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心を癒す聖書の言葉 ~ 足立花畑キリスト教会ブログ ~

心が疲れてしまったあなたへ、聖書の言葉をお届けしたい… そんなブログです。

イエス様の和解の使者として

2023年11月06日 | ◆聖書の言葉

全能なる神はすべての権威を持っておられるお方です。その神の御子イエス様は押しつけもせず強制するでもなく、ご自身のいのちを捧げることによって神との和解の道を私たちに示してくださいました、それが和解の十字架です。それはもうすでにイエス様を信じている者たちだけの死ではありません。それは神の全能の力を無視する者のために、主なる神の権威を侮る者のために、憐みの主の御心に背く罪人の為に捧げられた、和解の死なのです。『これらのことはすべて、神から出ています。神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるのですから、私たちはキリストに代わる使節なのです。私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい。』(コリント人への手紙第Ⅱ-5章15~21節【新改訳2017】)。世界は今、憎しみと憎悪に覆い尽くされようとしています。だから今こそイエス様のその思いを、イエス様の贖いの死を、イエス様の和解のことばを、ひとりでも多くの人が聖霊を通して、超自然的に受けとることができるように、祈る者になろうではありませんか。なぜなら主は、あなたが『イエス様の和解の使者として』生きることを、望んでおられるのですから。
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だれでも渇いているなら

2023年10月04日 | ◆聖書の言葉

神殿があった時代、仮庵の祭りの間には毎朝「水を捧げる祭り」を行っていたといいます。人々は神殿の麓にある「シロアムの池」から水を汲み、たいまつを掲げ手に楽器を持って賛美と踊りを踊りながら、その水を神殿まで運び上げて捧げていたのです。その仮庵の祭りが近づいたある日、イエス様はこう語られたました『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』(ヨハネの福音書7章38節) それは二千年の時を超えて、今を生きるあなたに語られた言葉でもあるのです。

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人生のリニューアルオープン

2023年09月03日 | ◆聖書の言葉

『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』(コリント人への手紙第Ⅱ-5章17節)イエス様の死は、サタンの力を打ち破り、罪の鎖から私たちを解放します。信じない者たちには、イエス様の死は、無価値に見えますが、信じる者にとっては、ことばでは言い表せないほどの、賛美と感謝を伴う、無限の価値となるのです。さぁもし今、そのことに気づいたなら、今日が、今がその時です。今この瞬間、今日を、あなたの人生のリューアルオープンの日としようではありませんか。
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名もなき普通の人たち

2023年08月07日 | ◆聖書の言葉

『彼が入口の戸をたたくと、ロダという女中が応対に出て来た。ところが、ペテロの声だとわかると、喜びのあまり門をあけもしないで、奥へ駆け込み、ペテロが門の外に立っていることをみなに知らせた。』(使徒の働き12章13-14節)。聖書の中には主を愛し、そして人を一生懸命に愛した人たちが、たくさん登場します。もちろんアブラハムは信仰の父です。その息子イサクも、孫のヤコブも、モーセも、エリヤも、ボアズも、ダビデも、ソロモンも、パウロも、ヨハネも、ペテロも、母マリヤも、もちろんみんな偉大な信仰の先輩であり、聖書の中の有名な人たちです。でもキリスト教会2000年の歴史は、そうした有名で立派な人たちだけで紡がれてきたわけではないのです。いえ、むしろ、名もなき普通の人たち、ロダさんのような普通の信仰の人々によって、その出会いによって織りなされてきた時が、ほとんどすべてなのです。
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愛を取り戻す為に

2023年07月04日 | ◆聖書の言葉
「なんで私だけが」「なんで俺だけが」という思いが引き金になって、自分の命を大切にしなかったり、誰かの命を大切にできなかったりする事件が、後をたちません。「自分の事なんか誰も分かってくれない、だから自分も他人も、もうどうなってもいい」と、自暴自棄なって犯罪を犯し逮捕され、挙句は「無敵な人」なんてゆう悲しいレッテルをマスコミに「十把一絡げ(じっぱひとからげ)」に付けられて。でもひとりひとりの人生は、そんな簡単なものではないはずです。本当はあなたはひとりぼっちなんかじゃない。でも世の中の人はみんな、その事を知りません。ほんとうは「私のその苦しみを、私のその悲しみを知るために、私以上の苦しみを自ら進んでお受けになった方がいたんだ」と自暴自棄になってしまった人が知っていたら、そこにはもっと違う生き方があったはずです。『信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。』(ヘブル人への手紙12章2節)。イエス様は一度あなたが離してしまったその『愛を取り戻す為に』苦しみの道を歩み、そして十字架にかかられたのです。
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種蒔く神の御思い

