「虎は死して皮を残す🐯」ようですが、
人間は死して「何を残す」というのでしょうか
「虎は死して皮を留め、
人は死して名を残す」
と云うのが正しいようで、
「愚か者は借金を残し、凡人は
悔いを残し、偉人は人を残す」
とも聞かれますが ・・・
偉人ならば「死して名を残す」ことに
なるのでしょうが、凡人は生きるのに精一杯
で精々なままに悔いだけを残すのがオチで、
不名誉なる悪名を轟かせる“つわもの”
たちも少なくありません。
善し悪しは別にしても、後世に名を残せるような
人間は全人類の0.0001%くらいのものでしょうか
まあ、
それでもなお、人間にとっての名前はその人の
存在を示す最後の拠り所でもあるわけです。
ところで、若き日に見たという幻の所為で
「このままでは終われない」
何としても虚構に満ちた「神の物語」と
人類の「真の姿」を後世に伝えなければ、
そう思って足搔き続けた結果として、
名実ともに大いなる足跡を残すことになる
レオナルド・ダ・ヴィンチでしたが、
ゼンマイ式のバネ時計
名実相伴うはずの彼の評判と実際、
あるいは名声と功績は多分に誤解のうち
にあって、小生には「万能の天才」という
冠がついた名前と実績のあいだには多少
ならざる齟齬があるように思えてなりません。
ダ・ヴィンチによるアルキメデスのポンプ
膨大な量の発明に関するアイデアの数々や
多岐にわたる研究(観察)や実験といい、その
ジャンルの幅広さとユニークな発想力には
頭がさがるばかりですが、
空気ねじ込み式ヘリコプター
それらが実質的にはどうだったのかという
と首を傾げたくなるものばかりで、設計に無理
があったり、技術面(技術者の技量不足)など
の問題で実際に作られたものはほとんどなく、
全方位型大砲付き戦車(装甲車)
実用性や汎用度といった実績面から
みれば、実践的であってもパフォーマンス倒れ
の誇大妄想の詐欺師のような結果なのです
(少々ひどく言い過ぎたかもしれません)
エジソンも真っ青になるようなトンデモな発明
(設計図)の数々や観察記録、実験データ等を
ここで詳述する余裕はありませんが、
ピラミッド型のパラシュート
その代わりとして指摘をして置きたいのは
ダ・ヴィンチの研究や実験が無駄であったのか
というとそうではなく、科学に関してのみならず
柔軟性のあるユニークな発想こそが進歩の
源だし、絵画における観察眼や緻密な構成力
にはただただ舌を巻く他はありません。
なんにしても興味の尽きない人物ですが、
「罠」の存在を核にすると、ダ・ヴィンチの
そうしたとりとめのない広角思考や好奇心旺盛
で、凝り性なくせに移り気で、なかなかひとつの
ことに集中できないという「謎」の部分が
少しずつ見えてくる気がするのです。
さて、前回では、
『岩窟の聖母』ルーブル版とナショナル・ギャラリー版
依頼主の意向を完全に無視する図像
の『岩窟の聖母』を並行して2枚制作し、
そのうちのナショナル・ギャラリー版を祭壇画
として教会の礼拝堂に飾らせることで後の世の
人々に「ダ・ヴィンチの本意と真実を託した」
というような内容の解説をしましたが ・・・
詳しくは、
『ダ・ヴィンチの罠 泥仕合』を
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/473.html
参照してみてください。
この時代の大勢は、原罪、無原罪を問わず
「キリスト教」ならぬ「マリア教」が
全盛で、この欺瞞に満ちた流れを阻止し打開
するのは当時のイタリアにおいて不可能
であることは誰の目からもわかる現実でした。
しかし、
栄枯盛衰は世の習い、盛者必衰の
理(ことわり)を知る彼は生まれた時代と場所
を呪いながらも教会側に一矢報いるべく
「知らぬが仏」の「罠」を未来に
向けて仕掛けたというのが顛末です。
もちろん、それだけが理由ではありませんが、
