いま、そこに、あなたが、あるのは

誰も『苦労』はひとそれぞれ。しかもすべて自分のオリジナル。つまり人間の数だけ誰にもみんな役目と役割りあって生まれてる

なぜ他人事というのは成立しないのか

2021年08月13日 | 日記


他人に見られたくないものを、
見えないように隠すというのは、
いろいろあったりすることですが。

見てほしくないものを
見られないようにしておけば、
外からは見られたりしないかも知れない。

でも、その見られたくないものが、
そこにあるというのは、
誰よりも隠した本人が一番よく知っています。

一度、知られないところに隠すのを始めたら、
これを知られないようにする為に、
隠さなきゃいけない事というのは、さらに増えます。

嘘をつくと、その嘘がバレないように、
また別の嘘をつく必要があるのと、よく似ています。

似ているというか、隠すというのは、
いわば嘘をつくのと同じことをするのですから。

他人に何かを黙っているのも、
それを見えないようにしておくのも、

他の人の目を騙したのと同じ意味が、そこにはある。

隠し事というのは、隠す側には意図するところがあって、
それで、敢えて「知らせない・教えない」というのをします。
そこに表面的な悪意はなさそうでも、
隠すという行為には、騙すという行為と同義に、
ある部分、悪意と見做されてショウガナイものも意味しています。

しかも自分から、
別段なにか積極的な働き掛けをした訳ではないですからと、
身勝手で好都合な名目を、大義名分よろしく担ぎ出せば、
「自分は別に悪いことはしていない」と強弁する余地も残しつつ。
そういう卑怯というか、まあ、巧妙にして、悪知恵です。

でも、人が迷惑するような問題を隠していたら、
いつまでも、そうは言い張ってもいられないでしょうけどね。

もちろん、知られることが自分に不利益な場合、
これから身を守るために、そこを知られないようにする。

言ってみれば暴力行為に対する正当防衛のような、
攻撃へ対抗する手段としての反撃なら、
腕力をふるうという行為も、一定の範囲のもとに、
それを「許す・認める」の範疇がありますよね。
でも、行き過ぎた過剰防衛にまで至るなら、
これは「暴力行為」ですし、そうなれば、
もはや防衛ではなく、攻撃そのものに、これは該当します。

だから、自分の身を守るために、
攻撃の矛先を自分以外の誰かに仕向けるというのも、
身を守る以上の過剰防衛をしているのと同じ内容がそこにある。
そこでは示し合わせて矛先が向かうようにされた相手にとって、
これは、だから紛れもない攻撃行為で暴力そのものです。
「自分は別に何もしていません」という言い逃れはできません。
そこを敢えて見て見ない振りで押し通してしまうというのが、
「虐める・虐められる」に認められる訳です。

一見、身勝手に自分都合上では、消極的に回避行動をも装いつつで、
その実、これは暴力に関しては積極的に関与をしてる立場。
もしかしたら、二重三重に卑怯な態度と言うべきです。
している側で自分の心が痛むというのは、そこがあるからです。

話を隠しごとに戻しますが、

それでは、なぜ必要以上に隠さないといけないのでしょうか。
これは、過剰な被害想定の見積もりをしてしまうから、
それで、別に隠さなくてもいいようなことまで、
何か、それを知られ、逸失利益が生じる問題ではない部分まで、
これを一々そうやって秘そうとする気持ちになると思われます。

また隠すことで不利益を減らそうと同じくで、
隠すことで得られる利益を、さらにもっと追求しようという。
そういう正当性を欠いた利益を、いかに増やせるかという。
そういう強欲な面が働いているとも言えそうです。

それはまるでアコギな商売さながらですよね。
金銭経済の利益のためなら、手段を選ばないのと同じ世界です。
食品メーカーが利益を追求するばかりに、安全性の危険度から、
自分の家族には食べさせたくないような食品を作っておいて、
売る上では、これを商売のタネにして平気を装ってしまうみたいな。
あらゆる業種で同工異曲なのが、常識だったりしますが。

結局、これだって、そこには他人事なんてありませんから。
回りまわって、全部それが自分に返ってくることなのです。
当たり前といえば、確かに自明なことなのですが。
表面的な数字ばっかり追っかけているから、
そこまで視野が届いていないようなことです。

要は、今の世の中これで動いていますから、
親は世の中みんなこうだから、「仕方がない」を、
そこで使うんですけど。
これを家の中から見て知っている家族である人間には、
世界というのは、どんだけ不信感に満ち満ちていることか。
しかも率先して生業として仕事にして平気でいられる人を、
心の底から「ヘンだ・オカシイ」と、考えているのに、
どうも世の中は、そうやるように出来ているらしいので、
そんな危うい場所に参加をする気なんて、コトゴトク失せる。
これが「ひきこもり」という身の守り方の理由だと思う。

だから、今の世相における異常な騒ぎというのも、
あるいは何らかの形で、
いつかは棚卸しするように、決済のし直しをキッチリとすべきで。
お金都合から来る行き詰まりは、考え直していかないとマズい。
誰の立場であっても、これが切実なのだろうと思います。
もちろん、どの部分を、どういう格好で、決着させたいかは、
各々、自分の選びを発揮させる問題でもありましょう。
だって、それぞれで自分の立場があるし、
そこで何を選ぶかは、これから、どうしたいか、
その部分について、銘々で考えてみる必要があるし。