2023年06月05日 | ◆聖書の言葉
『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため』です。(マルコの福音書4章12節)。「種を蒔く人のたとえ」は、しばしば種を蒔かれる側の人の心の状態の話しとして語られます。しかし実はこの「種まきのたとえ」の視点は、蒔かれる側の人の心「四つの地」の方ではないのです。ではこの「たとえ話し」の視点、中心はどこにあるのでしょう。実はこのたとえ話しの中心は「四つの地」でもなく「種」でもないのです。実はこのたとえ話しの中心は「種蒔く人」なのです。収穫の効率を問うなら、道ばたや、岩地、いばらの中に、種を蒔く人なんていないでしょう。あなたが実のならない土地に種を蒔いている人を見つけたとしたら、きっとあなたはその人に「ちょっと種がもったいないから、そんなところに蒔くのは、やめなさい」と注意するのではないでしょうか。ところがこの「たとえ」の人は、良い地、だけではなく問題のあるその他三つ土地にも、多くの種を蒔いているのです。そうです、この種蒔く人は、悪い土地にも期待をしているのです。もう、お気づきですね、この「たとえ」話しの中心は、四つの地でも種でもなく、種蒔く人つまり、種を撒かれるお方、神が中心となる「たとえ」なのです。蒔いておられるお方、神はそのあわれみと愛のゆえに、そうですすべての人にまったく同じよい種を蒔かれ、そしてすべての土地の収穫を期待されたのです。やがて実を結ぶのはあなたです。しかし豊かに実ったその実を収穫するのは、あなたではありません。その実を収穫するのは、種を蒔いた主人、つまり神であるということです。
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後になって考えてみると

2023年05月11日 | ◆聖書の言葉
友人とは自分を助けてくれる人、敵とは自分の邪魔をする人、とその時はそう思うかもしれません。でも「後になって考えてみると」その友人の甘い言葉、甘言(かんげん)で道を踏み外し、その敵の邪魔を乗り越えたからこそ立てる今の場所があったりもします。苦難にあえば心は折れそうになり、時には孤立無援でその状況を恨むかもしれません。しかしそれが主の訓戒であり、その苦難を乗り越える力と希望もまた、あの時、主が与えてくださったのだと「後になって考えてみると」わかる時もあります。愛する人を失った心の痛みは、もう世界が滅びてしまってもよいと思うほどであったとしても、神がその悲しみの心に触れてくださり、なぐさめてくださっていた事を知る時、あの時があったからこそ今の自分の信仰があると「後になって考えてみると」そう思う時だってあるのです。『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』(ローマ人への手紙8章28節)。喜びの出来事はもちろんですが、その時は自分にとっては好ましく思えなかった悲しみの出来事すら、イエス様の心を深く深く知るための出来事だったと、「後になって考えてみると」気づくこともあるのです。
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見よ。あなたの神を。

2023年04月05日 | ◆聖書の言葉
今、あなたの現実がいかに厳しくとも、たとえ八方ふさがりの行き詰まりの状態であったとしても、イエス様を信ずる者にはもうすでに、天においての祝福が注がれています。かつては罪の中に生きる者であったとしても、イエス様の十字架と復活を信ずる者は、罪、贖われ、赦され、そして天において祝福が注がれたているという、もうひとつの現実がそこに存在するのです。そのもうひとつの現実を見つめて生きる、それがクリスチャンの生き方であり、そこには見える現実だけに明け暮れる人々には、見つけることも、見ることもできない、希望と、喜びと、恵みと、平安が、あるのです。この世のものに目を奪われ、人の声に耳を奪われやすい私たち。しかし、見るべきものはこの世ではなくイエス様であり、聞くべきものは人の声ではなくイエス様のみ言葉です。イエス様から目を離し、状況だけに目を向ければ、私たちの信仰も沈み込んでしまうのも、こんな時代ですからしかたないかもしれません。しかし、そんな弱いあなたのことを、すべて知っておられる主は、そんな時代だからこそ、こんな時だからこそ、復活されよみがられたイエス様への思いを、もう一度、あなたの心に、あなたの霊に、あなたの魂に、熱く燃え立たせたいと願っておられるのです。それはイエス様を見上げる信仰です。停滞していた信仰が「息を吹き返し」「生き返り」「よみがえり」、そして、今も生きておられる主と共に、再び今を、生き生きと生きる、信仰です。そうです、主は今あなたにこう言われておられるのです。もう一度、「見よ。あなたがたの神を。」(イザヤ書40章9節)と。
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主の御声に聞き従う者に

