古文書を読んで感じたこと

遠い時代の肉声

北原白秋から牧野律太宛のハガキ

2012-02-03 20:01:50 | 講座(古文書)
表は

岐阜県恵那郡
  長嶋町永田 
 牧野律太様

  東京駒込動坂町三六四 
          北原宅より

郵便の消印は(大正)7.1.30

本文の方は
「鶫」という大きな字で書き出してある

鶫難有く賞翫いたし
候。寒さきびしく候故御自愛
被下度候(白秋)
大層御無沙汰を致して居りました。先日は
何よりの御品澤山御送り下さひまして
誠にかたじけなく厚く御礼を申上げ
ます。ちと御都合遊ばして御上京なさひませ

活字にすれば味気ないものだが
興味ある人なら放ってはおけないシロものである
いうまでもなく白秋自筆のハガキである
アンティーク好きな人ならその金額的価値を話題にするだろう

話がまた例によって横道にそれて恐縮だが
小生、鶫にはいろいろ思い入れがある

書くことはできなくても、これくらいの字は読めるようにと
割り合い難しい字も常用漢字に採用される時代になったが
その中にも「鶫」は入っていない
馴染みのない字だが「つぐみ」と読む
東濃人の多くは、鳥と云えば「つぐみ」がすぐに頭に浮かぶ
そして「焼き鳥」を連想する
それがある時から禁猟になり
当然のことだが、その狩猟場「鳥屋」も禁止である
山野からの恵みは、芋なら自然薯
きのこなら、匂い松茸、味しめじ
鳥なら大きさといい、味といい、ナンバーワンは何と云ってもつぐみだった

資源保護を殊更に叫ぶ団体の力は凄かった
「鳥屋」「カスミ網」「つぐみ」などという言葉を
口にすること自体が罪悪とでも云いたげな
世の中にしてしまうほどの力があった
だからと云って何もこんなに肩身の狭い思いで過ごすことはないのだが
「鶫」と云う字が読める人は
ひょっとすると白い目で見られるかもしれないよ

10代も半ばの時分
旧土岐郡の最も高い山は屏風山だが
この山の頂上から天気さえよければ伊勢湾が見えると云う
まだまだ短い人生、聞いたこともなかった
山に囲まれ、育った田舎者には想像もつかない話だった
見えることを知っている彼に対し
見えるはずがないと難癖をつけるその心の内には
嘲り(相手を小馬鹿にする気持ち)すらもあったように思う

もう一つ
笠置山(恵那)には光るキノコが生えるという
一生懸命その話をする彼に横目でフンフンと頷いては見せたが
何をありもせんことを喋るんじゃ
という気持ちだった
「知ったかぶりをすんな」
「こっちが知らんからといって自慢するな」
と心中では思っていた

本当かも知れないと思いつつ
海が見える筈がない
きのこが光る筈がないと
自分の知識不足を棚に上げ
「井の中の蛙」そのものだった
人の意見を素直に聞くということがまったくなかった

皆さんにはそんな記憶はありませんか

大井(恵那)には白秋の短冊や軸や額があちこちにある
だから手紙類だってあっても不思議ではない
学生時代(高校)には文学にも興味はなかった

当時「白秋の手紙が俺んとこにある」と聞いたとしても
前の二例と同じような対応をしただろう
コピーだがそれが今、目の前にある
見せてほしいと依頼した時
「わが心 鏡に映るものならば さこそは影の みにくかるべし」
という心境だった


ひとつ白秋の詩を紹介して史料のハガキに戻ろう

 ちび鶫
  1
暗いうちから
わしゃ山かせぎ
「腰には水筒、山刀
 肩には鳥網、蓑と笠
  えさえさえさっさ、えっさっさ
 水鼻かみかみ、九十九折
 北風びゅうびゅう、すっとんだ」

これも誰ゆゑ
アリャコノ、ちび鶫

  2
かうと、網張りや
もう、手のものよ
「鳥屋にはゐろり火、自在鍵
 徳利に濁酒、山の薯
  ちろりや、ちろりや、ちんちろり
 山鳥やほろほろ、雉子けんけん
 夜明けの明星、ちんちろり」

逃がしやせぬぞへ
アリヤコノ、ちび鶫

渡り鳥
遠く鶫の
飛ぶ空見れば
冬も末かよ
ちりぢりと

渡り渡りの
みな 風の鳥
いつか吹かれて
ちりぢりと
(白秋全集二九巻『日本の笛』別れ霜)


史料はハガキなので字数に限りがあり
短い文だが前半と後半に別れている
前半は「つぐみ」を送ってもらった白秋の謝礼である
後半は筆跡が違う。当然のことながら白秋の文字ではない
細くて柔らかい文字で書かれており
贈り物のお礼に続いて、偶には恵那から出てきたらどうですか
という趣旨の女性らしい気配りの利いた文面になっている
名前はないが当時妻だった章子が認めたものだ
章子は白秋にとって二度目の妻で
白秋のどん底生活を支えた人である

大正七年、白秋は暮葉(牧野律太)に招かれて
永田山の乳母ヶ懐にあった伊藤金四郎の鳥屋に遊んだ
帰京した白秋の夫人章子は暮葉宛に次のような礼状をしたためている
先日は誠に色々と御もてなしに預りまして
何とも御礼の御申上げようも御座いません
全くうれしい有難い二日間でした
鶫がりの印象一生忘れられぬ事と思ひます
御両親様へ直に手紙さし上げませんが
どうかよろしく御礼を申して下さいまし
私達が大変よろこんでいますと。…後略…
(恵那市史)

古文書を読む時、その周辺を知っているといないとでは
読める度合いが違う
今度の史料で云えば白秋とか章子とかだが
小生、前述したように白秋のこともあまり知らなかった

白秋は前半期大波乱の人生を送るが
章子もまた凄絶な人生だった

瀬戸内晴美著(新潮社1984.4)
『ここ過ぎて 北原白秋と三人の妻』をぜひ読んでいただきたい

受取人牧野律太
生まれはこの史料の宛所「恵那郡長島町永田」である
牧野家は村役場まで他人の土地を踏むことなく行けたと云うほどの豪農であり
父鉄蔵は中津川銀行の監査役を勤める村の有力者だった
鉄蔵には男三人、女四人の子があり、律太はその長男として誕生した
若くして地方新聞雑誌に投稿するなど詩歌への道を目指していた

律太と白秋との関係については
今回史料を含め大正3年2月から大正10年6月までの
計7通ものハガキ(コピー)を見せていただいているので
次回はこれらの史料をもとに追って見たい


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