いま、そこに、あなたが、あるのは

誰も『苦労』はひとそれぞれ。しかもすべて自分のオリジナル。つまり人間の数だけ誰にもみんな役目と役割りあって生まれてる

これは障害だなと気付くべきなんです。その2

2019年07月23日 | 闘病




昨日の続きを書こうと思います。前回ここで触れたのは、統合失調症が病気だとは知っているんだけれども。そこには同時に重なるようにして障害が引き起こされるという事実について、どうも多くの人が十分には理解ができていないようすではないのか。何よりも、この障害という件そのものに関しても、それをよく知らないのが原因で、ついつい無理解な態度になってしまう。


だから、そこにある偏見のせいで、勢い認めたくない気持ちが働いてしまうんであって。この病気や障害のことを触れたくない事実だとか、考えたくない問題だなんて思い込んでいたりするから、もうヤケのヤンパチ病気に任せて出鱈目な態度とかもワザととってみたりするとか。


もう考えるのも嫌になって、目を瞑りたい現実だという気持ちがあまりに強すぎてしまい、本来なら今こそ深く考えて解決を探らないと困るような問題を、まさに自分が目のあたりにしているというのに、この場面にキチンと向き合うのを避けてみたり、その相手に真面目な取り組みをするのが辛く感じられるので、とにかく困難から逃げ出したい気持ちに襲われてみたりする。


ここには、そういう困難がありますよね。そんなことを書いてみたいなと本ブログではじめてみたつもりでした。まあこれは自暴自棄になるのに近いんだけど、もっと複雑で思いは更に辛辣なところですよね。


これは病気になる前を考えてみれば、自分だって知らず知らずに世間の常識や非常識を共有している世界で一緒になって平気でやっていけるつもりで過ごしてきた意味なんですから。


そういう過去を、こうしてあとになって思い起こせばです。まずは、自分の中にあるような、物知らずや、無知だとか、誤解なんかを、ドシドシと取り除き、ゴシゴシ落としていく除去作業が、とにもかくにも第一にまず必要ですから、ということになるのだと思います。


だって、当事者じゃない人は、平気で無理解なまま、ずっと他人事のつもりだと思い続けて、馬鹿げた間違いを信じたままでいられて、それでもまだ無傷の気でいられたとしてもですよ。


今では、この場合に、その自分が当の病気・障害の本人の側に立っているんですから。まさにそういう事態に直面をしてて、遭遇していることなんですから。


このまま歪んだ見方で考えている世間の無知に付き合い続けていたのでは、どうしたって、それは自分で自分の首を締める形勢をいつまでも固持するという話になるんですから。


世間の人が持っている相手を貶めるような偏見のことをスティグマと呼ぶのは知っていますか。(スティグマとは烙印のことで、牛馬のような家畜の身体に押し付けて、これは自分の牧場の所有物だからという焼きゴテで付ける印です)このスティグマに対して、自分で自分に押し当てて我が身の価値を認められなくなるのをセルフ・スティグマといいます。


この内なる偏見は、仮にあなたの周囲の人々に理解を示すような態度が帰ってきた時にでも、いつまで経っても自分はもう駄目なんだという決めつけ方を続けるのをさせてしまうし。我が身の自信を自分の気持ちで削ぎ続けてしまうのですから、いわば出口を塞いでいるのは自分の偏見である訳です。


これが実は病気や障害の苦しさ以上に、自分に辛さとなって堪えてしまう厳しいダメージになっているんです。病気や障害に対して無知・無理解であった過去が、今度はその番が自分に巡って来たときに、悪さをしてその自分の無知・無理解が己を偏見で見てしまい自分自身を痛めつけてしまうことになるのです。




(以下、つづく)





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