2023年03月09日 | ◆聖書の言葉
サムエルはエリの息子たちの神を恐れぬ悪行に対する主の裁きを、その父親であるエリに語らなければならないという重責を全うしました。それは主の声に聞き従う者として、私たちが見習うべき信仰者の姿です。でも当時はそれが本当に主からの声なのか、そうではないのかは信仰によってでしか見分ける事ができませんでした。そう考えると今が本当に恵みの時代であることがわかります。なぜなら現代の私たちには、印刷された聖書が、主の御言葉が、ひとりひとりに与えられているからです。私たちの信仰の基準は聖書です。『十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。』(コリント人への手紙Ⅰ-1章18節)。それはイエス様を信じない者たちにとっては、愚かな言葉に聞こえるかもしれません。しかし主を信じる者たちにとっては、それは救いを受ける神の力なのです。あなたに直接、主が語られたと思えた時、天使を通して語られたと思えた時、聖霊の示しを通して語られたと思えた時、ああ今、私は神様の御声を聞いたかも、と思った時には、どうか迷わずにすぐに聖書にその答えを求めてください。主は必ず主の御声に聞き従う者に、真実を、真理を、祝福を、そして恵みと平安を与えてくださるお方なのですから。
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歴史の主権者を信じ生きる

2023年02月10日 | ◆聖書の言葉
『この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。』(マタイの福音書24章35節)。偽りや異端が、国家が、闇の勢力が、どんなに強くとも、真理はそれらよりも長く生き続けます。真理を隠し、迫害し、侮辱し、撲滅しようとしても、真理は決して、滅びません。敵が、誰であれ、何であれ、いつもでも神が勝利されてきたことは、聖書がそして歴史がそれを証明しているのです。神は混迷から秩序を、不信仰から信仰を、絶望から希望を、死からいのちを引き出されるお方なのです。『いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それはイエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。私たち生きている者はイエスのために絶えず死に渡されていますが、それはイエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。』(コリント人への手紙Ⅱ-4章10-11節)。あなたは自分という壊れやすい土の器の内に主がおられることを信じていますか。あなたは何によっても壊せない宝イエス様のいのちと光を持っていますか。
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主と歩む365歩のマーチ

2023年01月01日 | ◆聖書の言葉
礼拝は信仰者にとっての中心的ことがらです。礼拝は信仰者が365日を神に感謝し歩む為の土台です。ですから礼拝の失敗は信仰の失敗へと繋がります。その土台となる礼拝はあなたが「何を持って」捧げるかがとても重要なのです。神は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるでしょうか。たくさんのささげ物を持ってゆけば喜ぶのでしょうか。そうではありません、たくさんの金品を持ってゆけば喜ぶのは、偽預言者、偽救世主、偽宗教指導者だけです。神があなたに礼拝で捧げてほしいものはただ他一つ、それは「あなたの心」です。そうです主はあなたの心からの礼拝を待っておられるのです。『主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。』(ミカ書6章8節) 公義とは神の思う正義を行うことであり、誠実とは人に対してはもちろんですが神に対して誠実を尽くすという意味があります。神は私たち信仰者にまことの礼拝者として生きそして神に対して誠実に生きへりくだってあなたの神とともに歩むことを望んでおられるのです。水前寺清子さんは“365歩のマーチ”で「♪ 休まないで歩け~ 」と歌います。でも人生には時に、躓き、倒れ、一度、休まなければ、もう一度、前に向かって歩きだすことが出来ない時だってあります。今日2023年1月1日、今日からはじまるあなたの365日では、三歩進んで二歩下がるそんなもどかしい思いの時もあるかもしれません。でも聖書は語ります。大切なのは、あなたがどれだけ歩けたか、ではなく、あなたが誰と歩いてきたか、であると。
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ビビる時だってある

