こんにちは~、皆さま。毎日、暑いですね。蒸し暑いといったほうがいいか。まだ、梅雨は明けないようです。沖縄は23日に梅雨明けしたんですってね。早い!
さてさて昨日のこと、ある方からコメントををいただきました。
それは、昨年8月20日から22日までに書いた一連の記事の中の一つ、21日付けの「久武親直の子孫の久武親人氏が箱根駅伝で区間賞?」に対してなんですが、恥ずかしいやら、嬉しいやら。
こんなことなら、もうちょっとちゃんと書いとくべきだった。なんでもかんでもインスピレーションの赴くままに書いて、アップすればいいってもんじゃないのよね。
だいたい横道に逸れ過ぎて、肝心なところに行きつかないのよ。そう、何が書きたいのかわからなくなる。だから、今回もある方を検証していくうちに、箱根駅伝のことまでに話題が及んでしまった。
と、いきなり言われてもわからないですよね。私も、過去記事見ながら、話を整理していこうっと。
昨年、ある本を読んでいて、ふと目に留まったくだりがあって、それはこちら。
≪長宗我部家改易後、熊本の加藤家、次いで細川家に仕えてきた久武家の前当主であった久武親人(ひさたけちかと)さんの妹、多恵子さんの子息で、吉武文徳(よしたけふみのり)氏≫。
何度読んでも頭に入らない。しかし、気になる。それで、ひとつひとつ追っていったのです。
わかったことは、まず、戦国武将、長宗我部元親さんがいらっしゃいました。その家老に、久武親信(ひさたけちかのぶ)さんという方がいらっしゃいました。元親さんが大変信頼されていた方のようです。
その方は、1579年に宇和郡岡本城を攻撃中に討ち死にされます。その後、弟の親直(ちかなお)さんが家督を継ぎました。
ここからが、どうしてこんなことが起きるかよくわからないけれど、長宗我部家の悲劇のどん底スパイラルにつながっていくようです。
1587年(天正14年)の戸次川の戦いで元親の長男・長宗我部信親(のぶちか)さんが戦死。家督相続問題が起こりました。以下、記録によりますと、
≪親直は元親の四男・長宗我部盛親を支持し、反対派の吉良親実や比江山親興を元親に讒言して粛清した。
関ヶ原の戦いで西軍が敗北すると、主戦論を抑えて盛親に徳川家康への恭順を勧めた。しかし、同時に盛親の兄の津野親忠を殺すように進言したため、盛親は兄殺しを家康にとがめられて改易された。
このように長宗我部家内の競争相手たちを次々に粛清したことから、親直を長宗我部家滅亡の元凶あるいは稀代の奸臣とみる者もいる。
その後は肥後熊本藩の加藤清正に仕えたが、その変節ぶりを激しく非難された。≫
と、ここまではウィキペディアに紹介されていた通説。しか~し、とある本の作者は語ります。長宗我部家改易後、熊本の加藤家、次いで細川家に仕えてきた久武家に代々伝わる秘話を。
それは、長宗我部盛親と、久武親直が入れ替わったというもの。以下、過去記事の引用です。
≪久武家が徳川政権下、ずっと守り続けてきた系図などの資料が多くあり、それによると長宗我部盛親は、大阪の陣のあと、熊本の加藤家を頼ってゆき、そこで久武親直と名前を変え、さらに久武親直は河田右八衛門と姓名を改めた、とされているというのだ。
つまり、六条河原で期首されたのは長宗我部盛親の影武者であって、盛親本人は久武家として残ったという。入れ替わったというのである。≫
以上がこれまでのおさらい。
で、横道に逸れたというのは、入れ替わった久武親直の子孫の久武親人氏と同姓同名の方をネットで見つけ、箱根駅伝で区間賞を取っているが、ご本人かどうかという、勝手気ままな推測をしたもの。
して、ご丁寧にコメントをくださったのは、久武親人氏が伯父に当たるという吉武文徳(よしたけふみのり)さんでした。
≪箱根駅伝で1932年に慶應義塾大学が総合優勝した時の復路9区の走者は私の伯父久武親人(故人)で、熊本久武家の当主でした。逃げ足が速いのはDNAかもしれません(笑)。
長宗我部家と久武家の家系についての真偽は不明ですが、熊本久武家には、長宗我部友親さんのご著書に紹介されているような話が伝わっています。≫
吉武様、ありがとうございます。何だか嬉しくなって、まだ、この話を続けたくなりました。
皆さま、良かったら、過去記事「久武親直の子孫の久武親人氏が箱根駅伝で区間賞?」とコメント欄をごらんくださ~い。
2017/08/20 長宗我部家改易後、熊本の加藤家、細川家に仕えた久武家
2017/08/21 久武親直の子孫の久武親人氏が箱根駅伝で区間賞?
