の子】
⑬旧持統陵-645-?-蘇我入鹿【⑫の子】
大和民族は『うるわしの土地』を求め大陸から大量に移動してきました。
まずは西暦330年頃から半島南部を、460年頃からは百済を通って。
1回目の代表は旨(崇神)、2回目は武(応神)&男弟(継体)です。
で、各々の起因は1回目が楽浪郡の崩壊、2回目は高句麗の南下です。
書紀の隠したこの事実は、現代日本人には小説(書紀)よりも奇です。
というより、受け入れがたく、石渡論を無礼者と思いますよね。
しかし、考えようによっては当たり前だったのではないでしょうか?
大陸は寒かった。温暖な飢えない日本列島は『うるわしの土地』だった。
新羅を置き去り、自ら大和民族大移動し、海を渡り来ていたのですよね。
さあもう21世紀です。石渡論が世に出て4半世紀も経ってしまった。
ぼちぼち古墳を60年新しくして、真実を考え、受け入れませんか?。
隣家の酒樽から酒5升分のお金が入ったじいさんの名前の財布が
見つかった。稲荷山古墳の鉄剣・隅田八幡鏡・七支刀のことですよ。
じいさんはお酒を飲んでお酒を買いに行き転んだ。よかった。無実です。
ひいひいひいじいさんに妹夫妻はいなかった。雄略大王もいなかった。
まだまだまだまだ書きたいことありますが 最後にまとめを書きます。
石渡論は古墳年代を正しく求めスタートします。そのあとで書紀です。
ところが 不幸な通説は架空雄略大王の実在からスタートし迷走中。
石渡信一郎が真にすばらしいのは 日本書紀編集者たちが持つ
・ひとりの実在人物をふたり・さんにん・・と分けざえるを得ない苦悩。
・架空大王をひとりふたり・・30人31人と創造せざるを得ない苦悩。
・時代を60年120年180年240年・・神話へと古くせざえるを得ない苦悩。
すなわち、『真実が書きたい』と言う叫びを痛切に理解している事です。
見事な万世一系の筋書とは異なる飛んでた真実があるのだから
書紀は真実を書けば書くほどでたらめになる自己矛盾を持つ。
書紀は でたらめではない。でたらめにならざるを得なかった。
石渡説がトンでるのではない。飛ばされた真実を探しているのです。
『飛ばして申し訳ないという良心の呵責を持った家系図』も眠るはず。
これを見抜き信じるから、真実が救い出せるのです。すばらしいです。
私は近日、以上を前書きに『大和民族大移動』という本を買きます。
石渡信一郎を東大か京大の古代史教授に推挙するために。。で、
副題は『書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治』
で、聖徳太子と蘇我馬子と用明大王 そして アメノタリシホコは
すべて たった一人の人物です。その人を分けて書いているのです。
とにかく皆さん 両先生の本 読んで古代史考えましょう。で、早いのは、
『古代史の謎を探る』か『倭韓交差』か『むらかみからむ』でネット検索。
失礼ですが、誉田山が507年は無理が多すぎます。日韓の馬具・甲冑等の編年まで弄ることになりますよ。
むらかみさんが私の友人だったら「やめとけ」って言います。