2022年12月08日 | ◆聖書の言葉
途轍もなく大きな仕事を任されたらそりゃあ誰だってちょっとはビビります。でも偉大な指導者モーセの跡を継ぐ事になったヨシュアがビビってたであろう時、神は『わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。』(ヨシュア記1章9節)と励まされました。「なんかこれなら私にも出来そう」っていうスケールの仕事なら、もしかしたらそれは逆に神様からのものではないのかも。モーセは辞退を固辞し、ヨナは全力で逃げだすほど、神様からの任務は重いものでした。でも主があなたとともにいることを信じて、あなたにはどんな時も強く雄々しくあってほしい。
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十字架に勝る愛はこの世にはない

2022年09月11日 | ◆聖書の言葉
イエス様の十字架は人間の罪の贖いの十字架、苦難と死、無実の死、犠牲の死、無償の愛のしるしなどなど、いろいろな言葉で語られます。しかし実際の十字架刑は耐えがたき痛みとみじめな恥辱の極致、恥じと屈辱にまみれたそれは決して美しいものなどではなくただただ残酷な血なまぐさい、直視できないほどのむごたらしい刑罰であったのです。でもそれは実はあなたの為の十字架だったのです。その十字架を信じ救われた信仰者にとっては救われる前のすべてのものは、恥ずかしい過去でしかありません。イエス様はそのあなたのはずかしい過去のすべてを持って十字架の上でその恥辱を受け入れ、贖いを成し遂げてくださったのです。イエス様はあなたを救うためにその十字架を自らお選びになりました。それは全人類に与えられた愛のうち最も優れたものであり、このイエス様の十字架に勝る愛は、この地上には、存在、しないのです。『こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。』(コリント人への手紙第Ⅰ-13章13節)
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あなたのその小さき手をも用いられる神

2022年08月08日 | ◆聖書の言葉
イスラエルの民が紅海を渡る時、神はモーセに「あなたの手にあるそれは何か」(出エジ4:2)と尋ねられ、モーセは「杖です」とだけ答えました。ところがそのそこらに落ちていそうな何でもないその杖が、海を真っ二つに分ける奇跡の道具として使われました。五つのパンと二匹の魚はひと家族の一食か二食分の食事にしかなりません。しかしその小さき献身が主の御手によって大きな奇跡を作り出したのです。もしかしたらあなたはそんなことは不可能だと思って主の促しに従わなかったことはなかったでしょうか。私はあります。しかし神は私には、そしてあなたにはその力がないことなど先刻承知の上で私たちにそれをお願いされたのです。お分かりいただけますでしょうか。あなたにはその力はありません。でも無いからこそ、神はあなたにそれを依頼されたのです。あなたにその力があるなら神の依頼など待たずに、さっさとあなたはそれを行なわなければなりません。幼い頃、誰でも一度は親に「出来るのならさっさとやりなさい」と言われことがあるのではないでしょうか。でも今あなたにはそれをする力は無かった。でもだからあなたに神からの依頼がきたのです。できないあなただから神はあなたに頼まれたのです。私たちには力がなくても神の御手には力があります。自分の力の無さを認めることが奇跡への序曲となります。そうです羊飼いなる主は『あなたのその小さき手をも用いられる神』なのです。
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失敗は失敗じゃない

2022年06月07日 | ◆聖書の言葉
失敗は誰にでもあります。ですから悔い改めは大切です。しかしイエス様はあなたが過去に縛られて生き続けることは喜ばれません。イエス様は私たちの現実から遠く離れた所におられる方ではなく人間社会に深く関与され関心を持っておられます。そのイエス様の関心はあなたの過去ではなく今の生き方とその先にある未来です。私たちの内面がイエス様の栄光の光で照らされる時、私たちの心にある闇や絶望は居場所を失います。クリスチャンであったとしても失敗することも倒れることもあります。でも私たちには、そんな挫折からもう一度立たせてくださる、イエス様がおられるのです。ですからイエス様を信ずる者にとって失敗は経験にすぎません。それらを経験しなければ、できない働きが必ずある、それが聖書の教えです。そしてそう思えるのも、そして過去を振り切り未来へと一歩踏み出す力も、復活のイエス様への信仰が与えてくれるものなのです。『あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。』(ペテロの手紙第Ⅰ- 1章21節)
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