いま、そこに、あなたが、あるのは

誰も『苦労』はひとそれぞれ。しかもすべて自分のオリジナル。つまり人間の数だけ誰にもみんな役目と役割りあって生まれてる

「統合失調症」を疾病だと思ってたら失敗しますから

2019年06月05日 | 闘病


 これは障害(=障碍)なんだと。まずここに気付いてないとマズイんです。これは病気だから治療さえ受けてれば構わない。そんな考えをしていたら、いずれそれだと、わざわざ無用な回り道までさせられる羽目に陥るんですから。更には一番大切にしたい部分まで、尽く剥ぎ取られてしまうような目に遭遇しかねないんですよね。


 よくあるのは「これは病気だから治療する。治療をして治ったら、病気になる前と変わりない生活が取り戻せる。そうすれば、他の人と同じような暮らしができる」こう考えている方がとても多いのは知っていますよ。また同時に何年経っても簡単にはそうならないので、すっかり落胆してしまい終いにはもうまるで打ちのめされたような気分に襲われてしまった方とか。これもとても大勢いらっしゃいます。


 それらの方々は、どちらも、この問題が本当は障害(=障碍)の話なのに、それを病気だという勘違いした受け止め方をさせられてることから来ているんですよ。


 それで、ここで本来なら、あり得ないような歪められた楽観論的な考えを真に受けさせられてるんだし。同時にその反動から、そもそもが味わう言われもないような失望感まで覚えてしまうんです。だからそれらは誤解が生んでいた気分なわけで。正確に捉え直していけば、どちらも最初から覗く必要なんかない穴なのですよ。


 病気というのは治療をします。それで治るものと治らないものがある。そして治せなかった場合に、これを障害(=障碍)が残りました。という見方をするわけです。


 例えばですよ、何か視力に差し障るような病気をしたとします。これを医療で治してみるけれど、どうしても充分な視力の回復が叶いませんでした。という場合に必要になってくるのは、医療で治療を続けることよりも、これからは視力が現状のままだとしても、それで生活をしていけるような福祉の上からの支えを講じていきます。という取り組みになります.





 閑話休題、日本の精神科は物量的に不足を来しているような医療レベルかといえば、そうは言いにくいはずです。だって、日本ほど十分すぎるぐらいにクスリが使える環境は世界にも例がないのだし、入院施設も世界で一番にベッド数が確保されてるくらいなんですからね。


 ただ、精神科で診てもらうもので「統合失調症」が正確に理解されているのかと問えば必ずしもそうは言えないようです。


 例えば、ここに認知症の人がいたとします。その人は、物事をだいぶ忘れるし、判断力も当てにならない様子が見受けられます。でも、だからといって、この人は何で物覚えが悪いんだろうかなとか、キチンと考えたりできないのはオカシイんじゃないかみたいには言われないし、認知症には、そういう状態の人があると周囲も考えてくれていたりしますよね。また、覚えるようにキツく言ってやらなきゃとか、間違ったら厳しく叱責してやろう、とはなりません。もしも、そんな接し方をしたら、本人も傷付くことだし、それだと困っている本人もますます気分的に追い込まれて苦しむでしょう。そんな程度には思いやったり理解もされていたりします。


 でも、ここに同じように精神の上で問題を抱えて困っている「統合失調症」の人を目の当たりにしたらどうでしょうか。その人も考えるところでは、不十分にならざるをえませんから。ときに聞こえないものを聴こえたと言ってみたり、ありえないことを考えてみたりとかも、ここでもやはり起きたりしますが。でもそれらについては、ヘンだとか、オカシイみたいに周囲から言われたりしがちで。もとより障害(=障碍)・病気と無縁な人の場合を基準にしてみて、それに照らして何かで違っていると、本人に直すように仕向けたりするし、押し付けをされたりもします。でも、いいですか、そもそも、その人がそういう具合でだいぶ違う状態になっているから、それでその診断が認められた話だというのに。それを、現実は医師の診断なんか無視するように相手をされるんです。別に本人にしたら正直なままなのに、周囲からは偏屈なまでに頑固な否定をゴリ押ししてきます。アタマから障害(=障碍)という科学的事実に対して、これを平気で踏みにじるみたいにして周囲から接してこられますから。


 これでは、もう本人にしたら、ただただ、そうじゃない状態になることしか、もはや動機づけられようがないわけです。嘘でも治ることを信じて、治すのを目標にするしか出口がないですよね。いつの日にか、そうなれないことには、もう周囲の人には理解をしてもらえないままなんだ、という事態ですから。それでは前述のように「病気を治す」の方策のみしか、もはや行き場が残されていないような状況に追い込まれているのです。


 でも、それは無理ですから。本当の意味で完治させられないのです。それはどういう障害(=障碍)であってもね。そういう性質ですよ。障害(=障碍)があるというのは。


 そうみてくると、無理解な社会が正確に「統合失調症」ということの内容は、これはやはり、もう既に公で認められているような精神の障害(=障碍)の状態にあるという意味なんだ。そう認識をするだけしかないんで。われわれのように本人の側だって、病気とか言われるけど、それは失明の原因が緑内障でしたみたいな位置づけであって。視力がない人にも社会で生活していく権利が認められているように、精神に差し障りがある人の場合も、安心して社会で暮らしていけて、当たり前に、人として遇され扱われる世界を、切に心から望んでいますから。これから、そういう社会を実現していかないと、障害(=障碍)がある側も、ない側も、自分たちが平和理に生きていかれませんから。もう、そういう発信をしていくことだけですよね。









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