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雨鑑~aammee/織部正 blog

南無八幡大菩薩、ご照覧あれぃ~!

その時歴史が動いた「武田家滅亡の謎~戦国最強軍団はなぜ滅びたのか~」

2005-04-13 23:46:58 | 武者
4/13(水)

表題のNHKの番組を観た。以下番組概略を「その歴」HPから抜粋。

『武田家の滅亡は、二代目勝頼が軍団を統率できず無謀な戦いを行ったためと、言われてきた。しかし近年の資料研究からは、新たな勝頼像が浮かび上がってきた。
・信玄にも出来なかった難攻不落の城を攻め落とす戦術。
・藩政に商人を登用するなど経済にも気を配る政治力。
・仇敵をも寝返らせる巧みな外交術・・・。
しかし、そうならばなぜ、有能な2代目であったはず勝頼が武田家滅亡を導いた「無能」な2代目とされてきたのか?
 4年前「勝頼は無能」という評判の背景に、「織田信長関与」説が発表された。信長は武田軍団との直接対決を避けるため巧妙な情報戦をしかけ、勝頼を「薄情者」として喧伝。にせ情報に惑わされた武田勢は主君を信じられなくなり、内部崩壊したと新研究は分析する。
類い希な能力に恵まれながらも、信長に「無能・薄情」な主君に仕立てられ敗れた武田勝頼。そこには、名門の跡継ぎと革新者との運命的な戦いがあった。番組は知られざる武田勝頼の実像から、武田家滅亡の真相に迫る。 』

番組を観終わってからその時歴史が動いたHPを見ると、番組の内容について細かなフォローが書かれていた。放送の不足部分を補っていてなかなかよい。幾つか番組で取り上げられたポイントについて私見を述べてみたい。

信玄にも出来なかった難攻不落の城を攻め落とす戦略
天正二年の高天神城攻略のこと、および東濃侵略のことが番組で述べられていたが、信玄は難攻不落と言われた高天神城はあえてうっちゃっていた節がある。西上作戦の中で先を急いでいたため、作戦の邪魔にならなければ捨て置いたとのことだ。勝頼は信玄も手をこまねいた高天神城を落とすことで自身をアピールしたかったのかも知れない。しかし一ヶ月にもわたる我攻め(力攻め)の末の所領安堵による降伏勧告というのはいかがなものか? 先に城内に内応者を工作するとか、水の手を切るとか、攻めるにしても工夫の余地があったのではないか??

藩政に商人を登用するなど経済にも気を配る政治力
藩政って、江戸時代じゃないんだから(苦笑)。確かにこの一面を見れば政治への配慮工夫ととれる。しかし、実際は信玄晩年より軍役負担が増しており、村々での逃散も増えてきていたようだ。軍制改革の例として番組でも取り上げていた鉄砲の準備を命じたことも、武田家が揃えるのではなく家来の持ち出しとして「揃えろ」と命じているわけで、命じられたほうは高価な鉄砲を用意するのは大変な負担だったことだろう。

外交方針の問題
信長からの和睦の使いを一蹴したことが番組で紹介されていたが、現実的に考えれば「時間を稼ぐ」という選択肢もあったのではないか?拒否即答というのはあまりに下策すぎる。また、御館の乱の折の対応については北条の動きも問題だが、勝頼としては北条を敵に回すとどうなるかをもう少し考慮すべきであったろう。家康の侵略のために軍を返したということだが、ニ方面作戦の前提ができていないような気がする。予想できたことではないのか?または越後に軍の一部を残すとか…。どうも外交政策に洞察が欠けているような…。

三年の喪秘について
信玄晩年は毎年の出兵で国内はかなり疲弊していたらしい。三方原の合戦の前にある武士が「田植えの時期までには帰国させてほしい」と信玄に言った話がある。信玄もそのことは自覚していて、外征をつつしんで国内を充実させるために、三年の喪秘を遺言としたのではないだろうか(遺言の直接の意味は「信玄存命とあらば他国はたやすく攻めてはこないはず」という意味だと思っている)? 重臣たちもそのことを承知していて「遺言を守れ」と説いたのではないかと思う。

勝頼無能説について
番組で紹介されていた「信長関与説」は興味を持ってみた。なるほどね~って感じだ。ただ、これは信長の対武田戦略の一つの布石だったのだろう。頂門の一針になり得たとは思うが。「甲陽軍鑑」は全体的に勝頼(とその取り巻き)批判の調子だが、徳川幕府のプロパガンダが入っているのではないかと考えている。神君家康公に生涯最大の負け戦を押し付けた信玄は江戸時代大きく取り上げられたが、そのコントラストとして勝頼は実際以上に無能のレッテルを貼られたのではなかろうか?私は勝頼を愚将とは思わないし、それなりに頑張ったと思うが、あの時代あの環境であの相手ではよっぽど卓越した武将・政治家でなければ滅亡は時間の問題だったろう。

夫婦愛、家族愛について
番組中、不覚にもホロッときてしまったのが、北条夫人とのやりとりのくだり。「理慶尼記」からの引用だった。有名な勝頼の肖像画は戦国時代には珍しく北条夫人と嫡子信勝と三人で描かれており、家族愛の豊かな様子が見て取れる。北条夫人は武田八幡宮に納めた「武田勝頼夫人願文」によっても夫への愛情の深さをうかがうことができる。また、勝頼は戦場から身分の低い老女へのいたわりの手紙も残されており、心優しき男だったようだ。以下は北条夫人の辞世。涙を誘ってやまない。

黒髪の乱れたる世ぞはてしなき 思いに消ゆる露の玉の緒

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1 コメント

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理慶尼と織部正 (織部正)
2005-04-14 01:54:03
武田勝頼の滅亡について記した「理慶尼記」の作者理慶尼は、かつて勝頼の乳母をつとめていたそうです。また、私のご先祖様に嫁いでいましたが、実家が謀叛のかどで攻め滅ぼされたときに離縁されています。

このことはMyHomePageの「作左衛門翁夜話第二話理慶尼と織部正のこと」(http://aammee0807.hp.infoseek.co.jp/sakuzaemon/saku_02.html)に詳しく記しています。よかったらご覧ください。
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