ただ、それ選ぶときだって、周りから、どんな風に見られるから、
そんな風に見られたら嫌だから、そこを気付かれないように、
勘ぐられたりがないよう、こっそり何々は隠しつつで密かに行おう。
という過去のセオリーは、先にも述べてきたように、
いまの事態を招いてきた遠因というか、理由になったようだし。
そういう自分都合だけが成立させられるんだ式な一種錯覚は、
ここで、きれいさっぱり捨て去る覚悟になって、考えておかないと。

ここでは他人目線な他己基準なんかじゃなくて、
他人に囚われて、そればかりを気にしているじゃなくて、
もっと自分の素のまま、自分本来な心で感じる思いや気持ち、
そこを優先させた、感性を取り戻すのが先決です。

そこは、やはり過剰な情報に身を任せたままでいたのでは、
自分の頭で考えたり、自分自身の気持ちで感じたりするような、
そういう手間暇かけられるだけの時間が持てないと思いますよ。

話をタイトルに戻せばですよ、
あなたにとって、自分の問題というのは、
別の人にとっては、もしかしたら、それが他人事だし、
また、あなた以外の人の、他人事というのは、
これは、あなたが抱えている問題の意味かも知れませんよね。

ある人が言いました、
自分は欧米の白人を見かけたら、外人だと思っていた。
でも、自分が海外に旅行してみれば、
仏国パリでは、白人に囲まれている黄色人種の自分が、
「そこでは外人なんだ」といって、気が付きましたとさ。

自分から見て何々というのと、
他人から見て何々というのは、
そういう方向で等価でもある。

しかも、そうでありつつも、自分側と相手側がここにはある。
相手目線に自分を明け渡すみたいに同化してみたところで、
これでは自分自身が立ち行かないことになるのだから、

これはつまり、自分と、相手というのが、どう関係するかです。
そういう確かめ合いこそ、コミュニケーションや関係性であり。
それがあるのが、ここで言うところの他人と自分なんでしょう。

え。自分は家に「ひきこもってる」から別に関係ない?
うう~ん。気持ちは分からないじゃないです。
自分だって、同じようなことに陥っていましたし、わかるから。
けど、「ひきこもり」も、そうしなきゃいけない理由というのが、
自分から、部外者に身を置こうっていう試みですよね。

でも、ここで部外者というのが成立する要件というのは、
世間があるから、そういう構えも出来ていることでもあって。
家の中にいるというのと、世間が世界に存在していないとは違って、
真逆に世間の大きさを最大限に意識してるから、
そういう選択肢が存在してるような気にもなりますけどね。

これを、もっと全体ということで見渡したら、
問題は、ここで、どこにいるかじゃあなくてですよ。
自分が果たして、どういう生き方をするかなんです。
あるいは、どんな風に、したいのか、やってみたいのか、
また、試みてみたいか、取り組めるのなら、取り組んでみたいか。
だったりすることのほうなんです。

これはね。誰から見てどうかでいえば、
他人から見てみて、どうだからじゃないですよ。
真正、ほかでもない自分から見て、自分はどうしたいか。
どうしたくないか。そっちのほうです。
だから、私は、他の人を自分の働き掛けで引き出そうなんて、
微塵もないんですからね。これは明言しておく。
ただ、自分も何か、同じような時期に考えていたことは、
今だから、そういうときもあったなと感じるし。
ひきこもってる場合でも、それ以前の生活を行う時期もありました。
いま敢えて選びつつというか、選ばざるを得ずというか、

どういう風に生きているか、そっちが誰にとっても、
それが自分ですもの。

それをもっとフランクに考えたり選んだりする、
何かの足しになるのなら、そんなことは感じているから、
それで今回は、こんな風にも書き起こしをさせて戴きましたよ。

以上です。
どうもお邪魔しました。

また書きます。
では、お元気で、お大事に。
失礼致します。

大雨、そちらはどうですか。





2 コメント

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追記です。 (Unknown)
2021-08-13 14:34:53
これは他人からの見栄えで、その良し悪しの評価してるから、起きてしまう現象だと思う。もっと、取り組んだ本人サイドの充実度から推し量るのなら、上手くいったら良いに越したことはないが。もし仮に上手くいかなくても、一生懸命に頑張れば、本人は頑張ったなりに納得ずくの満足感も味わっているし、励んだ自負心も感じられるのです。だからこそ次に挑む場合でも、意欲が湧いて力を奮うことにも繋げます。だけど、第三者目線的に、結果の良し・悪しだけしか評価していない見え方へに傾くなら、何か頑張ることですら、頑張る甲斐が削がれていく。そうなれば、失敗体験は、次に繋げるどころか、何の達成感もないままにネガティブな損得勘定だけしか残さない。こういう結果に関しての悪しき功利主義が、一人ひとりの元気を食い潰し、総じて社会をギスギスとさせてしまう。そういう点で、当事者側の心情を周りが汲み取ろうとしない感覚に問題があるのだと考えられます。
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Unknown (うーさん。)
2021-08-13 20:46:11
『もっと自分の素のまま、自分本来な心で感じる思いや気持ち、そこを優先させた、感性を取り戻すのが先決です。』という文章が好きです。それがすべて☆♪と思いますよ。
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