2017/08/22 盛親は久武親直と名前を変え、さらに河田右八衛門と改めた
さてさて昨日のこと、ある方からコメントををいただきました。
それは、昨年8月20日から22日までに書いた一連の記事の中の一つ、21日付けの「久武親直の子孫の久武親人氏が箱根駅伝で区間賞?」に対してなんですが、恥ずかしいやら、嬉しいやら。
こんなことなら、もうちょっとちゃんと書いとくべきだった。なんでもかんでもインスピレーションの赴くままに書いて、アップすればいいってもんじゃないのよね。
だいたい横道に逸れ過ぎて、肝心なところに行きつかないのよ。そう、何が書きたいのかわからなくなる。だから、今回もある方を検証していくうちに、箱根駅伝のことまでに話題が及んでしまった。
と、いきなり言われてもわからないですよね。私も、過去記事見ながら、話を整理していこうっと。
昨年、ある本を読んでいて、ふと目に留まったくだりがあって、それはこちら。
≪長宗我部家改易後、熊本の加藤家、次いで細川家に仕えてきた久武家の前当主であった久武親人(ひさたけちかと)さんの妹、多恵子さんの子息で、吉武文徳(よしたけふみのり)氏≫。
何度読んでも頭に入らない。しかし、気になる。それで、ひとつひとつ追っていったのです。
わかったことは、まず、戦国武将、長宗我部元親さんがいらっしゃいました。その家老に、久武親信(ひさたけちかのぶ)さんという方がいらっしゃいました。元親さんが大変信頼されていた方のようです。
その方は、1579年に宇和郡岡本城を攻撃中に討ち死にされます。その後、弟の親直(ちかなお)さんが家督を継ぎました。
ここからが、どうしてこんなことが起きるかよくわからないけれど、長宗我部家の悲劇のどん底スパイラルにつながっていくようです。
1587年(天正14年)の戸次川の戦いで元親の長男・長宗我部信親(のぶちか)さんが戦死。家督相続問題が起こりました。以下、記録によりますと、
≪親直は元親の四男・長宗我部盛親を支持し、反対派の吉良親実や比江山親興を元親に讒言して粛清した。
関ヶ原の戦いで西軍が敗北すると、主戦論を抑えて盛親に徳川家康への恭順を勧めた。しかし、同時に盛親の兄の津野親忠を殺すように進言したため、盛親は兄殺しを家康にとがめられて改易された。
このように長宗我部家内の競争相手たちを次々に粛清したことから、親直を長宗我部家滅亡の元凶あるいは稀代の奸臣とみる者もいる。
その後は肥後熊本藩の加藤清正に仕えたが、その変節ぶりを激しく非難された。≫
と、ここまではウィキペディアに紹介されていた通説。しか~し、とある本の作者は語ります。長宗我部家改易後、熊本の加藤家、次いで細川家に仕えてきた久武家に代々伝わる秘話を。
それは、長宗我部盛親と、久武親直が入れ替わったというもの。以下、過去記事の引用です。
≪久武家が徳川政権下、ずっと守り続けてきた系図などの資料が多くあり、それによると長宗我部盛親は、大阪の陣のあと、熊本の加藤家を頼ってゆき、そこで久武親直と名前を変え、さらに久武親直は河田右八衛門と姓名を改めた、とされているというのだ。
つまり、六条河原で期首されたのは長宗我部盛親の影武者であって、盛親本人は久武家として残ったという。入れ替わったというのである。≫
以上がこれまでのおさらい。
で、横道に逸れたというのは、入れ替わった久武親直の子孫の久武親人氏と同姓同名の方をネットで見つけ、箱根駅伝で区間賞を取っているが、ご本人かどうかという、勝手気ままな推測をしたもの。
して、ご丁寧にコメントをくださったのは、久武親人氏が伯父に当たるという吉武文徳(よしたけふみのり)さんでした。
≪箱根駅伝で1932年に慶應義塾大学が総合優勝した時の復路9区の走者は私の伯父久武親人(故人)で、熊本久武家の当主でした。逃げ足が速いのはDNAかもしれません(笑)。
長宗我部家と久武家の家系についての真偽は不明ですが、熊本久武家には、長宗我部友親さんのご著書に紹介されているような話が伝わっています。≫
吉武様、ありがとうございます。何だか嬉しくなって、まだ、この話を続けたくなりました。
皆さま、良かったら、過去記事「久武親直の子孫の久武親人氏が箱根駅伝で区間賞?」とコメント欄をごらんくださ~い。
2017/08/20 長宗我部家改易後、熊本の加藤家、細川家に仕えた久武家
2017/08/21 久武親直の子孫の久武親人氏が箱根駅伝で区間賞?
2017/08/22 盛親は久武親直と名前を変え、さらに河田右八衛門と改めた
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