おっと失礼、「知らぬが仏」では仏教
ですから、「知らぬがイエス」とでも言う
べきだったかもしれませんね(冗談ですよ)
依頼主が指定した登場人物たちは、聖母子と
2人の預言者と子供の姿をした大勢の天使たち
でしたが、ダ・ヴィンチは聖母子以外のそれらを
完全に無視し、預言者の代わりに幼児のヨハネ
とその守護役とされる大天使ウリエルを画面に
向かって右側に、聖母子を左側に配置します。
背景も指定の馬小屋ではなく、2人の預言者
も祝福する子供の姿をした天使たちも消えて、
岩窟の中に聖母子と幼児のヨハネと大人の姿
をした天使が佇(たたず)むだけの祭壇画です。
到底、聖母の無原罪を表現する内容からは
ほど遠く教会から拒絶されるのは明白でした。
しかしながら、
ダ・ヴィンチは見せ金やコマセ(撒き餌)
としてのルーブル版を教会側に示す際に、
次のような説明を用意していたと思われます。
事実かどうかは別にして、聖書の正典
におけるイエスと洗礼者聖ヨハネの出会いは、
懐妊したマリアがヨハネの母であるエリザベト
のもとを訪ねた「マリアの訪問」の時
(ルカの福音書 1:39-56)と成人してから後の
ヨルダン川での「イエスの洗礼」の
場面(マタイ・ルカ・マルコなどの共観福音書
に並行する記事がある)の2回だけです。
ヴェロッキオ工房作 『キリストの洗礼』
しかも、
最初の出会いは2人ともそれぞれの母親の
胎内にあって、妊娠1か月にも満たないイエス
を宿したマリアがエリザベトに挨拶をする声を
妊娠6か月目の胎児のヨハネが聞いて、胎内
でおどったという ・・・
要するに、
「喜びの胎動」を示したという話ですが、
「幼児の姿をした洗礼者ヨハネは胎児のうち
から将来の出来事、つまり、成人して何者
となり、何を為すのかをよく知っていて、
岩窟という胎内を舞台にヨルダン川での
洗礼の儀式の予行演習をしている
構成図像で重要なキャストなのだ」と
そして、
「それを以って、神により聖別された聖母の
無原罪を端的に表現しているのだ」
・・・ とでも言うような詭弁を弄すつもり
だったのではないでしょうか
さらに、
「大天使ウリエルが指をさす対象は合掌する
幼児ではなく、聖母マリアのお腹のなかであり、
ここ(岩窟)がイエスと同様に無原罪の
聖母マリアを受胎した聖アンナの胎内で
あることを暗示する描写なのだ」
とでもいうような屁理屈を捏ねる計画か、
裁判の際の供述や証言用に準備されていた
セリフやシナリオだったのかもしれませんが、
ダ・ヴィンチは誕生する以前からの2人の
特別な関係を見せつける内容の聖書
の記事に着目し利用したというわけです。
むろん、
それがまかり通るとは存外もないのですが、
そうなると畢竟、
ルーブル版でのイエスは向かって左側の
合掌(洗礼を受けるポーズ)をしている幼児
であり、画面下の泉の水で洗礼を施こそう
とする右側の幼児が洗礼者ヨハネということに
なるわけですが ・・・
教会側が引き取ったナショナル・ギャラリー版
ではイエスと洗礼者ヨハネは逆になっています。
そこにもダ・ヴィンチの巧妙なる駆け引きが
あったわけですが、それはまた次回ということで
それにしても、裁判中は双方ともにそれぞれに
違った意味での「箝口令」(かんこうれい)が
敷かれていたのかもしれませんね
なにしろ、キツネとタヌキの騙し合い
のような展開ですから ・・・
なるほど、だが ・・・
「わしに箝口令は効かんのじゃ」
「虎は死して皮を留め、ダ・ヴィンチは
死して罠を残すってか」
「はい、はい」
… to be continue !!

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小吉

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